朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第6回

「普通」に翻弄され、 「普通」に逃げ、 「普通」に居つくことを超えてⅡ

2024.07.04更新

otonatte.jpg(撮影:朴東燮)

 ためしに、いま街を歩いている人を無作為につかまえて、このポスターの絵を見せて「『大人って、こどもだなぁ』はどういうことですか?」と訊いてみると、面白いかもしれません。
 ほとんどの人はしばらく思案したのちに、「それは言葉どおりでしょう。それ以上の説明はいらない!」 と答えて去っていくだろうと思います。たまに「最近、大人の幼児化が進んでいます。だから日本は大人の頭数を増やさないとね」とか付け足す人がいるかもしれませんが、 考えた末にそれ以上のこと、たとえば、「これはいままで考えたこともないような、ある問題を前景化してくれるかもしれない」 とか、「これは僕のような『子ども』には見えないものを見ている人、『子ども』には理解できない理路がわかっている人に聞いた方がいい」と答える人はあんまりいないと思います。
 このように多くの人にとって、「ここに確かに目に見えないが『何か』が働いている」という実感は、自明ではないと思います。この世界では、「ここに確かに『何か』が働いている」という実感は、少しずつ感じられなってくる。ちょうど、おろしたての靴や洋服にはどこか身体に合わない窮屈なところがあって我々は靴や洋服のことを意識するけれど、馴染んでくるとその存在を忘れてしまうのと同じですね。 あるいは、いつも水のなかにいる魚は水の存在を意識しないだろうし、空気や重力のなかにいる人間がその存在を意識しないのと同じだと思います。「あたりまえ」 で「なめらかな」存在になった「社会」は、私たちの実感から逃げていってしまいます。
 我々が慣れ親しんでいる、いわゆるなめらかな世界がもつ「力」。その重力圏に、なんの方法も道具ももたないとき、人は容易に引きつけられてしまいかねません。そのなめらかな世界を捉えなおすということは、目に見えないその「重力圏」自体を言葉にするということだと思います。「日常」それ自身が別の可能性へ向けて自己を乗り越えていくことをやめてしまえば、「捉えなおし」は無力なものに終わるしかない。瑣事を笑うものは瑣事に躓くほかないのであります。
「大人って、こどもだなぁ」というたった一言の中に、複雑な人間の生き方や社会のあり方を垣間見ることができるのです。どういうことか、ご説明しましょう。
 社会学者のハーヴィー・サックスは、「赤ちゃんが泣いたの。お母さんが赤ちゃんを抱きあげたの」という2歳9か月の女の子の語ったお話を分析しています(*1)。このお話には「赤ちゃん」と「お母さん」という二つの「成員カテゴリー」が絡み合っています。このお話を聞くとき、人々は「お母さん」は赤の他人ではなく、「その赤ちゃんのお母さん」であると思うでしょう。こうした一見当たり前のようにできてしまう人びとの認識を裏付けるものはなにか、それがサックスが追及している問題でした。
 ここで問題になるのは、「成員カテゴリー装置」です。
 ここでは「家族」と「人生段階」という2つの成員カテゴリー装置が登場します。「家族」という成員カテゴリー装置は、「赤ちゃん」「お兄さん」「お母さん」「お父さん」という成員カテゴリーを含んでいます。また「人生段階」という成員カテゴリー装置は、「赤ちゃん」「子ども」「青年」「大人」「老人」という成員カテゴリーを含んでいます。
 問題は、「赤ちゃん」という成員カテゴリーが、二つの異なった成員カテゴリー化装置の集合の中に属するということです。そして同じ名前の成員カテゴリーでも、どの装置のどの集合に属するかで、その意味するところは変わります。
 それでは、冒頭で取り上げた「大人って、こどもだなぁ」を成員カテゴリーに当てはめて捉え直してみましょう。ここで前半の「大人」と言うとき、「大人」というカテゴリーが言及しているのは、「人生段階」 の集合、つまり「赤ちゃん、こども、青年、大人、 老人・・・」 という集合であります。ところが、後半の「こども」は「成熟段階」の集合、つまり「半人前 VS 一人前、子ども VS 大人」という成熟度に基づいての成員カテゴリーです。
 ここで、「大人」と「子ども」について述べた文章をもうひとつみてみましょう。

