第10回
佐藤友亮×平尾 剛「身体的生活」のすすめ
2020.04.26更新
新型コロナウイルスの感染拡大にともない、連日、stay home、stay homeが政府や各自治体から呼びかけられています。
今日から(いちおう)ゴールデンウィーク。いったい、どうやって過ごそうか、そろそろ身体がなまってきたぞ、というかすごいストレスだ。そんな声がSNS 上でもあふれていますが、今回は、その不安が少しでも解消するような対談をお届けいたします。
先ごろ『身体的生活』を上梓した佐藤友亮さんと、『脱・筋トレ思考』でおなじみ平尾 剛さんによる対談です。身体的生活。あまり聞きなれないな、と思われたかもしれませんが、一度取り入れてみると、日常が軽やかになり、彩りが生まれるはず!
また、武道家と元アスリートであるお二人(ともに教育者)に、スポーツの大会などが自粛される今、あらためてスポーツとは?も問い直してもらいました。
(聞き手:三島邦弘)
――今回このようなオンラインで対談していただくことになりましたが、佐藤さんが新著『身体的生活』の冒頭で書かれている、「全く心を開くことができないような「敵」と見なしている人が、自分の能力や人間性を高めている場合もある」という一文とこの状況がけっこう合っているのではないかと感じています。
『身体的生活――医師が教える身体感覚の高め方』佐藤友亮(晶文社)
普通に考えれば、「おふたりが同じ場所にいてライブで対談」というのが一番盛り上がるはずで、今回の対談のかたちはマイナス面が大きいと思うんです。出版社としても「取材ができない」という不安な状況に置かれています。世間的に見れば、新型コロナウイルスによって「人との接触機会をかぎりなくなくす」「とにかく家にいなさい」といったことが求められています。当然、身体を動かす機会が激減し、身体が硬くなったり縮こまっている人も多いはず。
今日は、お二人の身体論の専門家とともに、こうした時期にこそ「身体」のことを考え直してみたいと思っています。対談の最後には、今回の形式で見えてきたことや発見がありましたらフィードバックいただけますとうれしいです。
それでは佐藤さん、平尾さんよろしくお願いいたします。
佐藤・平尾 どうぞよろしくお願いします。
トップアスリートはマジメに筋トレをしない?
佐藤 私は、平尾さんとはもう10年以上のお付き合いになります。平尾さんはアスリート出身の研究者として、「「感覚」をいかに言葉にするか」ということを、長く大切なテーマにして来られました。そして、それを今回、『脱・筋トレ思考』という形で出版なさったことを、とても嬉しく思いました。本を拝読して、やはり体験に基づいているところがおもしろいと感じました。
ひとつ例を挙げますと、三菱で社会人ラガーとしてのキャリアをスタートされたときに、「筋肉をつけすぎて走るのが遅くなった」という話が、スッと入ってきました。
平尾さんがプレイしていた状況が自然にイメージとして浮かんできたり、まるで自分が走っているように感じられたりもしました。
私は、平尾さんの書き手としての魅力は、アスリートとしての経験を上手に利用して、身体について語っているところだと思っています。きっと多くの方がそう思っているのではないでしょうか。
もしよければ、筋肉をつけることでパフォーマンスに何かしらの問題が出てくるということについて、ご経験も含めて他にも教えていただけないでしょうか?
