第3回
中島岳志先生による「土井善晴論」(1)
2021.01.17更新
1月9日(土)、『料理と利他』の発刊を記念した土井善晴先生と中島岳志先生による対談イベント「料理はうれしい、おいしいはごほうび。」がオンラインで開催されました。
『料理と利他』は、不安だけが先行する昨年のステイホーム下に行われ、圧倒的な支持を受けたお二人の2度のオンライン対談を再現した本です。はからずも、2度目の緊急事態宣言の発令翌日に開催された今回のイベント。冒頭の30分は、中島岳志先生があらためて、いまなぜ土井先生の思想が大切なのかという「土井善晴論」をお話くださいました。その内容を、多くの方にお届けしたく、本日と明日の2日間にわたり、掲載させていただきます。
そのあとに続いたお二人の対談では、「無力から生まれる祈りのお話」「お屠蘇やおはぎづくりの実演をしながら、和食にある生死循環という世界観のお話」「大切なものは事後的にやってくるというお話」などなど、心が洗われるような対話が続きました。そちらにご興味のある方は、ぜひアーカイブのほうより、ご覧ください。
構成:角 智春
なぜ、一汁一菜は念仏なのか?
まずは最初の30分間、私が「土井善晴論」をお話させていただきます。土井さんの発言で、私が最近注目しているものがあります。それは、『月刊住職』2020年12月号に載った土井さんの文章のなかの「一汁一菜は念仏だと思います」という言葉です。土井さんは、釈徹宗さんとの対談でも「一汁一菜は「南無阿弥陀仏」だと思うんです。[・・・]味噌汁は、それこそ仏さんの掌に乗っているようなもので、人間の力でおいしくもまずくもできません」と言っています。
なぜ土井さんは、一汁一菜や料理を「念仏」だと考えているのか。この言葉には、土井さんの料理論のエッセンスが込められていると私は思います。
「南無阿弥陀仏」は仏教における浄土門の念仏です。直訳すると「阿弥陀仏に帰依します」となります。「念仏を唱えると、往生して極楽浄土に行ける」と一般的に説かれたりもしますよね(のちほど、この解釈についても考え直してみましょう)。念仏と料理の問題に近づくために、まずは土井さんと家庭料理の出会いから話をはじめます。
「家庭料理は民藝や」
土井善晴さんを語るうえで欠かせない人物は、お父様の土井勝さんです。家庭料理の第一人者として知られる方です。土井善晴さんは、高校生のときに料理の道に進むことを決心しました。しかし、父の勝さんを継いで家庭料理の世界に入ろうは思っていなかったそうです。
土井善晴さんは大学に入ると、1年休学をしてスイスのローザンヌで料理の修行をし、帰国後は、大学に通いながら神戸のレストランで働きました。大学を卒業すると、こんどはフランスに渡航します。「和食の家庭料理」という土井さんのイメージとはかけ離れた経歴で、すこし驚く方もいるかもしれません。
フランスで土井さんが見たのは、世界のトップクラスの料理人たちが、ミシュランの星をとるためにしのぎを削っている姿でした。若い頃の土井さんは、自分もかれらの仲間入りをして、名のある料理人として活躍したいと強く願ったそうです。帰国してからは、京都の「瓢亭」の料理長に「仕事をさせてください」と懇願し、大阪の「味吉兆」の新店舗で働きました。一流の料理人になって、パリで日本料理屋をオープンさせることが当時の夢だったといいます。
そんなとき土井さんは、父の勝さんから料理学校を手伝ってほしいと頼まれました。一流の料理人を目指していた土井さんは、「なんで私が家庭料理やらなあかんの」と思ったそうです。そして納得しきれないまま、父の仕事を手伝うことになります。このとき、土井さんにとって重要な出会いがありました。
それは、京都の河井寛次郎記念館における「民藝」との出会いでした。河井寛次郎は、濱田庄司や柳宗悦とならんで、日本の民藝を切り拓いた人物です。記念館に行った土井さんは、「家庭料理は民藝や」と気づきます。なぜ、土井さんは家庭料理を民藝だと思ったのか。それを考えるために、民藝の本質に接近してみましょう。
民藝という概念をつくった中核の人物は、柳宗悦です。柳は、浄土宗・浄土真宗や時宗から強い影響を受けていました。浄土門において重要な考え方は、「自力」に対する「他力」の重視です。自分の力でなんでもやれるという発想は、人間のさかしらなはからいであり、思い上がりである。自分の力では及ばないものがあると知ったときにやってくるのが、仏の力(阿弥陀の本願)としての他力です。
