第17回
「みなさん、日本語がお上手ですね」という言い回しを不思議がる(前編)
2025.02.06更新
過日『野生のしっそう』(ミシマ社)の著者である猪瀬浩平先生と埼玉県の某所で対談があったため、5泊6日間日本に滞在していました。対談の前日、せっかくなので、前々から訪れたかったミシマ社自由が丘オフィスにも行ってきました。僕はミシマ社の皆さんの温かい歓迎ぶりに感動したあまり、一瞬言葉(ここでは「日本語」ですね)が出なくなりました。幸いに皆さんのご親切な言葉で気を取り戻すことができ、この連載で大変お世話になっている編集チームのSさんとも電話でお話することができました。Sさんに「朴先生、自由が丘のメンバーに会われていかがですか」と訊かれると、思わず僕は「皆さん、どなたも日本語運用能力がとても優れていてちょっといま落ち込んでいます」と答えたら、彼女に爆笑されてしまいました。
このやりとりの瞬間、僕の頭には「『みなさん、 日本語がお上手ですね』という言い回しを不思議がる」という連載のタイトルが浮き上がってみえていました。
だって、実際に「みなさん、日本語がほんとうにお上手なのに」それをあえて言葉にすると、不思議なことにどうしてみんな面白がったり、おかしがったりするんだろうかと、素朴な疑問がわいてきたからです。なお、もしかすると、ここに「言葉」や「言葉の記述」そして「意図」などをめぐるいままでわれわれ(僕も含めて)が気づいてない大事なことが潜んでいるのではないかという予感がしたので、ちょっと興奮していました。
それでは、僕とSさんが電話上で交わした例の会話をさっそくちょっと見てみましょう。
Sさん:朴先生、自由が丘のメンバーに会われていかがですか?
僕:いやいや、とてもうれしいです。それにしても、みなさん、日本語がほんとうにお上手ですね。それで、僕いまちょっと落ち込んでしましました。そして自分の日本語運用能力について猛省中です。
Sさん:(1.5秒くらいの間をおいて)ハハハ!!
この会話の場面を振り返ってみて、一つの疑問が僕のなかから湧いてきました。その疑問を聞くあなたは、きっとつまらな過ぎてがっかりするでしょうけども、こういう疑問です。「なぜSさんは僕の話を聞いて笑ってしまったのか」ということです。それはたぶん「みなさん、日本語がお上手ですね」という言い回しを文字通りに受け止めたわけではなく、僕がこの言葉を使いながら「何か」をすること、つまり、ある種の「意図」を読み取ったからではないでしょうか。その「意図」とはまぎれもなく「笑いをとるために冗談をいう」ということですよね。
つまり、こういうことでしょう。普段僕のような外国人が日本人が日本語を使っているのを見て、「あなた、日本語がお上手ですね!」という言い回しはまず使わないんですよね。そういう「規範的ルール」を僕があえて破ったのがおかしかったのでSさんは笑ったと思います(たぶん)。そして、ここではもう一つの会話のルールが働いていたと思います。それは「冗談」には「笑い」で対応するという、我々社会の規範的なルールです。ここで、僕がいう「ルール」とは経験的に確かめられた実証的「概念」というよりはむしろ、ルールに従ったり従わなかったりすることが、それに対応した社会的結果を生み出していくという意味で、アプリオリな性格をもったものです。つまり、ここで僕がいうルールとは経験的規則ではなく、私たちがメンバーとしてコミットしなければならない「規範的」で「道徳的」な秩序なのです。
ここで、また一つの疑問がわいてきます。それはSさんはどうやって、僕の「意図」(言葉を発しながら笑いをとること)を読み取ることができたのかということです。
われわれの常識(普通)からすると、人の「意図」というのはそう簡単に他人の眼にも見えないし、つかむこともできないし、アクセスすることもできないものではないでしょうか。
