おせっかい宣言おせっかい宣言

第115回

時間がない

2024.03.30更新

「時間がない」と急ぐこと、あせること、は、もはや現在の日常すぎて、いまさらとりあげるのもどうか、と思うくらいだ、と認識されるであろう。全く時間がない、時間がない、時間が足りない・・・、と、皆様、思っておられることであろう。人類は、重労働を軽減するために、いろんなものを発明し、開発し、洗濯機も掃除機もパワフルに日々働いてくれているというのに、それらが、わたしたちの「時間がない」問題を解決することはなく、いっそう、時間がなくなるのは、どうしたことであろうか。

 長く女子大教師をしてきたが、この「時間がない」問題については、時間がなくてレポート書けない、時間がなくて提出物間に合わない、時間がなくてプレゼン用意できない・・・まあ、いろいろあった。そういう日々の問題とは別に、よく学生たちからきいたのは、「今でもほんとうに、全く時間がなくて、じぶんのことだけで追われているのに、これでパートナーができたり子どもができたり、などということは、全く考えることができません」というコメントであった。いまこれだけ、仕事と家庭の両立、仕事と子育ての両立が、たいへんだ、たいへんだ、たいへんだ、と言われている今、若い女性たちが心配になるもの仕方がない。今、こんなに大変なのに、共に暮らす人とか、面倒を見る人ができたら、一体どうすれば良いのか、自分の時間はどうなるのか、と思ってしまうのであろう。で、実際、たいへんな思いをしている人も少なくないことも、知ってはいるのだが。

 でも、あえて、若い世代の方々には、だいじょうぶだよ、今のあなたのままで、対(つい)の暮らしをはじめたりするわけでもないし、今のあなたのままで子どもを育てたりしなければいけないわけじゃないから。あなたはこれから変わるから。結婚したら、変わるし、子どもができたら変わる。今の能力とは違う能力が発現したりする。あなたは変わるのである。今のままの自分と同じではないのだ。ひとりで生きているときは3時間くらいかかったような仕事が、年を重ねて家族が増える頃には30分くらいでできるようになることも、まま、あるのだ。だから心配することはない、と言ってきた。だいたい、自分が、いま、経験していないことに対して、「たいへんだよ、こわいよ、つらいよ」と伝えていると、どうやったって、そういうことをやろうという気になれないのではあるまいか、次の世代は。 「ヒューマン・セクソロジー」という授業を通年で担当していた。性と生殖に関する講義なのだが、とにかく、「恐ろしい」ものである、という印象を与えないようにしていた。とはいえ、性感染症とか妊娠中絶とか、聞いていてうれしくないようなことも話さなければならないのではあるが、それでも、できるだけ、「呪い」の言葉は吐かないようにして、性と生殖を喜びの言葉で語れたら・・と努力していた。

 そもそも性と生殖に関わることは、実際に自分が経験するまでは、不安でたまらないものである。一体どういうものなのか、想像するだけでは、その不安は払拭されない。しかし、一旦経験してみると、なんとなく自分の日常として受け入れていき、静かにそれらの経験になじんでいくものなのだが、経験しないうちはどうにも不安なのだ。初潮を迎える前、一体生理というものがどういうものなのか、少女たちは一様に恐れていたものだ。ある時突然、出血するのか、それは、どっとたくさん出るものなのか、一体どこから出てくるのか・・経験してない時はわからないけれど、ほとんどの女性は、ちょっと黒っぽいしみが下着についているのに気づいて、ああ、これが生理というものか、と対応していくことがほとんどである。性行為だって、妊娠、出産だって、赤ん坊を育てることだって、やっていないときは、一体どんなことだろうか、と疑問符ばかりが増えていくが、おおよその人はやってみれば、ああ、こういうことだったのね、と納得して次に行くのである。その経験の前と後の、そのことへの受容の態度のかわり具合は驚くべきことで、よく、こんな今までやっていなかったことを受け入れていけるものだと思うが、なんとなく受け入れ、着地していくのだ。そうであれば、前の世代は、あれも怖いこれも怖いあれは危ないこれにはこんな危険がある・・・というようなことばかり述べて怖がらせることは、のちの世代への励ましにはならない。なんとか希望の言葉で語りたいものだ、と思っていた。性と生殖を。

 まあ、それはそれとして。「時間がない」の話に戻ろう。確かに時間はない、しかし、時間は伸び縮みする。そうとしか言いようがない。アインシュタインもそう言っている。物理学によると、時間と空間は一体でともに、伸び縮みするのだというではないか。物理学に言ってもらわなくても、誰でも自分がおこなってきたことを振り返ってみると、気づくところがあるのではないか。未来のこと、つまり、今よりも先のことを考えてしまうと、ほんとに、時間が足りないのだが、過去のことをふりかえってみると、よくあの大変な時期にこれだけのことをしたなあ、どこに時間があったのだろう、と思うことは、しばしばあるのではないか。機械的に時間を足していっても、足りない、それらの時間でできたこととはとても思えない、と。

   定年をまたず大学を退職するので、20年使った研究室を片づけた。小さな女子大のまことに小さな研究室なのではあるけれど、よくこれだけのものが入っていた、と感心するくらい次から次にものが出てきて、捨てるだけでも大変である。研究室のものだから、あるのは、本と報告書、論文、書類、そして、私は研究の専門は「疫学」という分野だったから、山のように質問票の類がある。それらを全部、処分していくのだ。手に取った参考書や論文や書類に見入ったりしていると、片付けの時間は無くなるから、つぎつぎ処分していく。それにしても、どこにこれだけのことをやる時間があったのだろう。

 この20年は、仕事の上でもたくさんのことをさせてもらえる時期だった。大学の先生というのはまずは研究職だから、研究を遂行していく仕事、そして、大学には学生がいるから、教育、という仕事、そして、大学教員には、ずっと昔には「雑務」とかひどいよばれかたをしていたこともあった「学務」とよばれる入試とか教務とか広報とか大学運営一般に関わる仕事、がある。研究については、政府の科学研究費とか厚生労働省とかトヨタ財団とか子ども家庭財団とかいろいろなところに助成していただいて、大きなコホート研究からおむつなし育児にいたるまでいろいろなことをしたし、博士の院生も何名も出し、三年間付き合うゼミ生も250名くらい出したし、授業もいっぱいやったし、学科の運営や大学組織のあり方にもいろいろかかわった。その間、40冊くらい本も出したし、子どもたちも育ったし、父も義母も夫も看取ったし、引っ越しも三回したし、いやあ、いろいろあった20年、これ、時間を足していっても、たりない。いろいろやってすごいですね、と言われたいのではなくて、誰の人生でもふりかえれば、よく、この期間にこれだけのことができた、と思えることはよくある、ということが言いたいのだ。時間は、そこでは、ぐーんと伸びていた、としか、いいようがない。時間は伸び縮みするから、時間が足りない、とか、あのとき、あせったりしなくてもよかったのだ、きっと。

 ああ、それなのに・・・。今、片付けと、東京の家の引越しのあれこれで、時間が足りない。ぜんぜん、足りない。誰か私に言ってくれ。時間は伸び縮みするから大丈夫、ちゃんと引っ越せるよ、と言ってくれ。アインシュタインからのメッセージが待たれる朝である。「時間と空間は伸び縮みする」。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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