平尾 「筋肉をつけすぎて走るのが遅くなった」というのは、「つけた筋肉」と「ついた筋肉」の違いを実感したんです。バーベルやダンベルを上げ下げして「つけた筋肉」は、ラグビー特有の動きを通じて「ついた筋肉」とは違います。実用的ではないんです。筋力が増えるとパフォーマンスが高まる可能性はあるけれど、ただつけただけでは筋肉はただの重りになってしまい、反対にパフォーマンスは下がる。三菱自動車に在籍しているときのあの経験で、僕はそれを思い知りました。
ラグビーってコンタクトスポーツですから体重が重い人ほど有利です。走るスピードや敏捷性、持久力が低下しないなら体重はいくら増やしても問題ない。だからほとんどの選手は筋力トレーニングに取り組むんですね。
振り返ってみると、スクラムハーフというポジションを務める選手が、この筋力トレーニング(以下筋トレ)の落とし穴にはまるケースが多かったように思います。このポジションは、身長が低く体重がそれほど重くなくても務まります。パスがうまく、敏捷性に長けていれば十分に活躍できる。昨秋のラグビーW杯日本代表だと、流大選手(165cm71kg)、田中史朗選手(166cm75kg)ですね。もちろん彼らは違うんですけど、小さなからだをより大きくしようと筋トレに励む傾向にある。で、やり過ぎてしまうんですね。現役時代、監督から筋トレを禁止されたという話はよく聞きました。腕や胸の筋肉をつけすぎてパスが下手になったからなんです。
他にはウイングというポジションもそうです。ウィングはとにかく足が速ければ務まるポジションですから、高校や大学では小柄な選手が務めるチームが多い。タックルなどのコンタクトプレーは全員がマストですから、からだの小ささを補うために筋力トレーニングに励む。その結果、肝心のスピードが衰えるということが起こる。
筋肉量が増えて見た目にはたくましくなったのに、パフォーマンスは変わらず、むしろ低下する。おもに両ポジションを中心として、そんな選手をちらほら目にしました。真面目な選手ほどしっかり筋トレをするから、この落とし穴にハマってしまいがちなんですね。それが歯がゆい。
佐藤 身近な経験として、やはりそういうことがおありなのですね。
平尾 はい。ただ神戸製鋼時代を振り返ってみると、レギュラークラスの選手たちは、ほとんどみんな「マジメに」筋トレに取り組んでいなかった(笑)。ただ、「やらない」のではなく、それぞれが工夫を凝らしていました。
たとえばある選手は、「器具を持つのは性に合わない」と言って、ひたすら懸垂をしていました。それもいろんなバージョンの懸垂をするんですね。逆手で持ったり、浅いところから深いところまでゆっくりやったり、とか。独自に調整をしてるんです。
佐藤 懸垂って、自分の体重を使ったトレーニングですよね。
平尾 そうです。あくまで自重にこだわっていた。その選手がバーベルやダンベルを持っている姿を見た記憶がほとんどありません。
他には、46歳まで現役選手として活躍された伊藤剛臣さんは、やる気になったときにだけ行っていました(笑)。
やる気がないときは、チーム全体で筋トレを行う時間にもかかわらず、いつのまにか帰宅していたり(笑)。全体練習のときもそうで、日によって存在感が違うんですよ。やる気のあるときは率先して声を出しチームメイトを鼓舞する。ないときは、どこにいるかわからない。あの気配の消し方は見事です(笑)。
剛臣さんは性格的にもマイペースな方なんですけど、いま振り返ればからだの中をモニターする感覚に優れていたと思うんです。「今日は全力でプレーしても大丈夫」「足の運びに鈍さを感じるから今日は100%で走らないほうがいい」とか、その日その日のからだに合わせてプレーすることの大切さを本能的に察知し、実践していた。決して無茶はしない。だから46歳まで現役で活躍できたんじゃないかと思います。
ファフ・デ・クラークがあれほど目立った理由
佐藤 今のお話をお聞きしていくつか思うことがあるのですが、ひとつはスクラムハーフというと、この前のW杯で南アフリカのごついサーファーみたいな人がいましたよね(笑)?
平尾 ファフ・デ・クラーク選手ですね。
佐藤 W杯で見た南アフリカの選手では、デ・クラーク選手と、小柄なウイングの...コルビ選手が印象的でした。平尾さんは、今お伺いしたお話と関連したところでは、あの人たちの動きにはどんな特徴があると思いますか?
平尾 からだを余すところなく使い切っているという印象です。ただ、彼らがあれほど活躍できたのはチームプレーによるところが大きい。南アフリカというのはフォワードが大きいのが特徴です。大きいフォワードを前面に押し出す戦術を駆使するんですね。だからフォワードがまず有利に立てる。
佐藤 なるほど。そこでわりと押せるんですね。
平尾 そうなんです。モールにもスクラムにも絶大なる自信を持っています。
でね、フォワードが強いチームのスクラムハーフって動きやすく、プレーしやすいんです。スクラムが劣勢だと後退しながらボールをうまく捌かなきゃいけないし、相手ディフェンスの重圧を受けるので攻撃も仕掛けにくい。反対に圧倒的に有利な状態では、ボールの確保を気にする必要もなく、自分たちのタイミングでパスアウトもできる。隙をついて自ら仕掛けることもできる。
そういう意味では、ファフ・デ・クラーク選手のあのパフォーマンスは、強いフォワードありきなんです。
佐藤 「攻撃型のチームで強みを発揮できるスクラムハーフ」みたいな感じなんですね(笑)!