この「意図」をめぐる問題は、社会学の伝統のなかで、パーソンズという人によって「行為者の主観的観点」を行為モデルの中にどう取り込むか、という形でとらえられてきました。そして、概ね、社会学の歴史は、「行為者の主観的観点」を取り込むことの失敗の歴史だったのです。実際、パーソンズはあるところで、こんなことを言っていました。「カエサルの暗殺を理解するための最善のやり方は、もちろんブルータスにインタビューすることだけれど、残念ながらブルータスはもうこの世にはいない」と。
本人に聞けばいい。はたしてそうでしょうか。実は、この勧告は的を外していると思います。もちろん、本人に聞かなければわからないこともあります。たとえば、ミシマ社のメンバーたちが、自分たちの勤務の時間帯を「Aシフト」「Bシフト」といった社内用語で表しながら会話をしているとき、それらを動画で見ていても、何のことだかわからない。そのとき、本人たちに、そのAだとかBだとかというのは何なのかを聞けば、すぐわかりますよね。様々な背景情報には、本人たちに聞かなかればわからないことももちろんあります。このことを否定するつもりはまったくない。
ただし、そもそも「本人に聞く」ということが一つの際立った「行為」であること、このことにわれわれは敏感でなければならないと思います。
僕とSさんのやり取りに戻ると、言葉を発した本人(僕のこと)に別に聞かなくても、Sさんは僕の意図を見事に読み取って笑ってしまいましたよね。このこと(我々がありふれた日常のなかでごく自然におこなっていること)とパーソンズという社会学者が創り上げた学知(意図を理解する最善の方法は本人に聞くことである、という考え)との間の際立ったずれはどう説明すればいいでしょうか。
さらに、このずれはパーソンズの学知からだけでなく、デュルケームの学知からもうかがうことができると思います。デュルケームもあえて我々の「主観的観点」にふれないよう心掛けているように僕には見えます。こういう考え方はデュルケームの「自殺論」にはっきり現れています。デュルケームは「自殺」についてつぎのように定義しました。「死が、当人自身によってなされた積極的ないし消極的な行為から直接・間接に生じる結果であり、しかも当人がその結果に生じうることをあらかじめ知っていた場合を、すべて自殺と名づける」と。
みなさんはこの文章を読んでどう思われますか。少なくとも僕にとってはデュルケームは、この定義をえるにあたり、人間の「心的な事態(たとえば「意図」)」に言及することを用心ぶかくさけているように思われます。人間の内面は外部から観察できず、その限りで経験科学としての社会学になじまないから、というだけではありません。本人にとってさえ、本当のところ自分がなにを思いなにを欲しているかをはっきりいうことは困難だからです。
とはいうものの、いずれにせよデュルケームの上の定義は、なんらかの形で「意図」とか「信念」といったものに言及しているのでないかぎり、「自殺の定義」とはやはりなりえないと僕は思うのです。たとえば、山道で蛇に出会い、びっくりして思わず谷側に飛び跳ねてしまいそのまま谷底に落ちたとき、その結果死んでしまったとしても、それはあくまでも「事故死」であって「自殺」ではありません。このとき、死をもたらしたのは、まぎれもなく「谷側に飛び跳ねる」という当人の(反射的)ふるまいであり、しかも当人は、そんなことをすれば死がもたらされるということをあらかじめ知っているはずです。にもかかわらず、これが「自殺」ではないのは、谷側に飛び跳ねることにより死がもたされること、そのことが「意図」されていなかったからにほかなりません。あるいは、かの飛び跳ねが意図的な「行為」ではなかったからにほかなりません(もし飛び跳ねることと死ぬこととの因果関係を知りながら、飛び跳ねを意図したなら、それはとりもなおさず「死」を意図したことにほかならない)。
ですから、デュルケームの定義において、「当人自身によってなされた・・・行為」とあるのは、やはりあくまでも「行為」でなければならず、単なる「ふるまい」では足りません。「行為」を単なる「ふるまい」から区別するのは、それが「意図」されたことであるという点です。
