第9回
斎藤真理子さんインタビュー「韓国文学の中心と周辺にある"声"のはなし」前編
2024.11.22更新
2024年のノーベル文学賞受賞者は、韓国の作家ハン・ガンさんでした。今、韓国文学はこれまでに増して世界的注目を集めています。
ハン・ガンさんの作品を最も多く日本語に訳してきたのが、翻訳者の斎藤真理子さんです。
斎藤さんは、今年8月に上梓した『隣の国の人々と出会う』(創元社)のなかで、韓国文学を深く知り味わうためのキーワードとして、「ソリ=声」という言葉をあげています。
人間には、
言葉 にも文章 にも託せないものがあって、ハン・ガンはそのことを知っているからこそ小説を書いているのだと思う。(...)
言葉 や文章 の背景には膨大な声 の層がある。――『隣の国の人々と出会う』より 一部表記を変更
文学の言葉に揺さぶられるとき、そこに言葉以前の「声」がある――私はそんなことをはじめて意識して、とてもはっとしました。
韓国語と声のおもしろいつながりとは? 私たちが誰かの声を「聞こえない」「うるさい」と思うとき何が起きている? 韓国文学をこれから読みはじめる方も、愛読している方も、その底流を流れる力を実感をもって知るための「
(取材・構成:角智春)
斎藤真理子さん
ハン・ガンの小説は声をぐっと引き出す
斎藤 韓国語の「
ただ、日本語で「声なき声」というと、ちょっと手垢がついているというか、耳に慣れちゃってますでしょう。
――そうですね。
斎藤 それをいったん「ソリ」という音に置き換えてみると、生々しく感じとれるようになる局面もあるんですね。自分の言葉の使い方や考え方を意識し直すうえで、やっぱり第二言語って大事だなあと思います。
――『隣の国の人々と出会う』で、ハン・ガンさんの小説を引用しながら「ソリ」について書かれていたところ(※冒頭の引用)が、とても印象に残りました。
斎藤 ハン・ガンさんの小説はね、読者の感想にものすごいレベルのものが出てくるんです。それこそ読者から声を引き出す力が、ちょっとほかの作家とは違うように感じます。
――おお。
斎藤 たとえば、『すべての、白いものたちの』(河出文庫)という小説があります。生まれてすぐに死んでしまったきょうだいの話が中心にある作品ですが、ある読者がSNS上で、ご自身の亡くなった家族のことを重ねて感想を書かれていて、読みながら身震いするような文章でした。こういうことがなぜか、ハン・ガンさんの本にはたくさん起こるんです。翻訳している最中は気がつきませんでしたが、読者の感想を読んではじめて、幼くして亡くなったきょうだいや生まれてこなかったきょうだいを持つ方がたくさんいらっしゃることも知りました。
そういうことはふだん喋らないし、喋れないでしょう。いい小説は、そうした多くの人のなかにあるけれど声にならなかったものをぐっと引っ張る力、ソリを引き出す力がある。そのような意味でのポピュラリティ(大衆性)があるのだと感じています。
『隣の国の人々と出会う――韓国語と日本語のあいだ』
「深いところにある水は、ソリを立てて流れない」
斎藤 今日は韓国文学のなかのソリについて話すということで、こんな本を持ってきました。
斎藤 1980年代に買った本なのですが、当時は韓国の民主化運動が最も激しくなり、また弾圧も厳しかった時期で、「版画詩集」というものがたくさん出たんです。版画はコピー機がなくても大量複製して全国に共有できるので、運動でよく用いられたんですね。これもそのひとつです。
この本に、『ソリ集』という詩集が収められています。ソリを集めたという、ちょっと変わった題名の詩集。
――へえ!