平尾 そうです! たぶん、佐藤さんの時代なら早稲田と明治の試合をイメージしていただくとわかりやすいかもしれませんね。いわゆる明治型です。
佐藤 なるほど!! それは小学生の頃に新日鉄釜石を応援していた私にとっては、めっちゃわかりやすいです(笑)!
平尾 ファフ・デ・クラーク選手が素晴らしいのは間違いないんですけど、フォワードの奮闘によって特に際立ってよく見えたいうことです。
それから戦術もうまくハマった。彼がタックルで大男たちを仕留めるシーンをよく見かけましたけど、ディフェンスの上で彼はおそらく「フリーハンド」だったと思います。
選手同士が横一列になって壁を作るのがディフェンスの基本です。一人一人が足並みをそろえて、横一列が崩れないように前進して攻撃を止める。誰かが遅れたり、あるいは焦って飛び出したりすると、そこに隙が生まれて相手の前進を許してしまいます。つまり「横一列で壁を作る」のがディフェンスシステムの基本なんです。
たぶん監督は、ファフ・デ・クラーク選手をそのシステムにあえて組み込まなかった。動きを制限せず、自分の判断でタックルしてもいいという指示が出ていたんじゃないかと。これが的中して、日本代表のハーフ団(田村優選手、流大選手)に仕事をさせなかった。見事にやられました。
キックの正確性は秀逸ですが、ランニングやパスでいえば他国にはもっと優れたスクラムハーフはいます。南アフリカというチームにフィットしたからこそのパフォーマンスといえますね。
佐藤 チームも、デ・クラーク選手のプレースタイルを活かす戦術をとっていたのであろうということですね。「フリーハンド」で動く選手がチーム全体にいい効果を与えるって、なんか窮屈じゃなくて、いいですね。
さっきのトレーニングの話に戻るんですが、そういう感覚的に自由度の高いところで力を発揮する人って、他人から言われたことをただやるのではなく、自分のプレースタイルを発揮するのに必要なトレーニングを、自分で工夫して行っていそうですよね。
平尾 行っているでしょうね。
「これさえやっとけばいい」という考えでは「フリーハンド」としての役割を果たせない。まさに「脱・筋トレ思考」が必要なんです。「これさえやってれば1カ月後に筋力がこれだけつく」とか、そういう明確な目標ではなくて、身体感覚を頼りにして自分なりに工夫をする。与えられたメニューに関しても少し改良したりということは必ずやっていると思います。
「あたりまえのこと」を書くことの意義
平尾 僕もフローには以前から興味がありました。でも、どう解釈すればいいか、たとえば授業でゼミ生にどう資料を提示し、どう説明すればいいか、けっこう悩んでいました。
なので、『身体的生活』の前半部分を読んで、ここまできちんと言葉にできることに驚き、すごく腑に落ちたんです。
当初からすんなりとフロー理論を言葉にできたんですか?
佐藤 本音を申し上げますと、本の前半のフロー理論を解説する部分は、私の中で、大学の授業などで長く扱ってきたことを改めて文章にしたという感じでしたので、あまり新鮮味がなくて、書くのが苦痛でした。
フロー理論の提唱者である、チクセントミハイ博士の『フロー理論 喜びの現象学』という本がありまして、これは大変素晴らしい本なんです。ただ、ちょっととっつきにくい。
平尾 わかります。
佐藤 日常的に経験していることを改めて言語化する事って、大切だけれども、やっぱり面倒な作業なんですよね。書くことも面倒だし、読むのだって、結構つらいと思います。日常生活の何気ない一コマについて、一々立ち止まって考えるというようなことですよね。
でも、そのような面倒な作業も、書き方の工夫によっては、ひょっとしたら乗り越えられるのかもしれない、と思って書きました。なので、エピソードの入れ方には注意を払ったつもりです。
フロー理論そのものについては、個人の人生を充実するうえで、とても大切なものだという気持ちをずっと持っています。前に書いた「身体知性」という本ではあそこまで詳しくは書けなかったので、「うまく書くことができれば、フロー理論のわかりやすい解説を求めている人のお役にはたつかなぁ」と思い、やってみたという感じです。
平尾 あたりまえのことをあえて言葉にする苦痛さは、とてもよくわかります。「感覚を言葉にする」ってまさにそういうことですから。
フローに入るために一番大事なこと
佐藤 本でも書きましたが、フローに入るために大切なのは、「フローを妨げるものをていねいに取り除くこと。」だと考えています。
「フローというものをただ追い求めるより、そこに到達する過程で邪魔になるものをきれいに取り除いていくこと」が必要なんだと思います。
もしも今回の本がフロー理論の解説として成り立っているとすれば、この点を強調したところによるのかなと、自分では思っています。
平尾 邪魔を取り除くという感じ、よくわかります。
現役の晩年に、雑念を払って試合に集中するため試合前にあることを始めました。『近くて遠いこの身体』に書いたんですが、それはお経を読むことだったんです。
佐藤 へぇー!
