朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第5回

「普通」に翻弄され、 「普通」に逃げ、 「普通」に居つくことを超えてⅠ(後編)

2024.06.05更新

(前編からつづく)

 では、僕も三島さんの「朴先生もミシマガジンで連載をはじめられるのはいかがですか」という一言を手掛かりにして「当たり前」や「普通」についてちょっと掘り下げたいと思います。 具体的で、限定的で、断片的なものの方が「普通」という概念をしっかりとかたちにしてくれる。その方が「腑に落ちる」。これは僕の直感です。観念を弄んでもどこにもたどりつけない。それより具体的なものから始める方がいい。

 この出来事からいくつかのことがいえると思います。第一に、僕は二つ(以上の)アイデンティティをもっています。つまり「物書き」であると同時に 「ヴィゴツキー心理学者」であり、「男」であり「大人」であり、「韓国人」であり、「通訳者」でもあります。第二に、「物書き」である僕について「僕は物書き」ということも「僕はヴィゴツキー心理学者」ということも、「僕は韓国人である」ことも、「僕は通訳者である」ことも、ともに「正しい」と言えるでしょう。
 しかしながら、「連載の打ち合わせ」になったこの場にふさわしい、つまり適切な僕のアイデンティティは「韓国人」でも「ヴィゴツキー心理学者」でもなく、あくまでも「物書き」でしょう。しかもそのことを、当の僕自身承知しています。だからこそ、いくら自分が「ヴィゴツキー心理学者」であっても新連載企画の打ち合わせの場で自分の「ヴィゴツキー心理学者」というアイデンティティを持ち込むのは適切ではないですね。
 面白いことに、我々はこの適切なふるまい方を意識せずに簡単にこなします。わたしたちは「正しさ」に基づく「事実世界」ではなく、「適切さ」に基づく「生活世界」に住んでいる生物です。問題は、「正しさ」と区別された「適切さ」ということの意味ですね。この点に入るまえに、もう少し上の事例をみておきましょう。
 打ち上げの場で連載の提案があってから、ミシマ社の皆さんは「出版人」としてそこにいらっしゃるようになる。 一方、僕のほうは、 それと対応して「物書き」としてそこにいるようになります。つまり、こういうことですね。あるアイデンティティ・カテゴリーが適切であるとき、単に個々の単一のカテゴリーだけではなく同時に「カテゴリーの集合」が適切となるわけです。これはサックスの議論の重要な含意でもあります。たとえば「母親」というカテゴリーは、「母親、父親、兄弟、子ども、・・・」といった集合、つまり「家族」というカテゴリー集合の要素です。もしある人に「母親」というカテゴリーを適用することがいま「適切」であるならば、別のある人が同一家族のなかの父親であるかぎり、その人を「父親」とよぶのが適切となります。
 あるいは逆に、その人が「父親」とよばれるかぎり、その人は先の母親と同一家族内の父親であると認識されるはずです。だから、もしだれかが「雅弘の母親は几帳面な性格だけれど、父親はだらしない人だ」と言うなら、 その「父親」は、なんの限定もなくてもやはり「雅弘の父親」 と聞こえます。反対に、もし「雅弘の母親は慎重だけれど、あの心理学者はだらしない人だ」と言うならば、こんどは、「あの心理学者」はだれであれ少なくとも「雅弘の父親」ではないように聞こえてしまいます。たとえ、 雅弘の父親が実際に心理学者であったとしても、です。
「新連載の企画」の話で盛り上がっている、その場において適切となるのは、つぎのような複合的なカテゴリー集合であります。つまり一方で「出版人側/物書き側」という集合があり、他方で、「出版人側」「物書き側」は、それぞれ「社長、編集長、営業チーム・・・」「物書き」 という集合の名前である。だから、僕が適切に「物書き」であるかぎり、他の人は、これらのいずれかのカテゴリーの担い手としてその場にかかわっているはずです。
 同様に、僕が「心理学を専門にした者」としてその場にいるなら、三島さんはたぶん「文学を専門にした者」になり、野崎さんや角さんもまた別の「〇〇を専門にした者」になるかもしれません。僕が「心理学を専門にした者」であるなら、三島さんはたぶん「文学を専門にした者」であり、野崎さんは「〇〇を専門にした者 」であり、角さんは「〇〇を専門にした者」である。ただし、一つのカテゴリーが複数の集合の要素となっていることも、あります。「心理学を専門にした者」は 「心理学を専門にしたもの、政治学を専門にしたもの・・・」の集合にも、「心理学者(専門家)/心理学の素人」の集合にも属しえます。
 サックスの議論にはもう一つ重要な含意があります。それぞれのカテゴリー(の担い手)は、とりわけ同じ集合の他のカテゴリー(の担い手)に対し、特定の係わり方をすることが一般的に期待されています。 だから、僕が「物書き」としてそこに登場しているのであれば、ミシマ社の皆さんは「出版人」としての資格で「僕」にふるまわなければならない。そこにはおそらく、例えば日本の政治について話をする資格は含まれていない。たとえ彼らにその能力が実際にあるとしても、です。
 そして、もし僕がこの場で自分は「ヴィゴツキー心理学を専門にしている」という前置きをしたとしたら、その発言が「物書き」としての資格をはみ出すものであることを標示してしまいがちです。ひるがえって、自分がそこにいるのは基本的には「物書き」としてであること、したがって自分の前に並んでいる人びとは「出版人」であること、したがって、この場が「物書き」と「出版人」が出会う場、つまり「新連載の企画の場」であること、このことを、僕自身もミシマ社の皆さんも承知していることがわかるということですね。
