おせっかい宣言おせっかい宣言

第110回

文化の衣と哀悼と

2023.10.26更新

 よく周囲の子どもを持つ親にも言っているのだけれど。子どもが小学生の頃まではどこに住んでもいいんじゃないか、と思っている。海外でもどこでも、たくさん引っ越してもいいし、多言語間で育つのもいい。子どもたちはどこにでも順応していくだろう。どの場所にもどの言語環境にも。でも中学生くらいの年齢、つまりは12歳からしばらく、具体的には12歳から18歳くらいまで、すなわち、ティーンエイジャーの間、というか中学校、高校の頃は、できうる限り、一つの言語と一つの文化の中で育つのが良いのではないか、と思っている。

 自らを振り返ってみればわかると思うが、この思春期から青年期に向かう時期、本来の意味での自分の基礎が作られる。友人に出会い、深く語らい、恋もして、どうしようもない気持ちも抱え、好きな音楽や、好きなスポーツや、とにかく自分が好きなものに出会い、心震える。それらは一つの言語環境の中で深く醸成されていくものだと思う。だから、この時期にたとえばイギリスの全寮制の学校で育ったら、その人は日本の文化よりイギリス文化に親和性のある人になると思うし、アメリカにずっといたら、国籍は違えど、そのメンタリティーはほとんどアメリカの人と変わらない人になると思う。

 いわゆる文化の衣、をまとう時期であり、この時期にあちこち動いて自分のメインの言語が複数になると、どの言語もある意味中途半端になってしまう可能性がある、ということは、学術上も結構議論されるようになってきたが、本当にそうだと思う。12歳から18歳くらいまでに何に出会い、何に心惹かれ、何に情熱を燃やしたか、あるいは冷ややかだったか、ということはその人の生涯にわたって影響を与え続ける。このころ、好きになったものはずっと好きだし、人生をどのように生きていこうか、この時期に考えたことを一つずつ思い出していくのがそこから先の人生のようなものだから。

 中学校に入った時のことは今もよく覚えている。兵庫県西宮市立今津中学校。山の手に行けば瀟洒な住宅が立ち並ぶ住宅地でもあった西宮だが、我らが今津中学校は、港に近い下町にあり、大変、"ガラが悪い"中学校としてよく知られていた。約50年前、まだまだ世の中の中学生の男の子は丸刈りにされていたものだが、大阪と神戸の間でそれなりに都会でもある西宮の公立中学校はほとんど丸刈りを中止していたというのに、市内で今津中学だけが丸刈りを継続していた。母子寮、被差別部落をはじめとする様々な生活困難を抱える人たちが集まっている地区で、学力のレベルは高いとは言えなかった。そこで私の目の前に開かれた世界の中で、今も生きている。

 谷村新司が死んだ。7時のニュースでその死が報道され、中国の国営放送でも、中国のあのいつもの広報担当のお姉さんが公式見解としてお悔やみを述べていた。アジアの代表的ミュージシャンであったのだ。74歳はあまりにも早過ぎる。

 数えきれない日本人にとってそうであるように、わたしにとっても、ただ、青春の人であった。ラジオ深夜放送、フォーク、ポップス、音楽の世界、すべてをひらいてくれた、お兄さんであった。今津中学校に入ったばかりの私は、12歳にして、谷村新司に世界を開かれた。小学校を出て、文化の衣をまとい始め、人を恋することも覚え、なんだか大変な世の中、というものも、その構造をはっきりさせ始め、一体どうやって生きていったらいいのだ、こんな世界・・・と思っている下町の中学生に、谷村新司は語りかけることができる人だった。早熟だった我々は、当時最も新しいものはラジオの深夜放送にあると思っていて、夜中の1時から5時までM B Sのチャチャヤングという番組を聞き、そのまま、中学校の部活の朝練に参加し、学校で寝る、というような生活を送っていたのである。谷村新司は、のち、ヤングタウン、そして文化放送セイヤングなどのパーソナリティーをして人気を上げていったと記憶しているが、我々にとっては、チャチャヤングの時代に、すでに大スターであった。中学2年になった我々の最もホットな話題は、ロックキャンディーズだった谷村新司が結成したアリスのことで、「走っておいで恋人よ」で、ギターのスリーフィンガーを覚えたりすることだった。この曲、今でも好きだ。谷村新司は、チンペイさん、と呼ばれていた。今もそうだと思うけど。野末陳平が好きだったから、だったと思うな。真似して黒いサングラスもかけていた。

 アリスは、デビューしたけど、全国区ではあり得ず、しかし、関西ではスターだった(のは、アリスだけじゃなくて、赤い鳥とか、河島英五とか、ばんばひろふみとかやしきたかじんとか、みんなそうだった)。今はなき神戸三宮の百貨店、そごうのそばで、道端ライブみたいなこともやっていた。アリスが、歌うってよ、見に行かなくちゃ、と、みんなで行ったのである。あのころのチンペイさんは顔に自信がなく、黒いサングラスをかけて帽子をまぶかにかぶっていた。声はご存知のように、誠に良い声で、深夜放送を通じておなじみだけれど、その頃、谷村新司のサングラスなしの顔とか、見かける機会すらなかったように思うから、正直言って、顔がよくわからなかったくらいだ。アリスになって、ファーストコンサートは1972年西宮市民会館。わたしが中学2年生のときのことである。西宮市立中学の2年生は、いくら市民会館とはいえ、チケットなど購入できず、誰も行けなかったが、話題沸騰、であった。お金のある子がアリスのファーストアルバムを買い、「明日への讃歌」に心震わせ、学校の廊下で「アリスの飛行船」みたいな能天気な曲をみんなで歌ったのだ。プロコル・ハルムもジョニ・ミッチェルも斉藤哲夫も井上陽水もみんなチンペイさんに教えてもらった。C Dはおろか、カセットテープすらない時代で、チャチャヤングの最終回は、家にあったなんとオープンリールのテープレコーダーで直接マイクで録音したのであった。今はもちろん、テープもテープレコーダーも影も形も無いけれど。

 そんなチンペイさん、80年代、90年代、日本にいなかった私が帰国すると、歌謡界を代表する大スターになっていた。帽子もサングラスもなしで、右手を高く上げて、堂々と(あたりまえだ)、『昴』をうたいあげているチンペイさんをみて、ああ、よかったな、自己肯定感上がったじゃん(自己肯定感という言葉は当時はまだ馴染みのある言葉ではなかったが)と、お兄ちゃんが出世したように喜んだ。関西の若い人間は、ずっと日本にいても、みんなそう思っていたに違いない。

 ラジオパーソナリティーの中でもその「いい人ぶり」はきわだっていた。本当にいい人、いいおにいちゃん、心を開いて接してくれて、頼もしい兄貴。そのまま世界に出て行って、そのまま駆け抜けたと思う。20代に人間は出来上がっている。あの語り、あの心の寄せ方、あの音楽への愛情、ずっと持ち続けて50年を駆け抜けたのだろう。さようなら、チンペイさん。私のティーンエイジに、豊かな衣をかけてくれた人。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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