おせっかい宣言おせっかい宣言

第120回

よく眠れる

2024.08.26更新

 全く見知らぬ場所で、生活を始めようとする、ということを何度もやってきた。生まれたのは山口県光市、母の故郷で、育ったのは兵庫県西宮市、父の出身の地である。そこから住まい、として住んだのは、京都、ザンビアのルサカ、東京都北千住、埼玉県三郷、那覇、ロンドンのコベントガーデン、フィンズベリーパーク、パディントン、ブリクストン、ブラジル南部のポルトアレグレ、北東部のセアラ州フォルタレザ(4回引っ越している)、東京都板橋区、小金井市、国立市、そして現在住んでいる八重山の竹富島、である。数週間、一か月の単位の滞在で暮らしてきたところはもっとある。細かく数えていないが、ざっとみただけでも二十回くらい引っ越している。やりすぎである。そのうち多くは、一人での引っ越しではなく、家族と共に動いていた。片付けにも準備にもかなりの労力がかかっただろうと思いはするのだが、その時その時の必要性にかられて動いていたのであろう。どこにいっても、程なく落ち着く、というか、英語で言うsettle downという言い方が一番しっくりくる感じになって、共に動く人々やものと新しい住まいと土地になじんでいくのである。

 そのなじむプロセスの一つに、夢、があった。20代からずっとそうだったのだが、いつも引っ越した後は数日から1週間くらい夢を見る。長期にわたる出張の時も同じだ。新しい土地、新しい住まいで眠ると、一人でいても、家族といても、同じように、幼い頃からティーンエイジャー、具体的にいうと中学生くらいまでの夢をみる。克明な夢である。幼い頃に母に背負われて見下ろした土手の風景とか、幼稚園の頃の友人とか、小学校の講堂の屋根裏とか、普段は思い出すこともないような細かな情景を夢に見る。こんなことを覚えていたのか、と、目覚めてあらためてびっくりするような内容である。どれもカラフルな色付きの夢で、はっきりしている。幼い頃から順番に見る、という系統的なものではもちろんなくて、ランダムにいろいろみているのだが、とにかく幼い頃や子どもの頃の夢を見続ける。そして大体1週間くらい経つとそういう夢を見なくなる。夢を見なくなる頃には、新しい家になじんできているのである。自分の中の新しい場所への定着のプロセスの一つ、というようなものだな、と理解してきていた。

 新しい土地にうつって眠れなかった、ということは、ほとんどない。だいたいが、大変ラッキーなことだと思うが、眠れない、とか、不眠、ということが自らの問題になったことがほとんどない。ある年齢になると、眠れない人は本当に多くて、とりわけ属していたアカデミア関係、つまりは大学とか研究所とかで仕事をしているような「研究職」の人は眠れない人が多い。この手の職業は、はい、仕事はここで終わり、という区切りがつけにくい職種だからかもしれない。考えたいこと、やりたいこと、は延々と続き、今日のピリオドを打つことが難しかったりするから、眠れなくなる、という気持ちはわかる。長く住んでアカデミア関係の人と一緒に仕事をしたのは、イギリスとブラジルと日本だが、どこでも同僚たちは眠れない悩みを抱えており、就眠剤を手放せない人がまことに多かった。二人の息子の父親であるブラジル人の元夫も、医者で研究の同僚でもあったが、30代で出会った頃から一貫して就眠剤を飲み続けている人だったし、ロンドン大学の上司の統計学者も、薬なしに眠れない人だったし、日本の大学の同僚でも就眠剤を使って、しかも寝る前には本を読まないと眠れない、という人が何人もいた。そんな中で、申し訳ないくらい、寝つきが良い。配偶者以外も、親しい友人などとは一緒に泊まることがよくあったが、「ついさっきまで話をしていたのに、突然返事しなくなる。ふと見ると、あんたは、寝ていた」という内容のことを何度も、指摘されている。感覚から言うと1、2、3で眠りに落ちるくらい、すぐ寝落ちしてしまう。ありがたいことに、眠れない、ということは人生の悩みになったことがないのである。 

