ピアノ馬

第2回

ピアノがはじまる(下)

2022.07.06更新

 中学生のときエレキギターを買って友達の家で「レイラ」を練習した。高校にあがってテナーサックスを手に入れ、ジャズクラブでプロに演奏をならった。それ以降、自分で楽器を弾く、という思いつきが頭に落ちてくることはなかった。

 このうちに、ピアノはあるのに。

 それを運び入れるため、座敷の畳の下に補強用の床まで敷いたのに。

 およそ十年前だ。京都の音楽好きなら誰でも知っているライブハウス「磔磔」のピアノが代替わりするという。後ろに破れ穴のあいている古いアップライトピアノを、誰か引き取らないか、という話がまわってきて、反射的に手をあげた。

 ひとひは二歳だった。はじめは鍵盤の上にミニカーを敷きつめ、ひとさし指一本でポーンと鳴らし、

「これ、レッカー車のおと」

「これ、ジーティーアール32のおと」

 指二本でポロポロ弾きながら、

「これ、レクサスRCFとホンダNSXのレースのおと」

 そのうちヤマハ音楽教室に通い、成長するにつれ、テキストの課題曲以外、「いとしのエリー」「宿命」「イマジン」などその時々で好きになった曲を、発表会用に練習するようになった。いまは、来週ひらかれる「ピアノステージ」のため、スタンダードナンバー「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」、ザ・ビートルズの「イン・マイ・ライフ」を特訓中だ。

 ひとひの演奏をきき、楽譜をみてアドバイスすることはあった。絶賛し、はげまし、重いピアノ椅子を引いたりしまったりするのはぼくの役目だった。ほぼ毎日、その楽器の音を間近でざんざん浴びていた。なのに、自分の手で鍵盤を弾いてみようと考えついたことは、一度としてなかったのだ。

 背を丸めてピアノに向かう、シュローダーの姿を思いおこすまでは。

 思いたったら即行動、という主義でもないけれど、このことに関しては、停滞している暇はない、と思った。ことは音楽。リズムとテンポ、音の流れがなにより重要だ。レコード屋さん、ひとひの通うヤマハの講師、知り合いのミュージシャンと、顔を合わせるごとに、

「どなたか、五十過ぎのおっさんにピアノ教えてくれる先生、知りませんか」

 と訊ねまわった。なかなか進展がなかろうが、まったく心配していなかった。こういうのは縁の問題だ。かきまわしているうち、水面に渦ができ、集まるべきもの同士が自然と集まってくるものなのだ。

 ある夜、ネット上に、見なれないサイトを見つけた。結婚相手や恋人のマッチングアプリみたいに、ピアノを習いたいひとが登録しておけば、希望の条件に合わせ、ピアノの先生を紹介してくれる。

 ぼくは、「左京区・時間帯はいつでも・家にピアノあり・初心者・ベートーヴェンのソナタ第32番を死ぬまでに一度弾きたい」と記入し、サイトの運営者に「紹介希望」と送信した

 翌日、運営者から早々に返信があった。ちょうど前日に登録のあったピアノ講師が、京都市左京区在住だという。

「得意分野クラシック・70代女性・時間は応相談・体験レッスンは意味がないのでやっていません」。文面のシンプルさ、厳しくもていねいな気配が、胸のなかに波紋のように広がった。

 ぼくは運営者に、この講師の方と会ってみたい旨をメールで告げた。即座に返信があり、講師の名前と住所、メールアドレスのあと、「講師の方にもあなたの住所と連絡先を送りました。これから先はあなたと講師とでじかに連絡をとり、関係が成立したら、仲介料を振り込んでください」と記されてある。

 ここ最近は、こういう流れで恋人ができたり、結婚したりするんだな、と感心し、青く揺れるディスプレイの画面をぼんやりと眺めた。

 講師の名前は山下Y子さん。気になったのは住所欄だ。京都市左京区、につづいて「東竹屋町」が同じ、さらに番地の数字のひとけた目まで同じ、つまり、ぼくのいる、ズバリこの町内に住まうかた、ということになる。