他力本願というと「他人まかせ」と捉えられることもありますが、本来はそうした通俗的語用とはちがって、他力は人間が及ばない仏の力のことです。民藝の世界は、ここに美を見出しました。「自分の力で美しいものをつくろう」「アートを作ろう」という作為ではなく、無名の人たちがつくった、日常で使う(ご飯を食べる、お茶を飲む・・・)ための道具のなかに、自力を超えた他力の美が宿る。柳はこれを民藝の「用の美」だと考えました。
土井さんはこういうふうに言っています。
日常の正しい暮らしに、おのずから美しいものが生まれてくるという民藝の心に触れたとき、「ああ、これって家庭料理と一緒や、家庭料理は民藝なんや」という確信が初めて持てた。そう捉えたら、「これはやりがいがある世界や」と思えるようになりました。
家庭料理や民藝は作為に基づくのではなく、家族に食べてもらうため、日常で使ってもらうために毎日淡々とつくられているものですね。そういうものに、はからいを超えた美しさが宿る。これが「家庭料理は民藝や」という境地です。
おいしさや美しさを求めても逃げていくから、正直に、やるべきことをしっかり守って、淡々と仕事をする。すると結果的に、美しいものができあがる。
これは、土井善晴の料理論の根本にある概念だと私は思います。
レシピという設計主義を超える
私がとても面白いなと思うのは、レシピという設計主義を超えようとする土井さんの姿勢です。土井さんはたしかに、テレビの料理番組に出演し、料理のテキストも作っています。そこにはつねにレシピが出てきますが、しかし土井さんは「あんまりレシピにこだわりすぎてはいけない」と言っているのです。
ひとつひとつの料理で、どの粗さで混ぜるのをやめるか考えはじめたら、すごくおもしろくなるんです。ポテトサラダでも「ああ、おいしそう!」という時点でそれ以上混ぜたら、不味くなりますから。
一般的なレシピでは、「何回くらい混ぜる」などと書かれていたりしますが、土井さんはその考え方をやんわりと否定します。「ああ、おいしそうやな」というところで止めるのがいい。レシピよりも、私たちがもっているある種の身体的感覚と呼応するほうが重要であり、数値化できないものを身体で感知して判断したほうがいい、と。
「なんとなく気持ちいいな」とか、心地よさとか、違和感のなさとか、そんなふうに、身体が感じることで判断していったほうがいい。
まあ、レシピは設計図じゃありませんから。記載された分量とか時間に頼らないで、自分で「どうかな」って、判断することです。自然の食材を扱う料理には、自然がそうであるように、いつも変化するし、正解はない。というよりも、違いに応じた答えはいくつもあるんです。だから、失敗の中にも、正しさはあるかもしれません。
自然の食材は、その日の天気、獲れてからどのくらい経っているのか、という状況によって大きく変化します。だから、レシピにしたがって厳密に計量しながら料理しても、うまくはいかない。それよりも素材との呼応、つまり、目の前にある素材を見て、自然に沿って料理していくことが重要です。だから、「レシピは設計図じゃない」。料理人からはあまり聞かれることのない言葉かもしれません。
土井さんは、「火の力に任せる」、「混ぜすぎない」、「触りすぎない」、「計りすぎない」とよく言います。私たちが介入しすぎるのではなくて、いろいろなものに任せることが重要なのではないか。そうして生まれる味のむらこそが、おいしさになります。
味噌に任せればレシピの計量は不要です。
任せることやゆだねることが、土井さんの重要な料理論です。私はこれを、「与格」の考え方だと思っています。
(後半の記事はこちら)
編集部からのお知らせ
『料理と利他』はやくも4刷り決定!
土井善晴さんと中島岳志さんの『料理と利他』、はやくも4刷りが決定いたしました。「MSLive!の熱気や興奮がそのままに、一冊の書籍になっている」と喜びの声をすでにたくさんいただいております。ぜひ、お近くの書店さんで、外出が難しい場合は、ミシマ社のオンラインショップ「ミシマ社の本屋さんショップ」はじめ、オンラインストアでお買い求めくださいませ。