第16回
なぜあえて『新しい普通』なの?(後編)
2025.01.14更新
そういう観点から見ると、ミシマ社という出版社も間違いなく「本の作り方」や「本の届け方」をめぐる「自明なもの/普通」の巨大かつ執拗な「ちから」に日々真剣に向き合い、それをなんとかしようという、「糸口」を見つけようと励んでいるように僕には思われます。
というのも、「いま僕のような正真正銘の韓国人が書いている日本語の文章は日本に需要があるかどうか」を「世間にはないデータ(「前例」がないから現時点で需要はゼロに間違いありません) 」をもとに、「自分の直感」や「自分の中にある価値観」を頼りにして判断しているわけですからね。
こういう言い方をすると、多くの方はびっくりするかもしれませんが、僕はこのようなタイプの「新しい実践」のことを真の意味での「リアリズム」だと思います。
逆に、すでに「作り出されてしまった現実」、あるいは「どこからか起こってきた現実」をただ追認し、それに適応してゆく態度のことを僕は「リアリズム」とは呼びません。「リアリズム」とはむしろ、「現実」を自分の日常生活の中でなんとなく集まってくる情報やアイディアに基づいて改変し、創作しようとする生き方のことだと思っているからです。ほんとうに現実を重く見ている人間なら、それに適応するのと同じくらい、あるいはそれ以上の熱意を以て、現実をどう変えるかということについて気づかうはずです。「明日の現実を変えることは自分の仕事ではない」という人間は、「明日の現実がどういうものになるのかに特段の興味がない」と告白しているのです。現実に興味がない人間がどうして「リアリスト」を名乗ることができるのでしょうか。
内田樹先生によると、「すでに起きてしまったこと」に対して「最適解」を探す態度のことを、武道では「後手に回る」というそうです(1)。現実に追随するものはつねに現実に遅れる。現実の突きつける問題に最適解で応じようとするものはつねに現実に遅れる。そして、一度後手に回った者は、もはや決して「先手を取る」ことができない。現実に遅れるものは現実を創り出すことができるはずがないということです。
それでは、「なぜあえて『新しい普通』なの?」という問いについて、さらに考えてみたいと思います。
僕が「新しい普通づくり」という言い方に込めている意味合いは、いまのところ一つです(これからもっと増えるでしょうね。増えた場合はまた書いてみますね)。このアイディアが浮かんだのは僕が韓国語訳した、三島邦弘さんの『ここだけのごあいさつ』のある一節を読んだときでした。三島さんはこの本の中で、「自身の会社が特異なやり方だけではないかたちで変化していきたい。そうして、「おもしろい」を実現しつづけたい」(2)と綴っています。この言い方の行間には「自分たちの『独創性』を世間に誇示するために出版という実践をするわけではないですよ」という意味合いが含まれていると、僕は読み取りました(ご本人に聞いてないので自信はないのですが、たぶん)。
本当に噛めば噛むほど深い味が出る名言だと思います。
ミシマ社は自分たちの「独創性」や「特異さ」を世間に誇示するためではなく、彼らと考え方をともにする出版人を一人でも多く増やしたいがために、新たな出版の実践を日々せっせとやっている会社だと僕は思います。
唐突ですが、ここでちょっとミシマ社のみなさんに憑依して言いますと、
「私たちの望みは、できるだけ多くの出版人に『そんな本の作り方や本の届け方は普通じゃないか、私だって前からずっとそう思っていましたよ!』と言ってもらうことであって、『そんなことを考えるのはあなたたちだけだ!』と言われるためではありません。こういう考え方をする出版人は今のところ多数派ではないので、それはさしあたり『特異なやり方』と言えるかもしれません。でも、その『特異なやり方』が『特異』なままで終わることを私たちは少しも望んでおりません。『ついに一人の支持者も獲得しなかった特異さ』には何の価値もないからです。そうではなく、『多くの支持者を得られたためにいつのまにか少しも特異なものでなくなってしまった特異さ』だけに価値があると私たちは思っております。ですから、いまは我々の実践には『新しい』という形容詞がつくこともありますが、それがいずれなくなり、ただ普通になる日を待ち望んでいます。こういう考え方と出版実践が『世間の普通』という辞書に登録されるまで、私たちは同じことを言い続けるつもりです。」
そういえば、僕の大好きな『仁』というドラマにも同じ趣旨の「名言」が出てきます。「道を拓くということはな、自分だけの逃げ道を作ることやない!」。
これは医師の緒方洪庵が、自分の弟子が「自分が死んだら腑分けをして、先生のお役に立ちたい」と言い残した女の言う通りに隠れて腑分けを行なってしまい、「幕府から許される数少ない腑分けだけでは、医術の進歩もない」と弁明したとき、彼を叱責して言った言葉です。
僕が「新しい普通づくり」という言い方に託した考え方は「道を拓くということはな、自分だけの逃げ道を作ることやない!」と「多くの支持者を得られたためにいつのまにか少しも特異なものでなくなってしまった特異さ」です。連載の第一回目の原稿で書いた「『いつ普通になるかわからないが、いずれ普通になってほしい普通」というフレーズとも通じるところがあると思います。
こういった「新しい普通づくり」のことを、あえて「思想」と呼んでもいいと僕は思います。内田先生は、「思想」と「イデオロギー」の差についてこう述べています。
「思想を語るものは、『このようなことを語るのはさしあたり私だけであり、私が語るのを止めたら、それは私とともに消える。私が語り続けているうちに、いずれ私の考え方を受け入れ、理解し、それに同期して思考する読者たちが出現してくるであろう。そのとき、私の考えは私念であることを止めて公共性を獲得する』と考える。
イデオロギーを語るものは『私と同じことを考えている人間は無数におり、私が語るのを止めても誰かが私に代わって同じことを語るであろう。だから、私の言葉が粗雑で、非論理的で、挙証不足で、今これを読んでいる読者を納得させられなくても、何ら問題はない』と考える。
逆説的なことだが、思想の公共性を支えているのは『孤立していることの自覚』であり、イデオロギーの閉鎖性を作り出すのは『圧倒的多数が自分と同じ意見であるはずだという無根拠な信憑』なのである」(3)。
つまり、 「孤立していることの自覚」とそれに基づいた実践が、「普通」に風穴を開け、 一抹の公共性を点灯させ、ついに「新しい普通づくり」につながるのではないでしょうか。
皆さんに、「孤立している同士」でいっしょに頑張りましょう、と呼びかけたいと思います。
(1)内田樹『凱風館日乗』河出書房新社、2024年
(2)三島邦弘『ここだけのごあいさつ』ちいさいミシマ社、2023年、46頁。
(3)内田樹『街場の読書論』太田出版、2012年、395-396頁。