 そんなひと、いたっけ。

 その夜、まだ見ぬ「山下Y子さん」に「はじめまして」とメールを書いた。「音楽は好きですが、ピアノはまったくの初心者です。楽譜は読めます。同じ町内のようですがお心あたりはありますか。玄関の前にメダカの水槽が三つ置いてある家です」。そう書き送ってから、オーディオ装置のターンテーブルにマリヤ・グリンベルクの「ソナタ第32番」をのせた。

 さんざん聴きくらべたピアニストのなかで、ぼくは、このひとのピアノがもっともすばらしい、と感じている。1908年、ウクライナ・オデーサうまれ。人種と階級差別のため、旧ソ連内で壁に閉じこめられるようにしか活動できなかった。というのに、その小柄なからだで、全人類の耳に響きわたるような音楽を響かせた。

 翌朝はよく晴れていた。メダカにごはんをあげようと玄関で雪駄をつっかけたら、家の戸がガラリとあいて、

「いしいさん、わたし、びっくりしたわ」

 と声がした。揺れる麻のれんのむこうに小柄なひとかげが立っていた。

「いしいさんも、びっくりしはったやろ。どないしはる。決まりわるいかなあ。うちはべつにかまへんのやけど」

「山下さん」

 と、ぼくは、白いのれんを押しあけ、

「山下さん、て、山下さんやったんですね」

 あふれかえる陽光のなか、山下さんの奥さんに向かい合っていった。

 ぼくが毎日小説を書く2階座敷の、ガラス窓のむこうに山下さん家の茶室がみえる。その横には、山下さんが大家さんであるアパート「若竹ハイツ」が建っている。ぼくと園子さんがこの東竹屋町の家に越して以来、十二年間以上、隣家の山下家とは、毎日、回覧板をまわしあってきた。

 そんな風な自然さで、ピアノ講師、山下さんの奥さんはいま、ぼくの目の前に立っていた。音楽とは、ピアノとは、縁の渦とは、こんなにも鮮やかに、地球のただ一点に収斂するものなのか。

「びっくりしました。びっくりしましたけれど、うれしいです」

 ぼくはいった。

「音楽の神様が、ここでピアノ弾きなさい、ていうたはるんやと思います。よろしくお願いします」

「そうなんかなあ」

 山下さんは笑った。

 という顛末で、ぼくは毎週月曜の午後、コンクリート塀一枚へだてて建つ山下さんの家へ、ピアノを習いにいくことになったのである。

(了)

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いしい しんじ

いしい しんじ
(いしい・しんじ)

1966年大阪市生まれ。京都大学文学部卒。94年『アムステルダムの犬』でデビュー。2000年、初の長編小説『ぶらんこ乗り』を発表。03年『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞、12年『ある一日』で第29回織田作之助賞、16年『悪声』で第4回河合隼雄物語賞を受賞。著書に『トリツカレ男』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『よはひ』『海と山のピアノ』『港、モンテビデオ』『きんじよ』『みさきっちょ』『マリアさま』『ピット・イン』『げんじものがたり』など多数。最新刊は『書こうとしない「かく」教室』。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。現在、京都在住。

編集部からのお知らせ

8/17(水)イベント:いしいしんじ 書こうとしない「かく」教室 松本編@栞日 開催します!


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 この夏、いしいしんじさんが松本に戻ってくる!

「この本は、書く時に言葉をどう動かしていけばいいのかということを正面から扱っていて、頼りになる」(渡邊十絲子「毎日新聞」本紙 2022.6.25)

 いしいさんの新刊『書こうとしない「かく」教室』は、子どもから大人まで、「書こう」とする人たちを自由へと導く、類のない一冊です。その本書の欠かせぬ一章を担っているのが「松本」編。この地で小説『みずうみ』が生まれた経緯がつづられています。
 そして今回、その舞台である松本で、いしいさんが「かく」教室を開講!

 講座内ではご参加の皆さんに実際に文章を書いていただき、ご希望の方にはいしいさんがコメントしてくださいます!
 今回の教室は「こども編」と「おとな編」の二本立て。夏休みの作文に困っているこどもも、仕事や趣味で文章を書いているおとなも、そしてもちろん「かく」ことが好きな全ての皆様、ぜひご参加ください。オンライン参加も可能です!

開催詳細・お申込みはこちら

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