 私たちの集団が生き延びるために必要なのは「大人」である。「人の道」をわきまえ、情理に通じた大人である。集団が生き延びるために必要なのは「子ども」ではなく「大人」なのである。そして、私たちは「子ども」を育てることを通じて「大人」になる。だから、集団を担う「大人」の頭数を確保するためには、どうしても「子ども」が必要なのだ。

――内田樹「今日の視角 子どもが必要だ」信濃毎日新聞、2024年3月5日

 この文章で最初に出てくる「大人」は「成熟段階」の集合で、社会で成熟しているメンバーを指している。そして、次に出てくる「子ども」が「成熟段階」の集合で、未熟なメンバーを指している。二番目に出てくる「子ども」はちょっと複雑であります。ここでいう「子ども」は「人生段階」の子どもであると同時に「成熟段階」の子どもでもある。その二重の意味をもっている「子ども」を育てることにより、大人(人生段階)は子ども(成熟段階)から大人(成熟段階)に生まれ変わるということですね。
 ところで、この「成員カテゴリー化装置」という理路はある問題群を前景化させてくれると思います。それは、私たちはふだん、自由かつ主体的にカテゴリーを駆使して生活しているのだろうかという問題です。言い換えれば、自分の好きなようにカテゴリーを使い、好きなように自分の姿を呈示し、好きなように世界を構築しているのだろうかという問題です。
 しかし、ちょっと考えればわかると思いますが、私たちがふだん、自分のもの、自由に使えると「思い込んでいる」カテゴリーのほとんどが〈外〉から強制された現実解釈装置です。さらに、こうしてカテゴリーの使用のしかた、正確に言えば、「されかた」を検討していくと、私たちがいかに「カテゴリー化」という行為にふだんとらわれているのかが実感できると思います。
 サックスは「ホットロッダー」(Hot Rodder)という講義の中で、「革命的」なカテゴリーという概念を使って当時の十代の若者について語っています(*2)。彼は、1960年代のアメリカの十代の若者をとらえる「ティーンエイジャー」と「ホットロッダー」(Hot Rodder)という二つのカテゴリーに注目しています。
 前者は、「健全な」「大人の」「市民たち」が所有する「支配的」文化が若者をとらえるときに象徴的に使用するもので、さしずめ韓国と日本で言うなら「青少年健全育成」の「青少年」にあたるものだと思います。
 後者は、「ホットロッダー」という改造車を乗り回す若者たち自身が作り出したものであり、自己を含め「ホットロッド」を乗り回す他の同年配の「仲間」をとらえるカテゴリーです。いわば彼らの「自前の」カテゴリーなわけですね。この「ホットロッダー」たちの行為は、「支配的」な文化からすれば、「問題行動」「非行」「逸脱」として映る。そうした行為をする若者たちは、「正しい」文化から外れた「逸脱者」であり、「更生」が必要な若者として理解されます。
 この二つのカテゴリーおよびカテゴリー化が及ぼす作用には決定的な相違があります。「ティーンエージャー」の場合、若者以外の人々、具体的には「健全な」「大部分をしめる」「大人たち」が、彼らはこのように育ってほしい、こうした社会化をしてわれわれと同じような「大人」になってほしい、そうなるべき、という価値観や日常的な規範、行動パターンまで含まれた形で、若者を 〈外〉から拘束していくカテゴリーです。
 それに対して「ホットロッダー」は、若者自身が自己の生活の場で作り上げ、自分たちやその「仲間」を他の人々から区別する意味で創造したものであり、「支配的な」 〈外〉 からの拘束としてのカテゴリー化作用に対抗し、それを 「無効化」していく〈力〉をもつカテゴリーです。いわば「ティーンエージャー」というカテゴリー化は若者にとって、自分たちを 〈外〉から抑えつけていく「権力」として、日常的なさまざまな場面で作用する。一方で「ホットロッダー」は、そうした「権力」に具体的な場面で対抗し、それを解体していくある種の「武器」なのです。
 改造車の車種。「ホットロッド」に乗るときの服装。 「ホットロッダー」同士が道ですれちがったときの挨拶の仕方等々。 詳細な部分にわたって、 「ホットロッダー」たちの文化項目が彼ら相互で決められている。そうした詳細な項目を、ふだんの場面で無意識的に点検しながら、彼らは、お互いを「仲間」 としてカテゴリー化し、改造車を乗り回し、青春を楽しんでいるわけです。 たとえば「大人」が、典型的な「ティーンエージャー」が、その一つを真似して、にわかに「ホットロッダー」になろうとしても、彼らはすぐに見破り、それを受容はしない。
