ピアノ馬

第3回

馬がはじまる(上)

2022.07.21更新

 ピアノ馬、のタイトルの、馬のほうの話。

 小2の冬、だから、もう4年前、ひとひは乗馬クラブ「クレイン京都」の体験乗馬に参加した、鞍から降りるや、ことばにしようのない、はちきれそうなオーラを放射させながら、歩みより、見あげ、表情だけでぼくに訴えかけた。その瞬間、ひとひの乗馬歴がスタートした。

 一レッスン(ひと鞍、ふた鞍、と数える)、45分。ひとり一頭ずつ、台の上から鞍をまたぎ、乗馬用に調教された馬の背におさまる。メンバーがそろったら、直径10メートルほどのサークルを、はじめはひとりずつ教官の引き綱つきで、そのうちみずから手綱をとって、五頭、六頭だてで、何周も何周も歩く。

 てくてく歩くのが「常足」、と書いて「なみあし」。そのうち、教官の合図で馬は「速足」、「はやあし」にうつる。乗り手は鞍の上で、馬の歩調に合わせて尻を上下させ、タイミングをとる。

 七十がらみのおばさんも。ベテラン風のおじさんも。ポニーテールの女子校生も。先月はいったばかりの小2のひとひも。

 すぐに気づいた。乗馬は、こどもが早いうちから習いはじめるのに、理想のスポーツだ。

 鞍の上では、腰を据え、背筋をまっすぐ伸ばしていなければならず(そうでないとずり落ちる)、自然、どんな子も姿勢がよくなる。

 クラブでは、おとなであろうが、こどもであろうが、レッスン前後の馬具の準備、装着、片づけ、馬の蹄のケア、ブラッシング、水やり、ボロ(糞)の掃除など、ぜんぶ自分でおこなう(背が届かなければ教官がてつだう)。鞍は重いし、馬はでかい。夏は暑く、冬は寒い。泥とボロと汗にまみれ、おっかなびっくり馬とつきあううち、ごく自然に、こどもたちに「力」がそなわってくる。

 さらに、よくいわれることだが、馬はひとのこころがわかる。こわいな、とか、かわいいな、とか、ほんとうに伝わる。だから、適当な態度だと思いっきりなめられるし、真摯に向きあうなら素直にこちらに従ってくれる。

 ことばを介さない、目と目、こころとこころをじかにつなぐやりとりが、馬となら可能なのだと、おさないこどもには一瞬にしてわかる。馬に嘘をつくのは、自分に嘘をつくこと。馬を信じるのは、自分自身を信じること。

 乗馬は、馬に乗って走るだけではない。他者とコミュニケーションをとり、みずからを見つめ、信じる力をはぐくむスポーツなのだ。

 
 ひとひが乗馬にはまるのは必然だった。

 もともと、犬やパンダから、カエル、なまこ、アロマノカリスにいたるまで、なべて「カワイイ」と賞賛する生きもの好き。また、モータースポーツの雑誌から、親子で連載を、と頼まれるほどの乗りもの好き。

 乗りもの×生きもの=馬。

 毎週、土日のどちらかはかならずクレインにかよった。そのころクラブはまだ、京阪の樟葉駅からバスで二十分ほどで着く「きんめい公園」の、さらに奥に位置していた。

 ほとんどのメンバーは自家用車をさっそうと、クラブハウス横の駐車場に乗り入れ、馬具、道具をいそいそとトランクからおろしている。ぼくとひとひのように、電車とバスを乗り継いでくる親子はめずらしかった。炎暑の夏も、寒風ふきすさぶ真冬も、乗馬ブーツ、ヘルメット、鞭、鞍をつけるための踏み台、エアバッグベストを抱え、低学年のひとひはえっちらおっちら、ぼくはしきりに声をかけながら、クラブまでの道をならんで歩いた。

 やがて柵のむこうに、馬場がみえてくる。栗毛、芦毛、鹿毛。土を蹴って跳ね、障害バーを飛び越して走る。

「ああ、馬やあ」
 荷の重さをふきとばしてひとひが柵に駆けよる。
「やっぱ、馬はええなあ」

 レッスンの予約は、一日にふた鞍。教官はみんな気さくで、「ひとひくん、どこまで進んだ?」「ええ、もう、ベーシックAなん。はやいな」など、ほうぼうで声をかけてくれる。受付やクラブにいるスタッフのみなさんも、一流ホテルのフロントなみに機転がきき、真摯、かつ笑顔がさわやかで、乗馬、という時間の質を、豊かでいごこち良くたもたせてくれる。

 みんな馬が好きだった。だから、馬好きのこどもが大好きなのだ。

 そして、馬たちとの出会い。乗りはじめて半年で、ひとひは何頭もの馬の顔を見分けられるようになった。レッスンごとに、乗る馬がかわる。乗り手のレベルによって、クラブのほうが適した馬を割り当ててくれる。