平尾 試合の前日はチーム全員でホテルに一泊するんですね。翌朝、荷作りなどの準備をすべて終えたあと、バスに乗り込む直前に自室にて般若心経と不動明王の御真言を読むんです。試合に集中するために無心になりたくて始めたんですけど、当初はうまく雑念を払えないんです。
「集中しなきゃいけない・・・」「サインプレーはきちんと覚えられているかな・・・」「今回の対戦相手は前の試合とは違うから・・・」「僕のマークする相手の癖は...」みたいな不安というか雑念が、次々と浮かぶ。それを「いやいや・・・、そんなこと思ったらあかん!」って打ち消そうとすると、途端に読経に集中できなくなり読み間違える。
それでも試合ごとに続けていると、あるときふと気づいたんです。浮かぶ思念に意識を向けず、思うがまま、浮かんだままにそれを放ったらかしておくと、いつのまにか読み終わっていた。つまり読経に集中できていたんです。無心って、事後的にしかわからないものだということが腑に落ちた。
「思ってしまう」のをやめることはできないんです。そう思ったら思念と雑念の違いがわかったような気がしました。浮かんだ思念はそれを解釈し、判断するときに雑念となるんですよ、きっと。そう気づいてからは、すごく集中できるようになりました。
「邪魔になるものをきれいに取り除く」って、思念を意識的に打ち消すことなくただ流してゆくことなんじゃないかと思います。「判断する」のではなく「観察する」というか。
この感じは、佐藤さんが『身体的生活』の中で紹介していた釈先生の言葉で、「第一の矢を受けても、第二の矢は受けない」にも当てはまるような気がします。
佐藤 ありがとうございます(笑)。平尾さんのようなトップアスリートが、私の本を読んだことをきっかけにして、ご自分の経験を思い出されたというのは、とてもうれしいお話です。
「動ける身体」は、筋肉より骨が鍵
平尾 話は飛びますが、僕、ゴルフもするんですけど、ぜんぜんうまくならないんです(笑)。
得意不得意と言ってしまうと違うのかもしれないんですが、ラグビーとかサッカーとか、ゴール型競技に特徴的な「動きながら下す判断」の方が僕は得意みたいです。
ゴルフのような、静止した状態で、たった一人で自分のからだと向き合うのは、実はすごく苦手で。だからこそのおもしろさは感じているのですけど、なかなかうまくできません。佐藤さんはメキメキとゴルフがうまくなりましたよね。
佐藤 いえいえ(笑)。
平尾 だから合気道をされている佐藤さんがゴルフを始められたというのは、なんだか腑に落ちるんです。自らのからだと静かに向き合うことに慣れているというか、長けていると思うんですよね。会うたびにスイングが変わるといいますか、身にまとう雰囲気が変わってますもん。
佐藤 合気道をやっている人というのはどこかで「合気道という武道を集中的にやるんだ!」みたいな雰囲気があるんです(笑)。
でも僕はわりとなんでも辺縁な人(笑)。だから他のものとつなげたがっちゃうんですね。合気道は僕の中では、立ち止まることなく、流れるような動きで進行するものです。合気道というのは、その経過中、あえていえば、「インプレー」の間に状況判断を求められるタイプの身体活動なんですよね。そういう点においては、合気道は、ラグビーやサッカーに近いかもしれません。
一方、ゴルフの時間の流れというのは全く異なっていまして、立ち止まって、すなわち「オフプレー」の状態で状況判断をすることが基本です。野球も、中断が多いスポーツなので、考えてから「インプレー」に入る、というところがゴルフと似ていますよね。
中断して考える時間が沢山あるというのは、そのときの心理状態がプレーに影響しやすいと思います。ポジティブだったりネガティブだったりという心理状態が、戦略上の判断やプレーそのものに、大きな影響を与える。
ただ、ゴルフの経験をある程度重ねていきますと、私にとって合気道をする上で最も大切にしている、「リラックスして、伸びやかに身体を動かすことが重要である」ということが、こちらにおいても、大切だということが分かってきました。今は、一旦プレーに入ったら、思考によって身体の動きを抑制しない、ということに注意しているつもりです。これは、合気道を行ううえでもフィードバックがあると思います。合気道って生活全般と地続きなので、これは合気道に限らないことなのかもしれませんね。
話は変わりますが、現在世界ランク1位のロリー・マキロイという北アイルランドの選手がいるんですが、かつてウェイトトレーニングをとても熱心にやっていて、ボディビルの雑誌の表紙にまでなった人です。
平尾 へぇ〜!