ユジン(『冬のソナタ』の主人公たちを例に使わせてもらいましょう)が締め切った窓のほうに目をやりながら「暑いね!」という音を発するとき、ユジンは、「窓を開けてほしい」とチュンサンに「依頼」しているかもしれません。つまりユジンはそういう「依頼」をするという「意図」をもって、そのようにふるまっている。このとき、ユジンは「依頼」という行為をしたことになります。一般的にいって、一定のふるまいのなかに何ならかの「意図」が読み込まれるとき、その振る舞いは「行為」と言えます。そのかぎりで、「自殺」も一つの行為であります。「自殺」とは(先のデュルケームの定義を変形していえば)死が、当人自身のふるまいによってもたらされ、しかも当人によってそのふるまいが死をもたらすよう直接・間接に「意図」されていた場合のその死のことにほかならない。
しかし、デュルケームはどうしてこのようなありふれた「現実」に目を向けなかったのでしょうか。その理由の一つに彼の「常識あるいは日常の些事の軽視」があったのではないかと僕には思われます。
デュルケームは、社会学と常識の関係をつぎのように表現しました。「常識から自由になっていると思っているときでも、われわれの無防備を衝いて、常識はその判断を押しつけてくる。......以下のことをどうかくれぐれも忘れないように読者に望みたい。すなわち、もっとも一般的に行われている思考の様式は、社会現象の科学的研究にふさわしいものであるよりは、むしろそれに反するものであることを心にかけておくこと、したがって、社会現象についての第一印象に警戒を怠らないことである」(1)。
ここに述べられていること、それは「常識」に対する深い軽蔑の念であると僕には読み取れます。常識はたいてい間違っている、だから、科学は常識を却けなければならない、というわけです。このような考え方は。ある意味では馴染みやすいし(それこそ我々の「普通」であり「常識」ですから)、実際、社会学は常識に代わる「精確」な知識を得ようとしてきました。
デュルケームは『自殺論』の冒頭ではつぎのように言っています。「自殺という言葉はしじゅう会話のなかに登場するので、その意味はだれにとっても自明のもので、ことさら定義をくだすにはおよばないとおもわれるかもしれない。しかし、じつは日常語というものは、それによってあらわされている概念と同じように、いつも曖昧なものなのだ。だから、学者が日常語を慣用どおりに使って、その意味を特別に吟味し、あらためて規定する労をいとうならば、重大な混乱におちいるだろう。」(2)だから、自殺を論じるにあたり、まずは「自殺」の「厳密な定義」が必要だというわけです。「自殺」がなんであるかは常識として、私たちは知っている。しかし科学的探究のためには、この常識ではダメで、曖昧な常識的概念(ことばの、常識的に漫然と考えられている意味内容)は、 厳密な科学的概念(科学的にきちんと再定義された意味内容)に取り替えられなければならない、ということです。
たしかに、日常語は曖昧かもしれない。たとえば、抗議のハンガーストライキで獄死した政治犯は、自殺したと言えるか、特攻隊の場合はどうか。あるいは、自分の背中を毒針で刺して死んでしまった蛛は、どうか。常識に従うかぎり、これらを自殺であるとも自殺でないとも、はっきり言えません。あるいは、人によって自殺と言う人もいれば、言わない人もいます。つまり日常語としての「自殺」は曖昧にみえます。
しかし社会学は、ある死がほんとうに自殺かどうかを決定する必要はないし、そうするべきではないと思います。実際ある死がほんとうに自殺かどうかという問いは、社会生活を営む当人たちが、まさにその社会生活の中で答えようとしている問であり、それ自体その社会生活の一部でもあります。だから、社会学者は何も当人たちに成り代わってその問いに答えてやる必要はありません。むしろ、その問いが(当人たちにとって)問われることで何が成し遂げられているかを、きちんと記述するべきだと思います。社会学のやるべきことは、あくまでも「自殺」という言葉がその時にどのように使われ、そうすることでどのように社会生活が営まれているかを、みることであるはずです。あるいは、少なくともこのような社会学があってもよいでしょう。