 大体、徹夜というか一日一睡もしない、ということを生まれてこのかた、やった記憶がない。仕事が立て込んで寝ている暇もないとか、人生でたいへんなことがあって、つまりは生老病死に立ち会ったり付き合ったりすることも、ある程度の年齢になればいくらでもあったし、夜を徹して行う祭りにも参加したこともあるのだが、途中でどうしても1時間か2時間でも寝ないと、もたない。というか、どうしても寝てしまうのである。  

 冒頭に書いたように地球の裏に住んだりしているので、時差のある地域を往復するのが仕事だった時期もあるのだが、時差ボケでつらかった経験もあまりない。というか、そういうことがあまりつらくないので、そういう時差のある国を行き来するような仕事もあまり苦ではなくできた、だから国際保健ワーカーになった、という方があたっている。時差ボケになるというのは、要するに夜に寝られなくなるのでつらいのだ。寝るべき時間に寝付けず、朝を迎えて、もともといた場所の夜になるような時間に眠くなってしまうのが時差ボケである。ありがたいことに、どのような移動を行なっても、夜になると寝付けるので、時差ボケしないのだ。もちろん人によって違うので、アドバイスなどありはしないが、あえていうとすれば、飛行機移動中はできるだけ眠らないようにしていて、目的地についても昼間なら、がんばって起きていて、夜になったら、寝る、というふうにする、という感じだろうか。ついたところの夜に横になって、寝られてしまえば、時差ボケは一日で解消する。つまりは、時差ボケのあるような国につくときは、そこの昼間や日のあるうちに着くようにすると、がんばって夜までなんとか起きていればいいだけだから、時差ボケ調整は、自分では割とやりやすかったとしか言いようがない。

 時差ボケで寝付けなかったこと、眠れなかったことはないが、うるさくて眠れなかったことはある。コンゴDRCの首都、キンシャサで、まあ、レベルで言えば中程度のビジネスホテル、というか研究者仲間がたくさん泊まるようなホテルに泊まったことがあった。鍵の調子が悪いなと思って鍵をガチャガチャしていると、鍵ごと取れてしまった、とか、まあ、そういうレベルのホテルだから高級ホテルではない。でも中庭もあって、なかなかフレンドリーなホテルで地元の人が結婚式やお祝いに使うようなところだった。ある時、結婚式が行われていたが、これが、終わらない。夜になるとまさにリンガラ・ミュージックが大音量で流され、えんえんとみんなで踊っているようす。こちらは寝たいのだが、寝るどころではないのだ。こういう時は、やあやあ、おめでとうございます、とか言って、降りていって一緒に踊ればそれでいいのだが、リンガラ語もフランス語も心もとないまま、到着したばかり・・・の時、疲れてもいるし、降りていって踊る気力は、なかった。こういう時に最も役に立つのは「耳栓」である。時折、長距離フライトの飛行機で配られることもある、ふわふわしたスポンジ製の耳栓。大音響のリンガラ・ミュージックは耳栓くらいで耳に入ってこないはずもないのだけれど、まあ、こちらは眠れないのだから、耳栓は、眠る助けになる程度にはリンガラ・ミュージックを中和してくれたのであった。この時から、国内外、どこにいく時にも耳栓はポーチに入っている。親戚みんなで寝て、誰かがいびきでうるさくても、これで心配ありません。最近、夜中に、地震とか北朝鮮ミサイルアラートが鳴るので、それが聞こえないのは困ると思ったりするが。

 初めての地に慣れるまで、幼い頃の夢を見続ける、という話をしていたのだ。しかし、今年の4月、65歳にして伝統建築を建てて移り住んだ、八重山竹富島の家では、引越し初日からぐっすりと安心して寝ていて、一連の幼い頃の夢は、全くみていない。魂の安住の地、というのは、あるのだな、と思う。この家が生涯で最も長く住んだ家、になるくらい、長生きしたい。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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