おせっかい宣言おせっかい宣言

第127回

隠れられる場所

2025.03.07更新

 2024年3月まで私の職場だった津田塾大学小平キャンパスは、ほんとうにいいところだった。20年働いたのだが、ここで働けて良かったな、と思う、実に良き場だった。その理由はいろいろある。日本で最初の女子留学生が女性がより良い生き方をするために1900年に創立した女子英学塾が元になっていて、100年以上、その願いをつみかさねてきたから、とか、スタンド・アローンであることを誰も妨げなくて、女子大なんだけど、別にグループ作る必要もないし、一人でいても、一人で弁当食べていても、全然平気、な雰囲気である、とか、たいした人数はいないから、学生と教員の距離は割と近い、とか。しかし何よりすばらしいのは物理的なセッティングだったと思う。

 東京都23区からはるかはなれた武蔵野の森、小平市にあり、こじんまりした大学だから広大なキャンパスとは言えないが、1930年代に麹町から移転してきてもうそれだけで100年近くなるので、歴史的な重みのある場所になっている。何より、ここが素晴らしいのは、隠れる場所がたくさんあることだった。私は教員だったからもちろん、自分の研究室(サイズとしてはまことに小さかったが)があって、そこは扉を開けると小宇宙で、たくさんの私の思いと、それに連なる先人と同僚たちのしごとへの入り口であり学生や同僚たちとの親しい出会いの場でもあった。そういう場所を持っていたが、そうでなくても津田塾大学には一人になれる場所がたくさんあり、一人でいることが似合う雰囲気に満ちていた。

 丹下健三作で、建築関係の皆さんには重要な建物らしいが、大学としては建て替え計画をしている図書館は、その、隠れ家の代表のようなところだった。ここにはたくさんの机と椅子があり、試験前や卒論提出前といったみんな机に向かいたくなるような時期でも満員だったり座れない、ということがないだけのスペースがあった。図書館には珍しいと思うが、書庫が開架になっていて、5階まで続く全ての書庫にアクセスすることができた。100年続いた図書館の本の森に埋没する幸せ、というのがある。誰にも会いたくなければ、図書館に行って、本の森にこもっていることもできたのだ。書庫の隅に、作業する机もあって、そこはまさに隠れ家だった。

 東京都の歴史的建造物に指定されている本館ハーツホンホールはステンドグラスの光の陰影や、どっしりとした階段のたたずまいが美しくて、屋根裏のような教室があったり、こんなところに部屋があるのか、というところに部屋があったり、中庭をのぞむ教室にふと入ってみても、なんともいえない安心感があったり、この建物自体に隠れられるような場所もあった。冬が終わると、津田梅子墓所の梅林がたくさん花をつけ、春になるとグラウンドの周りは、ここにくればどこにお花見に行く必要もないくらいの見事な桜に囲まれ、秋の紅葉の美しさは息を呑むくらいあざやかで、そんな自然の中にも隠れていることができる場所があちこちあった。

 いつだったか大学の受験生向けページのインタビューに出たことがあるが、「あなたの居場所があります」ということを言った。大きなキャンパスではないが、たくさん、一人で隠れていられるところがあり、また、友人と一緒にいたいときもそういう場所がある、と言いたかった。ゼミ生になってくれた一人に、この文章を読んで、津田塾の受験を決めました、私には居場所が必要だった、そして居場所が見つけられた、と言ってくれた人がいた。こういう人が一人いれば、インタビューを受けた甲斐があるのである。

 人は成長していく上で、一人になる場所、隠れられる場所、が必要だと思う。新訳『ナルニア国物語』の冒頭に、ロンドンの棟続きのテラスハウスに住む女の子、ポリーの家の屋根裏の話がでてくる。屋根裏の納戸を開けるとギザと呼ばれる貯水タンクがあって、その奥にレンガ壁と屋根にはさまれた暗い場所がある。屋根のすきまからのあかりもさしている。そこに宝物を置いたり、物語を描いたり、リンゴをもちこんだりして自分の隠れ家を楽しむ。そこから物語が始まっていく。わくわくするような「隠れ家」ストーリーである。

