朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第8回

ええ!「奇特」ってあの「奇特」じゃないんですか

2024.09.05更新

 めでたくも去る4月に内田樹師匠の「韓国オリジナル企画」の本が韓国で刊行されました。そのタイトルはなんと『図書館には人がいないほうがいい』(UU出版社)です。こうやって韓国語版がまず編まれた(「編まれた」という受け身の表現を使いこなしている自分がいる一方、いまだにその表現によそよそしさを感じてしまうもう一人の自分がいます。韓国語では、こういう受け身の表現はまず使いませんから)後に、6月にはまったく同じタイトルで日本語版(アルテスパブリッシング)も出ています。
 この本は「世界でただ一人の内田樹研究家」を勝手に名乗っている僕が構想や企画、翻訳、そして日本への輸出まで(日本語で「二刀流」って言えばいいんですかね)担当したものであり、地球という大地の中で「他に類を見ない」書物だと思います。ご関心のある方はぜひお手に取ってみてくださいね(この本の刊行にかかわったものとしてこう申し上げるのも気が引けますが、非常に面白いです)。
 さて、この本の最後のところに僕の編訳者あとがき(「『伝道師』になるということは」)を書くときに、メールで内田樹先生にちょっとお聞きしたことがありました。つぎのような内容です。

***

 内田先生の『図書館には人がいないほうがいい』のまえがきを読み返しているうち、つぎの「箇所」で足を止めてしまいました。

僕はあるときはレヴィナスの伝道師であり、あるときはカミュの伝道師であり、また村上春樹の伝道師であったり、橋本治の伝道師であったり、大瀧詠一の伝道師であったり、小津安二郎の伝道師であったり、伝道することはさまざまですが、どれも誰かに頼まれて「お金を払うから、書いてください」と言われたものではありません。読む人がいようがいまいが、この人たちの偉大さについて、私にはぜひ申し上げたいことがある。だから書く

 今朝この文章を読み返し、発作的に「そうだ。『伝道師になるということは』どういうことなのかについて書けばいいんだ」と思いついてしまいました。内容的にもし、僕のお門違いかもしれないものがあれば、ご教示いただければ幸いです。だいたいこんなことを書いてみようと思い立っています。

 内田先生が様々な師から受け継がれた贈り物は数えきれないほど多いと思う。それを一つ一つ丁寧に取り上げて言葉にすることは、僕のような「内田樹思想の伝道師」であり、「弟子」にとっては果たすべき義務だと思う。
 まず、第一に、大瀧詠一から受け継がれたものは「系譜学的思考」だと思う。第二に、小田嶋隆から受け継がれたものは「とほほ主義」だと思う。第三に、村上春樹から受け継がれたものは「この世ならざるものとのかかわり方」だと思う。第四に、橋本治から受け継がれたものは「説明家」だと思う。最後に、レヴィナスと白川静から受け継がれたものは、「祖述者というポジション」であると思う。

***

 上のような内容でメールを送ったら、内田先生からつぎのような返事が届きました。
「伝道者についての朴先生の定義、たいへん正確だと思います。こんな奇特なことを書けるのはこの世に朴先生しかいませんよ・・・」。
 師匠の最高の褒め言葉で高揚感を抱くと同時に、懐かしさを感じてしまいました。なぜかというと、この「奇特」という言葉は、僕が子どものときに周りから使われまくっていたからです。その言葉をいい年になって言われるとは。最初この「奇特」という言葉を耳したときは、単に師匠からの誉め言葉が贈られてきたという意味付けしかしませんでしたけれども、ある日本の小説を読んでいるうちに、日本語の「奇特」という言葉の意味は、僕が知っている意味とちょっと違うのではないかということに気づかされました。それで、日本語の辞書を引いてみることになりました。
 まず、日本語の辞書でこの「奇特」という言葉を引いてみると、「特別にすぐれていること。また、行いが感心なこと」と書いてあります。もちろん、韓国語にも同様の言葉があるのですが、意味は似ていても、「使い方」がちょっと違います。この「奇特」という言葉は、目上の人が目下の人に対して「えらい」と褒めるようなときに使うことになっているんです。今の僕からは非常に想像しにくいと思いますが、僕は幼いころ親とか担任の先生にこの「奇特」という言葉を結構使われまくっていました。
 たとえば、こんな場面でです。母が仕事が忙しくて、食事の後片づけができなかった日に放課後、後片付けを僕が済ましたのを仕事から帰ってきた母がみて「ドンソビ(僕の名前です)、ほんとうに奇特だね。ママが来月からお前のお小遣いを上げるからね」とか。小学生の時にクラスで算数の苦手な友達を助けるのを担任の先生がみて「ドンソビ、奇特な行動しているね」とか。
 それから、この「奇特」という言葉は動物(主にペット)の行動によく使います。たとえば、うちで飼っている犬が養子としてうちの新しい家族になった子猫の面倒見ている場面を見て、飼い主かこう言います。「Aちゃん本当に奇特だね」とか。
 ここで先月(第7回目の原稿)で僕が投げかけた問いをみなさんに思い起こしていただきたいと思います。「奇特」という言葉について、「韓国語」と「日本語」どちらの表現が該当の出来事をもっと「正確に」あらわしているのでしょうか。あるいはこう問いかけてもいいと思います。両言語のうち、どちらの方が「世界」を描くにあたって「真実含有率」が高いのでしょうか。