佐藤 その人が、その後トレーニングのやり方を変えて、より自然なトレーニング法を取り入れて、いままた世界ランキング1位に戻ってきた。
ただ筋力アップを目指すのではなく、トレーニング法を工夫することで、さらにパフォーマンスを上げる。すごく好例だと思います。
平尾 そこなんです。僕は筋トレを否定しているわけではありません。つまり「反」ではない。ほとんどのトップアスリートは筋トレに取り組んでいるけれど、大きくしたからだをその競技に求められる動きに馴染ませるような練習とか、自らの主体的な練習の仕方とかがあって、徐々に時間をかけてからだを作っている。だからあそこまで動けるのです。
マキロイ選手とか、ラグビーの日本代表選手のようなトッププレイヤーはそういうことを肌感覚でわかっている。「パンパンに筋肉を鍛えなきゃダメ」とはならない。動きにくくなったからだをうまく使うために身体感覚を頼りに工夫を凝らしたり、「つけた筋肉」を「使える筋肉」に変えていっているはずなんです。
筋トレは競技によっては高いパフォーマンスを上げるために必要不可欠ですが、それとどういうふうに接して、自分の中で噛み砕いてパフォーマンスの向上につなげていくかというところが置き去りにされていると思います。
佐藤 筋肉って、スポーツでとても重視されるんですけど、自分の意思で動かせる随意筋というのは骨に付着していて、実際に動いているのは骨なんですよね。
平尾 そうですよね。動きを掴むための「コツ」も、その語源は骨ですし。
佐藤 「筋肉が収縮することが大事」とか、あとは「速く動く」とか筋肉のことばかりが言われるんですが、最終的に動いているのは骨のはず。
合気道でもそうですが、例えば半身の姿勢をとる。そこから体の向きが変わったり、相手との間合いが変わったり、頭の位置、骨盤の位置、足の位置、そういうものが変化する。位置(ポジション)が変わる。
身体部位の位置を「変える」のは筋肉だけど、最終的に動いてるのは骨なんですよね。
言葉にすると当たり前のことだと思うのですが、あらゆる身体運用では、状況に応じて、身体を正しいポジションに置くための動きという方が一番大事になります。
それがいつの間にか、身体部位を動かす筋肉の方ばかりが重視されてしまって、身体部位を正しいポジションに置くための「動きの精度」が軽視されてはいないでしょうか。「動きの精度」とは、身体部位を、必要なタイミングで必要な場所に正確に移動させる、ということです。
「動きの精度」は、筋肉運動の速度と強度の上昇だけでは説明できないことなので、スポーツ指導においても、他人と共有しにくいことなのだと思います。けれど、おそらく最も大切なのは、この「動きの精度」なんですよね。そのことをわかっている人は、スムーズな身体運用を実現させるような自然なトレーニングをする。
例をあげると、「丸太を持って走る」といったようなトレーニングをする。あるいは懸垂というような、自分の身体の重さを使って、自分の身体部位のポジションを動かすトレーニングをする。トップアスリートで感覚の優れた方は、トレーニングも、「動きの精度」を上げることを目的として行っているのではないかなと思います。
スポーツは「芸術性」と「ゲーム性」をあわせもつ
――お話を今日聞かせていただいて、それぞれに気づきがあれば、それを教えていただきたいです。
佐藤 私は、現代の社会生活を送る上で、競争というものはどうしても避けて通れないものだと思うんですよね。しかし、競争ばかりになっては、フロー理論で重視するような、「人生における経験の質」を高めることは難しくなってしまう。競争の結果にとらわれたり、対外的な評価に、成功や失敗の基準を置いてしまったりすると、「幸せ」は遠ざかってしまうんですね。