 日本の一軒家にも、もともとそういう、屋根裏や裏の三畳間の押し入れ、など、子どもが一人で隠れられる場所がたくさんあった。そして、大人たちもそれなりに人生が忙しくて、子どものために空いている時間のすべてを使えるわけでは毛頭なく、子どもは子どもの世界に居てもらいたいと思っていたり、上の子が下の子を見ているだろう、くらいの感じで、子どもをずっと注視していたわけではなかった。つまりは、子どもが家の中にいるのなら、家の中のどこにいるのか、大人は粗探ししなかったし、子どもがどこかに隠れていても、親はことさらに探しはしなかった。私が育った家は、決して立派な一軒家ではなく、30数坪の土地に戦後の物資不足の中で材料をかき集めて作ったという小さな二階屋で、しかも幼い頃に引っ越してきた時は祖父母や叔父叔母やいとこなどとにかくたくさんの人が住んでいたのであるが、それでもわたしは廊下の隅とか、階段の下の押し入れとか、狭い庭のすみなどに自分だけの場所を見つけることができた。

 集合住宅は、住宅難の都市には必須の住環境である。私自身も公営住宅、公団住宅から文化住宅に普通のマンションまでいろいろ住んだが、今はっきりとわかるのは、こういう集合住宅には、「隠れる場所がない」ということだ。もちろん「自分の部屋」というのを持つことは可能だが、隠れる空間のくぼみ、というか、影というか、そういうものがないのだ。こういうところでは隠れられないから曝け出して生きるしかない、と今になればわかる。都心のマンションは高騰を続け、良い場所にある防犯環境や住環境の整った集合住宅に住むのは、今や夢の一つかもしれないのだが、それでもやはり・・・。そして、一軒家に住むなどという贅沢はとても考えられない、という言い方もまた、わかるのだが、それでもやはり・・・。集合住宅、というのは厳しい環境である、と今になると改めて思う。集合住宅はいくら防音がしっかりしていても、人の気配は密集している。一つの土地の上にたくさんの人が住んでいるから、気配、は消すこともできない。人の気配を感じながら暮らす、というのは慣れればできないことではなく、実際できるのだけれど、それはやはり、本当はきついことなのだ、

 そして再度書くことになるが、集合住宅には隠れるところがない。いわゆる団地、マンション、はかなり広くても、必要ではないくぼみとか、空間、というのは、作らないものだ。しっかりとしたLDKは、図面の通り、隠されるところもなければ隠すところもない。そういうところで、今の若い人たちは育ってくる。さらに、今は親が子どもから目を離していることはない。幼い子どもは何をするかわからないからそして何か起こったらそれは全て親の責任だから、親は目を離すわけにはいかない。以前は、何をするかわからない年齢の幼児は、母親は背中に背負って家事をしていた。その後、もう少し大きくなると、子どもは子どもたちの世界の中におり、親との時間はそれほど交錯しなかった。

 しかし、今はそうはいかない。幼い子どもの親たちは、危険でいっぱいの暮らしの中、子どもから目を離すことができず、子どもがいる時は子どもの相手をしなければならない。子どもがどこか親の目の離れたところに行って隠れている、とか、年齢にもよるとはいえ、ほとんど不可能であり、物理的にできないし、やったら親が心配する。だいたい2L D Kか、広くて3L D Kくらいのマンションで子育てをしていることを考えると、家の中は全てお見通しの空間であり、そこに隠れることができる隙間もなければ、空間もない。子どもはいつも親の目に晒されている。

 自分が子どもだった時のことを考えると、子どもは一人の時間が必要なものだし、一人の空間が必要だ。あの世からやってきた魂が小さな子どもの体にいい感じでフィットするためには、子どもには、時間と場所が必要なのだ。誰も知らない小さな空間に一人で入り、思索し、あちらとこちらの間の世界の感覚を探りながら、また、こちらの世界へ戻ってくる。

 そのプロセスは誰にも知られずに一人で行うものなのではないか。幼い頃から親の目の届く範囲にいて、保育園に通い、幼稚園に通い、学校に通い、帰宅してからは塾やお稽古ごとに通い・・・。そういう生活が厳しいな、と思うのは、ぼうっとしている一人の時間を保つことがとても難しいからだ。

 冒頭に戻る。隠れる場所があるような大学の話をしていたのだ。隠れる場所も時間もあまりないままに幼い時間を過ごさなければならない現代、「自分の部屋」、とは次元の違うところで、隠れられる場所、一人になれる場所、というのが、のちになっても必要なのかもしれない。大学という場がそういう場所を提供できる、ということの、一人の人生にとっての重要性について、あらためて考え込んでしまったのである。

三砂 ちづる

三砂 ちづる
(みさご・ちづる)

1958年、山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。沖縄八重山で女性民俗文化研究所主宰。津田塾大学名誉教授。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。著書に『オニババ化する女たち』『女に産土はいらない』『頭上運搬を追って』など多数。本連載の第1回~第29回に書き下ろしを加えた『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』(ミシマ社)が2016年11月に、本連載第30回~第68回に書き下ろしを加えた『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)が2020年5月に発売された。

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