このような従来の社会学の常識蔑視の態度と街場の人が発する言葉への不信は、一つの「言語観」に支えられていると思われます。「言葉」とは背後にある実在を映し出すものだという言語観です。この言語観のもとでは、言葉は、実在を正しく映し出しているか間違って映し出しているかのどちらかである。そして、この「言語観」に立脚する社会学者は、デュルケームのようにもっぱら、街場の人が発する言葉がその人々の意識や行動や人間関係などの事実を正しく映し出しているかどうか、すなわちその表現内容の「正しさ」や「正確さ」に関心をむけることになりかねません。
しかし、このような考え方は社会学の重要な主題を取り逃がしてしまうように、僕には思えます。つまり、こういうことです。 私たちは、常識的なことば(日常語)もしくは概念をもちいながら社会生活をすでに営んでおり、 社会学が論じるべきことは、まさしく他ならぬこの社会生活であるはずです。たとえ常識的概念が「曖昧」であっても、私たちが私たちの社会生活を営むなかで、あるいはそのためにもちいているのは、まさにこの概念です。ところが、この概念が「曖昧」だからといって、それを「厳密」な別の概念に取り替えてしまうならば、まさに社会学が論じるべきことが失われてしまうことになりかねないではないか。社会学は、いわば自分で勝手にでっち上げた概念についてあれこれ論じてみても、それで、現にある社会現象について論じることになるのか。まるで鏡に映った自分の姿にむかって吠えている犬のようではないか。
僕が言いたいのは、こういうことです。 社会学にとって常識はかならずしも却けるべきも のではない。むしろ、常識あるいは日常の些事は社会学の一級の対象であるはずだ。常識に代わる科学的知識ではなく、 常識あるいは日常の些事についての科学的知識というものがあってよいはずです。
中途半端な科学者は「科学のエリア」と「世事のエリア」をきれいに切り分けて、「科学のエリア」 は客観的事実とそれを説明しうる合理的な理説が支配しており、「世事のエリア」には曖昧さが蠢いているというふうに考えがちです。でも、真の科学的知性はそんな区分をまずしないと思います。 真に科学的な知性は、「世事のエリア」における出来事についても、それがある種の包括的な理説によって説明可能であると考えると思います。
誤解してほしくないのですが、それは「すべては科学で説明できる」と公言するいわゆる「科学主義者」の単純さとはまったく別のものです。そのような単純な「科学主義者」はかつてデュルケームがやったように「科学では説明できないこと」を簡単に「曖昧さ」にカテゴライズして、ためらわず視野から排除するはずです。
真に科学的知性は、そうではありません。それは「あらゆる現象を勘定にいれる」ことのできるしなやかさや度量の深さを必ずともなっていると思います。
それは彼らが科学的理説の「極限」近くで仕事をしているからでしょう。「極限」近くの境域(たとえば日常)は、定説化した科学的理説がしばしばうまく適用できない場面です。そのような「酸素の薄い」エリアで仕事をしている方はむしろしばしば「あまりに非科学的と思えるもの」に惹きつけられる傾向があります。それが科学的理説の豊饒化(つまり「極限」をすこしだけ先に広げる可能性)にとって生産的な刺激であることを知っているからです。
そういう観点からみると、これから紹介する H・ガーフィンケルは真に科学的知性だと僕は思います。
(「後編」につづく)
*後編は2/7(金)公開予定です
(1)デュルケム(著)宮島喬(翻訳)『社会学的方法の規準』第一版への序文、岩波文庫
(2)デュルケーム(著)宮島喬(翻訳)『自殺論』中央公論新社、kindle 8%