 レッスン前にモニターをのぞいて、
「あ、またキューブか」
「やった、リリーや、リリーストライカー」
「トワイライト、めっちゃ乗りやすい」

 気に入った馬もでてくる。というか、乗った馬ならみんなお気に入りだ。

 ひとひ以外にも、レッスン前後のクラブハウスには、男女とわず、小学生のメンバーがそこここにいる。さっき書いた理由から、こどもは馬との心理的距離が短い。とある教官にいわせれば、
「馬は、こども乗せるんが、好きですねん」
 その理由は、こころに濁りがないため、というわけでなくて、
「軽いでしょ」
 教官は、へへ、と笑い、
「馬もラクしたいからね」

 クラブから配布された、当時の「乗馬レコードブック」に、レッスンごとのひとひの反省点が、おぼえたての漢字も混ぜて記されてある。

・早くはしるときは、足をうしろにする。
・やっぱりせぼねをはる。
・アガシーは、草をたべたいからたずなをひく!
・マドンナはおばあちゃんだからやさしくキックする。
・リリーはよく首を下げるからたずなをひっぱる。


 ある日、といって、正確な日にちはわかっている。2018年11月18日、クレイン京都に通いはじめて8ヶ月が過ぎた日曜の午後、レッスンを終えたひとひ(このときは小3)が、
「なあ、おとーさん、帰り、いきたいとこあんねんけど」
「どこや、くずはモールでからあげか。それか、なまジュースとか」
「ちゃうのん」
 ひとひは頬をかがやかせ、
「とちゅうでな、淀でおりたいねん。ぴっぴ(ひとひの自称)、けいば、みたことないやん。クレインの、乗馬の、かわいい馬も好きやけど、めっちゃはやい、かっこいい馬もみてみたいなあ、って」
「ふうん」
 いわれてすぐ、頭のなかに、京阪電車の路線図を描く。

 自宅は京都の、終点のひとつ手前「神宮丸太町」。クレイン京都のもよりは、バスに乗って到着する「樟葉」。その間やや東寄り、「淀」駅をおりたところに、京都競馬場がある。学生の頃以来、しばらく足をむけていない。

「よし、いこか」
 とぼくはうなずいた。
「この時間やし、10レースくらいには、まだ間に合うやろ」
「おとーさん、競馬知ってんのん」
 と嬉しげなひとひ。
「ちょっとだけ」
 とぼく。
「ぴっぴは知らんやろけど、東京で、オグリキャップっていう馬の最後のレースで、めっちゃ泣いてん」
 ひとひは心配そうに、
「悲しくて?」
 ぼくは首を振り、
「かっこよすぎて」

(つづく)

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いしい しんじ

いしい しんじ
(いしい・しんじ)

1966年大阪市生まれ。京都大学文学部卒。94年『アムステルダムの犬』でデビュー。2000年、初の長編小説『ぶらんこ乗り』を発表。03年『麦ふみクーツェ』で第18回坪田譲治文学賞、12年『ある一日』で第29回織田作之助賞、16年『悪声』で第4回河合隼雄物語賞を受賞。著書に『トリツカレ男』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』『よはひ』『海と山のピアノ』『港、モンテビデオ』『きんじよ』『みさきっちょ』『マリアさま』『ピット・イン』『げんじものがたり』など多数。最新刊は『書こうとしない「かく」教室』。お酒好き。魚好き。蓄音機好き。現在、京都在住。

編集部からのお知らせ

8/17(水)イベント:いしいしんじ 書こうとしない「かく」教室 松本編@栞日 開催します!


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 この夏、いしいしんじさんが松本に戻ってくる!

「この本は、書く時に言葉をどう動かしていけばいいのかということを正面から扱っていて、頼りになる」(渡邊十絲子「毎日新聞」本紙 2022.6.25)

 いしいさんの新刊『書こうとしない「かく」教室』は、子どもから大人まで、「書こう」とする人たちを自由へと導く、類のない一冊です。その本書の欠かせぬ一章を担っているのが「松本」編。この地で小説『みずうみ』が生まれた経緯がつづられています。
 そして今回、その舞台である松本で、いしいさんが「かく」教室を開講!

 講座内ではご参加の皆さんに実際に文章を書いていただき、ご希望の方にはいしいさんがコメントしてくださいます!
 今回の教室は「こども編」と「おとな編」の二本立て。夏休みの作文に困っているこどもも、仕事や趣味で文章を書いているおとなも、そしてもちろん「かく」ことが好きな全ての皆様、ぜひご参加ください。オンライン参加も可能です!

開催詳細・お申込みはこちら

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