 サックスは、こうした現実を詳細に記述したあとで、「ティーンエージャー」というカテゴリー化の権力作用を、「ある集団にあてはめるカテゴリーを、当該集団以外の集団が所有し」、それがいわゆる「支配的カテゴリー」、「支配的文化」になっている点が問題である、という形で整理しています。
 一方で、「ホットロッダー」というカテゴリー化がもつ「自己執行(self-enforced)」という作用に注目し、その「革命性」を指摘しています。
 では、「自己執行」とはどういうことなんでしょうか。それは、自分たちに関するカテゴリーを自分たちで創造し、それらを自分たちにあてはめている、という単純な行為のありようではありません。
 個人や、ある集団のメンバーを〈外〉からまるごと押し付けてくる装置として、カテゴリー化が作用する。それに対して、〈いま-ここ〉で自分の身体実感に基づいて具体的に対抗し、せめぎあっていく、なまなましい人間の生の姿がある。そこにこそ「自己執行」の現実があるといっていいでしょう。それは、〈外〉からの押し付けをはねのけ「自分」「われわれ」といった存在を〈内〉からまるごと承認し正当化していく具体的な行為です。
 韓国で多くの人は僕のことを「フリーランサー」としてカテゴリー化しています。しかし、僕は「フリーランサー」という〈外〉から僕に押し付けてくる「カテゴリー化」に抵抗し「独立研究者」という「カテゴリー化の自己執行」を日々実践しています。そこには「フリーランサー」という〈外〉から決めづけられたカテゴリー化では決して汲み取れないような「学術」や「研究」をとらえ直そうとしている僕なりの志があります。
 ところで、外部からのカテゴリー化は、ターゲットになった個人の資質などにだけ向けられ、そこへ向けてのみ収斂してしまうようなものではありません。カテゴリー化は常に個人の実存を超えた「わたしたち」への決めつけです。「独立研究者」という現実を生きる「わたし」がここにいるとして、この「わたし」を「フリーランサー」としてカテゴリー化してしまう「あなたたち」は、「あなたたち」が勝手に考えつくりあげた「大学とかでポストを持ってないもの」とはこのような存在に違いないという思いこみをもとにして、「わたし」を決めつけようとします。
「わたし」が具体的にどのような人間で何を感じ考え、「研究」や「学術」についてどういう思いを持っているのかなど、「わたし」という存在それ自体を見ようとしないで、こうして思いこみや決めつけの知が作動するとき、それは、「わたし」個人への決めつけではなく、「わたし」の背後に想定された自分なりに「研究」や「学術」を手作りしている、「わたしたち」をもすべて「フリーランサー」と一括りにしていることになりかねません。
「ひとりで研究をする」という現実を考えるとき、そこには「わたし」がいるだけではありません。「わたし」とはさまざまな違いをもちながらも、「ひとりで研究をする」という生き方を選択しているほかの複数の「わたし」が存在しています。そして、この選択が、「わたし」にとって、他に替え難いほど意味あることであり、「わたし」という実存の核心をつくりあげる重要な生の証である時、この証の価値や意味、そして意義などを他の「わたし」とともに確認し、大切に守っていく営みは、「独立研究者としての『わたしたち』を自己執行的に意味づける基本」だと思います。
 僕は大学の教員という身分で論文を書いていたときに、一回も苦痛なしに自分の考想を論文の投稿規定に適している形式に合わせて書いたことはありません。一体「学術論文」と呼ばれているジャンルのこのとんでもない権力的な書き方はだれの同義を得て今のような「普遍的な強要」の権威を獲得したのか。
 たとえば韓国内でもっとも権威の高いある教育学関係の学術雑誌の場合、査定の項目と配点はこうなっている。論文のオリジナリティ20点、論文の完成度20点、参考文献の活用頻度と引用の正確度10点、表現の適切性10点、主題の明確度10点、投稿規定の順守度10点、そして研究結果の寄与度20点。
 私が異論を提起したかったのは「査定の項目」ではなく、隠匿されているその査定の主体でありました。誰に承認されているオリジナリティや一貫性や適切性なのか?
 ニーチェに従って隠されている「誰(WHO)」に関して「系譜学的問い」を投げかけてみましょう。その問いを投げかけるや否や我々は「標準化された」ある「灰色の主体」に遭遇することになる。僕はその時、改めて自分が満足できるようなオリジナリティや一貫性や適切性などがこの「灰色の主体」を満足させるようなオリジナリティや一貫性や適切性などになれない事実を知って、絶望してしまいました。