斎藤 冒頭に、姜恩喬の巻頭文が載っています。とてもいい文章で、ソリという言葉が効果的に出ていると思って、訳してきました。
あなたを信じます。あなたの
声 が私の声 の中で、乾くことのない河として揺れていることを信じます。(...)深いところにある水は、
音 を立てて流れない・・・――『ソリ集』巻頭文より
姜恩喬による巻頭文の生原稿の画像
斎藤 「深いところにある水は、ソリを立てて流れない」、ここがとてもいいなと思って。
この詩集が出たのは1984年で、光州事件の4年後で政治的弾圧の激しい時期なのですが(*1)、同時に、経済成長が波に乗りはじめて中産階級が勢いよく形成されていったときでもあります。虐げられて苦しい人ばかりの世の中ではなくなって、お金をどんどん儲ける人も出てくる。そういう人たちは、貧しい人たちや民主化運動に加わって投獄される人たちの姿があまり目に入らなくなっていく。社会のかたちが変わっていくわけですよね。一方では、検閲がとても厳しかった。
だから、苦しい人びとのソリがいちばん内向した時期じゃないかと思うんです。そういうときに詩人が「深いところにある水は、ソリを立てて流れない」と書いていたのは、とても示唆的だと思います。
(*1)韓国では1979年に軍事独裁体制を率いる朴正煕が射殺され、「ソウルの春」と呼ばれる民主化運動が活発化した。光州事件は、1980年5月18日から27日にかけて、韓国・光州を中心に民主化を求める学生・市民が蜂起した事件。軍による鎮圧によって200名近い人が死亡したと発表されている。
喉や口のあたりを意識する言語
斎藤 それから、韓国語はね、喉や口のあたりをとても意識する言語だという気がするんです。ときどき、あっと思うような表現があるんですよ。
――ほお~。
斎藤 たとえば、「
辞書で引いてみると・・・「焦げ臭い匂い」と出てきました。何かが実際に焼け焦げているときにも使うんですが、高熱が出たときなんかに、身体的に「タンネ(焦げた匂い)がする」と言ったり、必死で逃げる人を描写するシーンで「口の中にタンネがこもっている」という表現が使われたりすることもある。
この感じが私にはちょっとわからなくて、訳すのが難しいなといつも思うんです。
――たしかに体感しづらいですね。
斎藤 あとは、「喉が渇く」の名詞形で、「
灼けつく渇きで
灼けつく渇きによって
おまえの名前を書く
民主主義よ――「灼けつく渇きで」より
朗読するとすごく盛り上がる感じで、「
これは私の主観的な捉え方だけれど、この「灼けつく(喉の)渇き」というのは、やはり声が出せない時代が長かった国だからこそ出てくる表現ではないかと思ってしまいます。全身で民主主義を渇望するという感覚が、手や足や心臓ではなく「喉」で表されるというのは、韓国っぽいなと。
――なるほど。
斎藤 牽強付会なことをいいますと、そもそもハングルという文字は、口の中や喉の状態を形にしたとされていて、たとえば「ㅇ」だったら、喉の形を指すといわれているんですね。文字そのものが、発声器官をとても意識して作られているともいえるのですよ。
たしかに韓国語をきちんと発音しようとすると、私も口や喉の筋肉をむちゃくちゃ使う。そういう言語だということも、どこかで関係があるのかもしれません。
だから、ソリというものの重要さが、比喩ではなく、実際に発声器官から出る声・呼気も含めて多義的に広がっていくような気がします。
――はぁ~、とてもおもしろいです!
聞く力が大切と言われるけれど
斎藤 ソリについては、ぜひこの本も紹介したくて持ってきました。
『黙々――聞かれなかった声とともに歩く哲学』
斎藤 高さんは哲学者で、韓国で長年にわたって障害者解放運動に関わってきました。プロローグのこの言葉に、本のメッセージが端的に表れていると思います。
声なき者はいない。聞かない者、声帯を奪った者がいるだけだ。
この言葉は障害者のことを念頭に置いていますが、本当にそうだなと思います。「声なき声」は比喩ではなくて、身体的にそういう状況があると思う。何か言いたいけれど絶対に通じないだろうと思って沈黙している身体は、ちょっと違う緊張感をその場に放つと思うんですけど。
高さんはセウォル号沈没事故(*2)についての講演原稿で、「遺影のなかの亡き者たちの沈黙を絶叫として聞くことができなければなりません」とも書いていて、ものすごい表現だと思いました。
沈黙はおそらく、無言ではないんですね。誰かが何も言わないとき、あるいは、何かを言っているけど(聞き手が)よくわからないと思ってしまうときがたくさんあるけれど、その人はどうしたら言葉になるかを必死に考えている。そのことに無関心なままで、「言ってくれなければわからない」で済ませるのは、やっぱり暴力だと思います。
(*2)2014年4月16日に、仁川港を出発し済州島に向かっていた旅客船セウォル号が全羅南道珍島沖で転覆、沈没。乗客304名が死亡し、うち205名が修学旅行中の高校生だった。違法な改造や過積載、安全管理の不徹底、乗組員の雇用形態の問題など、規制緩和と新自由主義的な政策の結果として引き起こされた事故であったうえに、政府の対応の不手際や嘘により被害が甚大化し、社会全体に大きなショックと怒りが広がった。
――はい。
斎藤 そういう権力関係は身近なところにあって、親子の関係とかにもいえると思います。
むかし、私の子どもが高校生ぐらいの頃に、何かに非常に悩んでいるけれど言葉にならないというときがありました。おそらく思いを表出したいし、意見を求めているのだけど、きっかけがない。そんなときに、私に唐突にアニメの話をしたんです。どういうストーリーで、どういうキャラで、それについてこう思うみたいな話が、何時間もぽつぽつと続いて。
私は最初、なんでこのタイミングでアニメなのかと思ったんだけど、何度も聞いているうちに、おそらくそれに託して次に自分の気持ちを言いたいのだということがわかってきて。
――ああ。
斎藤 その気持ちの部分がなかなかわからなくてイライラするんですが、子どもがけんめいに頭を使っているんだから私も怠けたらだめだと思って、必死で聞いたことがあります。だけどそれはとても努力がいるんですよね。
――そうですね・・・。
斎藤 聞く力が大切といわれることは多いですけど、言葉になったことを聞くだけではなくて、言葉以前を聞く体の構えが必要だと思う。そのことはほとんど習う機会がないんですよね。そうした訓練を積んできたのが、たとえば高秉權さんたちがつくってきた運動のコミューンだと思います。
「声高でない」ことがいい?