 こうやって、われわれは、普段、目の前にいる「他者」を「他の誰でもない」あるいは「かけがえいのない唯一の存在」としての「あなた」としてではなく、あるカテゴリー(たとえば、通訳者や日本人と韓国人、それから物書きと出版人などなど)をあてはめることで、「ある社会的意味をもった〇〇さん」として理解しています。ところで、私たちはふだん、自由かつ主体的にカテゴリーを駆使しているのでしょうか。言い換えれば、自分の好きなようにカテゴリーを使い、好きなように自分の姿を呈示し、好きなように世界を構築しているのでしょうか。答えははっきりしています。否です。「新連載の企画の場」の事例からわかるように、私たちは普段、目の前にいる他者を充実した意味に満ちた存在として改めて認識することもないし、自分をそのようなかたちで他者に提示する必要もないですね。
 でも、カテゴリー化をめぐってのずれが発生する場合もあります。私事で恐縮ですが(いまさらながら)、僕は自分のことを「独立研究者」と名乗っています。しかし、僕は韓国で多くの場合「フリーランサー」として呼ばれたり、扱われたりします。以前内田樹先生の「韓国向けのご講演」の通訳をしたことがありますが、主催側から僕のプロフィールの作成を頼まれました。僕はなにげなく「独立研究者」と書いたのですが、そういうプロフィールは「普通」でないのでだめだと言われ、仕方がなく「心理学博士」だと書いて折り合いをつけました。でも「通訳すること」と「心理学博士」であることはどういう関係性があるのかいまだによくわかりません。おそらく彼らは僕の「独立研究者」という「普通ではないカテゴリー化」にある種の違和感を覚えたのでしょう。
 このように私たちがふだん、自分のもの、自由に使えると「思い込んでいる」カテゴリーのほとんどが、「外」から強制された現実解釈装置であることがわかります。さらに、こうしたカテゴリーの使用の仕方、もっと正確に言えば、「され方」を一つ一つ丁寧に検討していくと、わたしたちはいかに「カテゴリー化」という行為にとらわれているのかが実感できます。
「ファンタスティック・デュオ」という、2016年に韓国で放送され人気を呼んだバラエティ番組があります。一般人が、実力派の人気歌手と舞台の上でデュエットができるという番組です。これをきっかけにプロになったりする人も多いそうです。ある日、この番組を観ていたら、二十代の青年(男性)が予選を勝ち抜いて堂々と優勝をし、プロの歌手とデュエットで舞台で歌うことになりました。歌う前にそのプロの歌手が優勝者にインタビューをしているうちに、観客席にこの優勝者のご両親が座っていることがわかりました。それでそのプロの歌手がご両親に向けてこう聞きました。「〇〇さんは幼いころも歌がお上手だったんですか?」。そうすると、この優勝者はおずおずとこうつぶやきました。「実は、二人とも耳が聞こえないんです」。この話を聞いたそのプロの歌手は「それなのに、あなたなんでこんなに明るく育ったの?」と何気なく言ったのです。僕はこの話を聞いてこれこそ「カテゴリー化の過剰」だと思わず口に出してしまいました。
 これはまぎれもなく具体的にさまざまな異なる障害をもつ人々が各々どのような「生きられたリアリティ」をもっているのか、を一切追及することなしに、単なる推定で判断し「障害者」カテゴリーを当てはめてしまう行為です。そのプロの歌手は「障害者」カテゴリーを当てはめることによって、おそらく「障害を持つ親のもとでよく頑張った」という善意に満ちた発言をするつもりだったと思います。なのでこういうカテゴリー化は、それを向けられた人間にとって、なかなか抵いがたい力を持つものであることも、そのとき僕は実感させられました。
 この事例を見ると、普段、さまざまな生活の場、仕事の場で、私たちが「あたりまえ」に使ってしまっている「カテゴリー化」という営みのなかに、他者に「生きづらさ」を与えてしまう「危うさ」がしっかりと息づいていることがわかります。この「意味の盛りすぎ」あるいは「過剰なカテゴリー化」は我々が「普通」に翻弄され、 「普通」に逃げ、 「普通」に居つくことに、このうえなく良い「肥やし」となってしまうと思います。
 しかし、「普通」に安住せずに自らの記号化能力を超えた目の前にあるものの前にあえて立ちつくしている人間の「無力さ」というのは、同時に、目の前に広がっている世界の豊かさに対する賛嘆の気持ちに転化する可能性を持っていると思います。つまり我々は、記号や数値のような物差しをもって世界に向かい、生きていくのか。 あるいは人間たち同士で使っている物差しでは衡量することのできない深く豊かで厚みのある、そういうようなものを前にして生きていくのか。 そのどちらを基本的な自分の立ち位置に選択するのかということが問題になっていると思います。
 日常生活の営みも「カテゴリー化」という記号に回収され、 掬い取れないものは零れ落ちる。 「カテゴリー化」に基づいて記号化すれば取り扱えるし、実は安心できます。しかしそれは誰のための言葉なのでしょうか。「カテゴリー化」では測れないものから目を逸らすとき、われわれは存在そのものへの敬意から遠ざかるだけでなく、自らの基盤をも危うくさせてしまうのではないでしょうか。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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