 哲学者クワイン(W.V.O. Quine)は、『Word and Object:言葉と対象』という著作の中で、面白い問いを投げかけています。それは、言葉と対象が完全に一致し、その結果、私たちがみな同じものを意味しているとわかるというのは、いったいどういうことなのかという問いです。クワインは、ある言語学者が未知の部族を訪れ、部族の言語を翻訳しようとしているという状況を想定します。この言語学者は、その部族の人々が、 ウサギがあわてて走り去る時に、決まって「ガバガイ」 という言葉を用いることに気づいてしまいます。 その部族では、言語学者なら「ウサギの走り去る気配」 「ウサギの死がい」「鍋で料理されたウサギの肉」「藪の中に見えるウサギの耳」と区別して記述するものに対して、すべて同じ「ガバガイ」 という言葉が用いられていました。それらの一つ一つをとってみると、観察可能な共通点はほとんどないように思われます。
 では、「ガバガイ」という言葉は、どの対象に対して用いられているのでしょうか。さらにいえば、たとえ、私たちの目の前に、ある動物が立っていて、部族の人々がそれを「ガバガイ」と呼んだとしても、果たして「ガバガイ」が、私たちが 「ウサギ」という言葉で意味しているものとまったく同じだといえるでしょうか。もしかしたら、私たちが、一つの生命体としてのその動物を意味しているのに対して、彼らは目、鼻、耳といったバラバラな部分の寄せ集めについて言及しているのかもしれません。
 クワインが結論づけているように、私たちは「言葉による指示の不決定性」、すなわち、ある言葉が正確に何を指しているのかを決定することができないという問題に直面しています。
 この話と関連してたったいま、発作的に思いついたことですが、言葉である出来事をとらえるのは、戦艦が戦艦を砲撃することに似ているかもしれません。ふつうの大砲は、固定した地面から、目標を狙う。発射された砲弾は、おおむね放物線を描いて着弾する。 どこに着弾するかは、砲撃の方角と仰角と砲弾の初速度で決りますよね。着弾地点と目標のズレを観測し、方角や仰角を修正して、もう一度発射する。そうやって修正を繰り返していけば、そのうち命中するでしょう。
 一方、戦艦が戦艦を砲撃する場合、相手も運動しているし、自分も運動しています。しかもその運動は、直線運動とは限らない。波のために船体はつねに揺れているから、仰角も変化する。着弾地点と目標とのズレを観測しても、つぎの砲撃をどう修正すればいいかわかりようがないです。 砲撃を繰り返しても、ズレが縮まる保証がないのです。つまり、言葉は、そもそも「不確定性」をそなえているものだと言わざるを得ないと思います。 戦艦と同様、いつも揺れ動いていますからね。
 日本語学を専門にしている飯間浩明さんは、われわれがふだん何気なく使っている言葉の「不確定性」のことを「つまずき」というユニークな言い回しで深く掘り下げています。飯間さんは『つまずきやすい日本語』の「ことばは頼りないから役に立つ」という節で、こんなことを書いています。

人と人がことばをやりとりすると、ちょっとしたことで『つまずき』が生まれます。ことばは、コミュニケーションの道具としては、ほんとうに頼りないものです。もう少し厳密な、誤解の余地のない道具だったらいいのに......。そんな気持ちになることもあります。とはいえ、ことばが徹底的に厳密にできていたら、曖昧にごまかしたい場合に困ってしまいそうです。いや、べつにごまかす場合でなくても、日常生活の中で、簡単なひとことを言うだけでも苦労するでしょう