斎藤 もうひとつよく思うのが、本とか映画とかを評価するときに、「決して声高ではないからいい」という考え方ってありますよね。
――はい。私も言ったことがある気がします。
斎藤 決まり文句のようになっているけど、私はこれを見直したほうがいいんじゃないかと思っていて。
――といいますと・・・?
斎藤 「声高ではないところがいい」というのは、声高なものはよくない、嫌いだと言っているに等しいですよね。でもそこで、なぜ自分が声高と感じるものを不愉快に思うかについて考えてみるほうがいいと思う。
たとえばよく、女性のあげる声を、黄色い声、甲高い声って言うことがありますね。こういう音域の声は受け入れられないという物差しがあるのだと思いますが、声をあげる側からしたら、低い声で言いつづけてもまったく聞かれなかったから「わかってんの!?」って張り上げないといけないときがある。それをなぜ不愉快なソリだと思うのか、考えることが第一歩なのではないかな。
声高だと感じるものに警戒心を抱く人が多いのは、罪悪感を刺激されるというか、無意識に不平等があると感じているからなのかもしれない。でも、「わかってるけど、大きな声でずっと言われたら嫌になっちゃうよな」みたいな気持ちがあるとしたら、むしろ、それを嫌だと思う自分の内面に対して、正直に耳を澄ますほうがいい。そのほうが自分の考えも深まるし、おそらく出会いが増えるんですよね。
――とても心当たりがあります。
斎藤 だから、「声なき声」という表現にも、聞く側の問題が潜んでいる。声があっても、マジョリティの聞く耳の持たなさが壁となって封じ込めているんですね。そのなかでどれが「声なき声」でどれが「聞こえる声」かは、やっぱりマジョリティの、力を持った側が決めていることだから、もっと繊細に考えた方がいいと思う。かんたんに「声なき声」とまとめてしまわずに。
韓国ドラマを観ると、すごく大きな声でわーわー言ってる場面が多いじゃないですか。だけどそれも、大声が気にならない場合と、ちょっと嫌だなと思う場合が、私にもある。比べてみたら、自分のセンサーのどこが偏ってるのかがわかってくるはずだと思いますね。
――いろんな声に自分がどう反応しているのか、立ち止まって点検しようと思います。
*後編は11/23(土)に公開します!
編集部からのお知らせ
今週末はぜひ「K-BOOKフェスティバル」へ!
2024/11/23(土)~24(日)に東京・神保町にて、”韓国の本”をこよなく愛する人たちのためのお祭り「K-BOOKフェスティバル2024 in Japan」が開催! 斎藤真理子さんがふたつのトークイベントに出演されます。
チョン・セランさん、キム・チョヨプさん、イ・スラさんなど大人気作家が来場するほか、韓国の出版社も多数出展。韓国の本の世界に浸る、またとない機会です。
●11/24(日)11:00-12:00
斎藤真理子×金みんじょん『誰もが別れる一日』刊行記念トークイベント 「危機」と「不安」を描く韓国リアリズム文学にせまる(by明石書店)
●11/24(日)13:30–15:00
翻訳者対談「どれから読む? チョン・セラン作品」(出演:吉川凪、斎藤真理子、すんみ、古川綾子)