 こういう経験を繰り返すことにより、僕はだいたい「制度」という網目は使い物にならない骨だけを取り、いざというときに肝心である肉片を捨ててしまうという間違った惰性を繰り返すだけであるということを実感しました。そもそも「制度」というのは見方によって「保護膜」になりうるし、逆に「足枷」にもなりえます。この見方はある意味、「欲の程度の問題」でもあります。我々が(小さな)欲を言い、「制度」に恵まれる恩恵に満足し、その範囲で遊ぼうとするなら、「制度」は喜んで我々を守ってくれるはずです。しかし、我々が(大きな)欲を言い、どんな形でも「制度」を覆そうとしたら、「制度」は死ぬ間際まで我々の手首と足首を切りつけてしまうでしょう。
 一方、この見方は主体性とプライドの問題でもありえます。これはこの制度を覆し、あの制度を立てようとする欲の次元ではなく、制度によって疎外されてしまった自分自身の居場所を作り直そうとする反抗でもあります。学術という制度によって疎外されてしまった自分の居場所あるいはアイデンティティを作り直そうと思い、僕は「独立研究者」という「自己執行カテゴリー」を実践しているわけです。
 僕のこのような実践は、換言すれば「支配的」文化に奪われた「自己存在の正当性」「他者との関係性における自己存在の全体性」を一つひとつ過ぎ去っていく現在で奪い返していく「せめぎあい」に違いないと思います。
「新しい普通を一つ増やそう」としているものにとっては、この「せめぎあい」を見逃すわけにはいきません。これは僕にとって回避しえない現実であり、運命でもあります(ちょっと大げさなんですが)。われわれの自明性という領域に埋もれた「普通」という鵺のごときもの。これを一切相対化し検討し、再編制していく作業。これが僕のような「独立研究者」というカテゴリー化を自己執行する者に与えられたある種のミッションだと思います。
 内田樹老師はかつて「『大人』というのは自分が生きたことの意味を担保するものは自分の外部や上位には存在しないということを知っている人間のことである。」と述べたことがあります。これはまさに多くの人に共有されている「大人」という言葉に付着する、手垢にまみれた観念を洗い流す、「革命的」なカテゴリー化の実践に違いないでしょう。
 サックスは、こうした〈外〉からの「カテゴリー化」にとらわれた一人ひとりの行為を具体的に指摘するために、そうした行為とは対極にある行為を呈示したのではないでしょうか。つまり、自己および自己に関係する人々を括っていく意味を自ら構築していく、その意味で〈外〉からの「正当化」を必要としないカテゴリー化活動を。そして、それこそが真の意味での「自己執行カテゴリー」の姿だと思います。この「カテゴリー化活動」は、端的に「普通」が排除している具体的な人々が、その具体性の中で、自己の存在の意味を回復し、逆に「普通」を編製変えしようとする場合にみられるものです。
 つねに具体的な人々の 「せめぎあい」の中で、そこを出発点とし終着点とする、堂々巡りになりかねない「環」がまさに僕が生息するアリーナであり、生態学的ニッチです。そのアリーナに入れかわりたちかわり登場する日常的な「普通」がある。 その「普通」の中で、「わたし」 も 「われわれ」も同時に呈示しうるカテゴリーはいったいどのようなものなのか。「わたし」を消去し、「われわれ」「彼ら」だけで自分を整序しうる解釈装置とはどのようなものなのか、等々。こうした様々な問いかけが僕の中にふつふつと沸いてくる次第です。


(1)Sacks, H. (1972). On the Analyzability of Stories by Children. Directions in sociolinguistics: The ethnography of communication. 325-345.
(2) Sacks, H. (1979). Hotrodder: A revolutionary category. Everyday language: Studies in ethnomethodology. 7-14.

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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