第5回
メヒコで起きている「戦争」について(1)
2018.10.06更新
タコスやサボテンやテキーラにならんで、いまメキシコにたいするイメージの筆頭にあがるものが、麻薬だと思います。この「めひこ日記」も、メキシコを題材にするからには、タコスが美味しい! テキーラで二日酔い! サボテンの茂る荒地で遭難! といったエピソードには何度も気軽に触れました。しかし、メキシコに生きていれば同じかそれ以上の存在感でのしかかってくる「麻薬戦争」というテーマについては、できるだけ立ち入っては書かないようにしてきました。
日本にいても、「メキシコ麻薬戦争」のニュースはたまに流れます。「抗争中のマフィアのボスや政治家が殺害された」、あるいは「秘密墓地から遺体が同時に何百体も見つかった」という報道を、みなさんもご覧になったことがあるかもしれません。こうした報道は、やたらと扇情的で、映画でも観ているかのような印象だけをもたらすことが多いのではないでしょうか。「メキシコはなんて危険な、暴力の吹き荒れる土地なのだろう」と思って暗い気分になるか、あるいは内容が自分とは疎遠すぎて具体的な感覚をなにも抱けないうちに、ほとんどのニュースが通り過ぎていってしまいます。
そういう見せ方や伝え方によって、メキシコの麻薬の話題が着々と届けられてくる一方で、一年半前まで実際にメキシコシティに住んでいた私は、「この問題によってどれほどのことが起きているのかが、よくわからない」という感覚を持っていました。信じられないことかもしれませんが、わたしは現地にいながらも、自分の日常と「麻薬戦争」とをうまくつなげて考えることができませんでした。
その変な感覚について掘り下げるまえに、まず「メキシコ麻薬戦争」とはどのような事態なのかを、簡単にですが書いてみます。
「麻薬戦争」とは、麻薬取引を主な資金源として活動するカルテル(麻薬密輸事業を営む組織、マフィア)の諸集団と、「治安維持」を謳ってそうしたカルテルの活動に介入する政府・警察・軍が、相互に暴力を行使することで生み出している、戦争のような状態を指します。
1980年代から徐々に、メキシコはラテンアメリカから米国へと向かう麻薬(コカイン、アヘン、マリファナ、覚せい剤など)の主要な生産・運搬ルートとなりました。これは、NAFTAの締結(1994年)に象徴されるように、南北アメリカ地域の市場の開放によって、あらゆるモノの流れが活発化する時期と一致します。国内各地でマフィアが勢力を拡大し、1990年代後半からマフィアの関与する暴力事件が目立つようになりました。そうしたなかで、2006年末に当時の新大統領が、マフィア撲滅のために軍を動員する強硬策を採用しました。これが、「麻薬戦争」のはじまりです。
このとき以降、無策な武力制圧は機能せず、諸組織間の抗争はむしろ激化し、暴力的状況は一般の人々の生活空間までをも巻き込むようになりました。殺人、強盗、誘拐、汚職(政治家・警察・軍・マフィアの裏取引)などが、あらゆる街や村で、瞬く間に増加したのです。
メキシコ政府の公式データによると、メキシコにおける2006年末から2018年4月までの殺人被害者は約25万人、行方不明者は約37,000人となっています。ただし、政府の統計はあまり信用できないうえに、公的な届け出を拒む被害者家族が多いことから、実際の被害者の数はこれよりはるかに多いと予想されています。少なめにみても年間2万人以上が犠牲となる状況が続いており、そしてその数は年々増加しています。2017年の1年間に登録された死者は約29,000人、行方不明者は約5,500人です。
数字のみからでも、メキシコが「戦争」という呼称に違わない非常事態のなかにあることがはっきりとわかります。
では一方で、メキシコシティに住みつつも、この事態をよく感知できなかった私の日常を思い返してみます。麻薬問題は、たとえば次のようにして、私の身近な場面に紛れ込んでいました。
「ここ10数年間で、メキシコは本当にひどいことになってしまった」という言葉は、メキシコのどこで出会った人でも、深刻な表情を浮かべながら口にします。途方もない数の人々が暴力によって命を奪われたり連れ去られたりしていること、そしてその危険は自らの身にも迫っていることを、ほとんどみんなが認識していると私は思います。旅行をするなら国境付近や○○州は避けた方がいい、とか、地下鉄やバスのなかでマフィアの話をしないほうがいい、といったアドバイスをよく受けました。
様々な立場のテレビ番組や新聞は、報じ方がどうであれ、この問題に関わるニュースに毎日触れています。また、ネット上のオルタナティブ・メディアやSNSからも、大量の情報を得ることができます。私のフェイスブックのタイムラインには頻繁に、「この人を探しています」という呼びかけとともに、行方不明者の顔写真・プロフィール・失踪場所・失踪日時などの情報が流れてきます。ときには、麻薬組織や軍に殺害された人の遺体の画像や映像も目にします。そのなかには、事件の資料という以上の意図や悪趣味を感じるものさえあります。また、街を歩けば、商店や新聞スタンドに並んでいるタブロイド紙の一面に、血だらけの身体や切断された身体の写真が使われていることはしばしばです。
メキシコシティの新聞スタンド。
見えづらいが、最前列の真ん中あたりにある新聞の一面には、マフィアに襲われて倒れた人の写真が使われている。
中道といわれる大手新聞El Universal紙の一面。
「〔麻薬戦争の被害者の遺体が遺棄された〕秘密墓地の悲劇を政府が隠蔽」。
「麻薬そのもの」との接触といえば、わたしが出入りしていた複数の大学の構内では、特定の場所からよくマリファナの匂いが漂っていました。大学の中庭で夕涼みをしていると、無垢というかただのポップな見た目のカップケーキを売り歩く学生がいて、「食べるとハッピーになれるよ、アミーガ(=amiga、「おともだち」という呼びかけ)」と売り込まれました。これはぎょっとするような特殊な場面ではなくて、たくさんの人が日ごろから経験し、受け流している光景です。すべての「麻薬」の使用が実際に危険な行為であるのかどうかは、私もよくわかりませんし、マリファナくらいなら問題ないのではないかと考える友人もけっこういます。ただし、この見慣れた大学の風景は確実に「麻薬戦争」と結びついていて、つい先月にメキシコ国立自治大学である深刻な事件を招いたのです。このことは、次回の記事でご紹介したいと思います。
このとおり、麻薬問題と私の暮らしはいろいろなしかたで交差していたし、事態の深刻さや凄惨さをわかる瞬間はいくらでもありました。しかしそれにもかかわらず、「戦場」となっているメキシコで私は、毎日元気に楽しく暮らしていました。もちろん身の安全に気を付けるよう常に言われていたし、実際にまずい空気に触れて緊張したこともあります。だから、自分自身の行動にはいつも注意を払っていました。
けれども私は、ほんとうにふつうに楽しく暮らしていたのです。大学の授業に出席して、いろいろな友人と遊んで、習い事の教室や手伝っていた保育園に通いました。夜にはお酒を飲みに出かけ、独立記念日や「死者の日」やクリスマスといった年中行事で盛り上がり、暇さえあればバスに乗って国内をあちこち旅行していました。メキシコは住むのに最高の土地だなぁと(やや呑気にも)思ったし、いまでも強くそう思っています。
ただの無感覚・軽薄・勉強不足と言われれば、それまでかもしれません。それでも、なぜ私が、こうした「日常」と「麻薬戦争」の奇妙な乖離のはざまで暮らしていたのかについて、もうすこし考えてみたいと思います。(つづく)