おせっかい宣言おせっかい宣言

第119回

縁起が悪い

2024.07.29更新

 縁起が悪い、とか、もう、あまり言わなくなった。幼い頃には、あれこれ、親や祖父母から言われたものだが、祖父母は20世紀になったばかりのころに生まれた人で、両親は1920年代とか30年代の生まれなのだから、思えばもう、かなり昔の方々である。新しい靴を買ってもらうと、つい、うれしくて、新しい靴だから家の中で履いてみたりしていたが、家の中で新しい靴を履いたままで、そのままぴょん、と、外に出ることは、厳に禁じられていた。かならず新しい靴は玄関に置いて、そこで履いてから出ていかねばならなかった。家の中で履き物を履かせて家を出て行くのは、死んだ人だけだ、ということで、縁起が悪い、と言われていたのだ。

 前回の連載に続き、日本で最初に弁護士になった女性をモデルにした2024年春のNHK、朝ドラ「虎に翼」話題である。大変好評で、視聴率も大変高いとか。本当にいいドラマである。テンポが早くて、すでにずっと前のことになってしまったけど、あれは、7月初めの頃くらいか、戦後日本で初めての家庭裁判所ができて、それを記念した「愛のコンサート」を開くことになった、という場面があった。笠置静子さんモデルのひとつ前の朝ドラ、「ブギウギ」に登場していた菊池凛子さん演ずる"茨田りつ子"さん(モデルは淡谷のり子さん)が出演することになって、私を含む視聴者は、大変、ワクワクした。で、彼女が楽屋でブルーの長いドレスをきているところに、主人公のとらちゃんが話しかける。そして、彼女のドレスの裾が綻びていることに気づく。主人公とらちゃんは、かばんから裁縫道具を取り出して、茨田りつ子さんに話しかけながら、そのまま、ほころびを直していた。「私、裁縫はあまり得意じゃなくて・・・」とかいいながら・・・。

 え、それは、ちょっとないでしょう・・・とドキドキしてしまったのは、現在65歳の私以上の世代だろうか。これは、ないよな、これは、縁起悪いよな、これは、ぜったいやっちゃいけない、って言われたことだったよな、と思った。着ている服、つまりはだれかが着衣のまま、縫うことは、厳に禁じられていた。これも、亡くなった人にやることだから、である。

 そうはいっても、出かけるときに、ボタンが取れているのに気づく、とかあるし、脱いでいるヒマがないときだってあった。そういうときは、我が実家(兵庫県西宮市)では「となりのおばさんが死んだから、早よ、行かな、ならん」と言いなさい、と言われていた。地方性はなく、単にうちの実家で言っていただけかもしれないが・・・。顔の見えている、となりのおばさんを、そんな目に合わしたらあかんのとちがうか、と、こども心にも思っていたし、母も、隣のおばさんには、申し訳ない気、するなあ、みたいなこといってたけど、それはそれ。これはおまじないなので、「とにかく、急いでるんで、堪忍して」みたいなおまじないで、「隣のおばさん死んだから、早よ、いかなならん」、をなんどもつぶやきながら、着たまま、ちゃちゃっとボタンをつけたりしていた。つまりは、「やってはいけない縁起が悪いこと」だから、おまじないで厄払いしながら、こっそりやらせてもらう、というかんじである。基本的には、やってはいけないことなのだ。

 このおまじないはちょっと調べてみてもいろいろあるようで、地方によっては「脱いだ、脱いだ、脱いだ」とか3回言いながらやる、というのなどいくつかバージョンがあるようだ。ともあれ、縁起が悪い。だいたい縁起が悪いだけではなく、これは、危険なことである。いくら気をつけてやるとはいえ、生身の人間が着ている服に針を通すことは、危ない。どう考えてもやるべきではない。不具合に気がついて、その服を脱ぐような時間もないようなあわて方自体を、本来は、してはいけないものである。

 芸能界とか舞台というのは特別なところだから、ひょっとしたら、芸能の楽屋では、あ、綻びに気がついた、と言ったら、着たまま直すことも、あったかもしれないな、とは思うが。それでも逆に、芸能や演芸の世界は、神様への奉納とか、人と神様が一体になるとかそういうことに日常よりも近い世界だからこそ、いっそう、ゲンを担ぐというか、縁起が悪いことはなるべく避けるとか、そういうことが普通の生活より徹底していたところもあるんじゃないか、とも思う。

 どちらにせよ、あの時代、常識ある家で育ったと思しき、とらちゃんのような女性が、そういうことを知らないことは考えられない。出演者の裾の綻びに気がついても、それを針をだして着たまま縫いましょう、ということには、まずならないんじゃないか。それに出演者の方も、おそらくその時代なら、いや、それは縁起悪いからやめて、というだろうし・・・。とにかく、楽屋にいた女の子が、出演者のすそを裁縫道具で直すというセッティングは、とても考えられまい。おそらく、裁判官をするようなキャリア女性でも、裁縫道具は仕事かばんに忍ばせている、というところがドラマのポイントだったのだろうとは思うのだが、ちょっと、考えられない。この場面が特に問題もなく、大人気の朝ドラの映像として流れた、ということは、このドラマ制作に関わる全ての人は、この場面に特に違和感を感じなかった、ということである。要するに、時代が変わったのだ。私が古い人間なだけなのだ。

 縁起が悪い、とか、まじない、とかを無知蒙昧な科学的根拠のないものとして、一つ一つ別に怖くない、大丈夫、と思いながら、踏み越えていったのが、今の私たちの生活だ。夜も闇はなく、電気は煌々とついて胡乱なものが隠れる場所はない。あやかしやまじないや妖怪やこの世のものでないものは、アニメやゲームの世界で大活躍するばかりである。

 友人女性は、ある伝統的な地方で13代続いた女系家族の末裔であった。その家の女たちには「虫きり」が伝承されていたらしい。「かんの虫」を「きる」のである。そういえば幼い頃には、よく近所に「虫きり」という小さな看板の出ている家があったものだから、日本中にそういうことをする人がいたのであろう。赤ちゃんや幼いこどもに「かんの虫」がつくと、きいきいいったり、夜寝なかったり、癇癪を起こしたりする。要するに扱いにくい赤ちゃん、幼児の状態は、「かんの虫」が起こしている、と、考えられていて、その虫をきれば、子どもは穏やかになる、と思われていた。今も売っている宇津救命丸と樋屋奇応丸も、昔からかんの虫に効く、と言われていた薬だったのだ。

 友人によると、かんの虫きりをすると、子どもの人差し指の先から、ほんとにニョロニョロふわふわした白いものが出ていたらしい。「それはみていました」と彼女はいう。本当に出ますよ、必ず出ましたよ、で、お母さんは安心して帰るんです。私は母から習わなかったんですよね、習っておけばよかったですね、13代続いた家も、自分で終える、と結構、冷めた目で見ていましたからねえ。

 彼女に子どもはいないので、文字通り13代続いた女系家族もここまで、ということらしいのだが、それとともに伝承されていたものもそれに付随して、終わる。そんなことは日本中どこでも起こっていることだろうとは思うものの、彼女の母たちによって、子どもの体から出されていたような、かんの虫たちは今はどうしているのだろう。きられることもなくなって、我が世の春とか、謳歌していなければ良いのだけれど。縁起が悪い、とか、まじない、とかでなんとかしていたものを、科学的根拠とか、最新医療とか、精緻なシステム、とかで代替してきている私たちの暮らしではあるが、まだまだ13代続いた時間の重みにはたどりつけていないような気もする。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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