――『つまずきやすい日本語』76頁

 実に見事に日本語の本質(いや言葉の本質)に触れていると思いませんか。「言葉は頼りないから、つまり『不確定性』があるからこそ役に立つんだ」という逆転の発想に脱帽しきりです。

 飯間さんは、言葉の不確定性やつまずきについてつぎのような例を取り上げています。

「ばか」ということばは、場合によって「愚か者」のことも、「可愛いあなた」のことも指します。それで、愛情表現として「もう、ばかなんだから」と言ったつもりが、相手を怒らせることもあります。だからといって、「ばか」は「愚か者」の意味だけで使うことなどという決まりは作れません。「ねじがばかになった」も言えなくなってしまいます

――同書、5‐6頁

 この文章を読んで、僕の頭には「言葉を使う」ということは「自転車に乗ること」ではないかというアイデアが浮かんでしまいました(ミシマ社の三島さんが『ここだけのごあいさつ』のなかで述べた「自転車操業」ではないんですが^^)。
「自転車の乗り方を知っている」とはどういうことを考えてみると、第一に、どれ一つとして同じではない路面の上を、原則として転ばずに自転車を走らせられるということであります。
 第二に、自転車に乗っていろいろな道を走るために、私たちはすべての路面の状態にあらかじめ精通している必要はない。その都度路面状態を身体で感知し、バランスをとることができさえすればよいのです。
 第三に、自転車を漕ぐことによって、私たちは自分を取り巻く環境を変化させている。たとえば、私たちがひと漕ぎすることは、先ほど見えなかった曲がり角が「見える環境」をつくり出すことであります。
 同じように、言葉を使うときに私たちが用いている知識・能力は、どれ一つとして同じではない具体的な社会的場面(かつてヴィトゲンシュタインはこれを「ざらざらした大地」というユニークな言い回しで表現したことがありますね)において、そのつど場面の特徴を感知し、それに合わせて発言をデザインし、それによって場面を変化させるために用いることのできる知識・能力だと思います。そのときに「言葉の厳密さや正確さ」にこだわってしまっては、かえって人と人とのコミュニケーションを妨げるものになってしまいかねないです。
 言葉を発するということは、比喩的に言うと、ある種の「調理が半分すんだ半製品」のようなものですね。この「半製品」を完成させるためにはさまざまなファクタがかかわる必要がありますね。それがヴィトゲンシュタインの言う「ざらざらとした大地」のほんとうの意味ではないかと思います。例えば「調理が半分すんだカップ麺」を食べようとするときに「湯加減」や韓国人ならば「キムチなどのおかず(韓国人はラーメンなどを食べるときにキムチなどがないと淋しいです)」や「食べる場所」や「一緒に食べる相手」などによってカップ麺の味とそれを食べる意味などが違ってくることを想像していただくと、言葉を発するということの意味をお分かりいただけると思います。
 多くの人が、厳密な言葉の用法が保証できなければ、厳密な思考も保証できないと心配しているかもしれません。言葉を述べることが、思考の営みである。書くことは、思考があることの証明だから、そう思うのも無理はないと思います。
 言葉は、踏み石のように、思考がたどる順番を示します。 読み手はそれをたどって、書き手の思考を(追)体験します。書き手も、みずからが読み手となって、いま置いたばかりの踏み石をたどりなおし、その確かさを踏みしめようとします。
 しかし、踏み石の列は、吊り橋のように揺れ動いて、思考の厳密さをいつもおびやかしています。
 ここで人びとは、言葉の正確さに立てこもろうとします。ですが、「言葉の正確さ」は、言葉のシステムの与える仮象にすぎないと思います。実態世界と遊離した形式的な秩序を仮構することももちろんできます。踏み石同士をくくりつけて、固定した板のようにすればいいわけです。しかし、そんなことをしても、実態世界がわずかでもより厳密に思考できたことにはなりません。
 むしろ、言葉というのはいつもゆらいでいることを見据え、織り込み、計算したうえで、実態からずれたものとして言葉を使うのがいい。言葉の正確さを断念しながら、言葉を使うこと。つまり、言葉というのはつねに「不正確さ」や「不適切さ」がつきまとうというのがデフォルトであること。言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分が言いたいこと」に届かないことに喜んで苦しめること(いささか変な表現ですが)。
 これこそ、逆説的にもっとも厳密に、 言葉を用いるやり方なのではないでしょうか。なので日韓のみなさんはお互いの「奇特」の使い方の違いをただ楽しんでもらえればいいと思います。
 このエッセイを読んでいただいて、言葉を発することや「奇特」をめぐる意味の世界がちょっとだけ広がっていくのを願ってます。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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