私は、「経験の質」を高めるためには、自分の身体運用の精度を高めること、精密な動きを行うことに喜びを感じて、それを表現するということ。これがとても大切だと思うんです。私自身は、このような喜びを、主に合気道や観世流の仕舞の稽古で、得ています。
一方で、ゲームすることの喜び。楽しさ。これは、競争と繋がるものですが、私はこれに関する喜びを、一部の点でゴルフから得ています。でも...私は気がつくと、やっぱりゴルフでも合気道みたいに、動きの精度を高めることを求めているんですよね。ゲームとしてのスコアがよければ、それなりに嬉しいけれども、最終的にはプロセス、すなわち身体運用の精度にこだわる傾向があると思います。私は、身体運用の精度を高める喜びと、ゲームすることの楽しさ、これらがときに混じり合ったり、ときに分けたりしながらやるということが大事なのではないかなと思っています。
身体運用におけるゲーム性というのは、モチベーションを高めることができるとか、いいところもたくさんあるんです。なので、あまり区別しすぎないこと。芸術的であったり、精度を求める動き、身体運用のプロセスを大事にすることと、競い合ったりゲームをしたりすることの楽しみというのを、上手に混ぜていくのが大事なのではないかと思っています。
平尾さんて、めっちゃ負けず嫌いですからね(笑)。ときどき一緒に麻雀するんですけど、ピンチを迎えたときの平尾さんの気持ちの切り替え方というのは、なんというか・・・とても美しいんです。
平尾 おっしゃるとおり、超負けず嫌いです(笑)。
「勝敗よりも大切なものがある...」と口では言いながらも、やはり負けるのは嫌いです。この気持ちがあったから31歳までラグビー選手でいられたんだと思う。
親に聞くと僕は小学校のときから負けず嫌いで、将棋をして負けると「もう一回!」とせがんで、自分が勝つまでやろうとするから大変だったと言ってました。
でもね、勝負を繰り返すうちに、負けたときに他人より倍以上のストレスがかかってしまうから、勝負すること自体がだんだんしんどくなってくるんです。
そうすると「ここぞというときだけ勝負しよう」となる。僕の負けず嫌いな性格はこうして棘が取れてだんだん丸くなっていったんです。
佐藤 なるほど。
平尾 ラグビーがおもしろいなと思うのは、勝ちを目指さないといけないけれど「試合が終わったら勝ち負けは言いっこなし!」を繰り返すところです。いわゆる「ノーサイド」ですね。「スポーツって競争でしょ?」「勝ち負けで優劣が分かれるでしょ?」「強弱つくでしょ?」とよく言われるけど、ラグビーのように競い合いを試合中だけに限定すればいいのにって思う。
自分の中にある負けず嫌いな気持ちとうまく折り合いを付けられるような機会として、スポーツがあっていいんじゃないかなぁ。
負けず嫌いの集団ばかりが集まって、なんでもかんでも勝負ということになって、「社会はすごく競争社会だから」という一面しか見ずに子どもに教えている方や親御さんもいらっしゃると思うんです。
でも、社会はそんなに競争をしていない。競争って平時にしかできないですからね。
プロではない、学生スポーツまでであれば、競争主義的なことや負けず嫌いな気持ち、競争心みたいなものとうまく折り合いをつける。そういった心的プロセスを経験すれば、人生における経験の質は高まる。競争に不用意に巻き込まれないようにその取り扱いを学ぶことにもなる。プロはまた別で、それが職業になっていくから勝利の追求が大前提になる。でもそのプロセスでは、学生スポーツとは違った経験の質の高め方がある。
「ゲーム性」と「芸術性」を切り分けないスポーツ像をきちんと描けば、スポーツ活動を通じて経験の質を高められるようになるんじゃないかな。
身体的生活のすすめ
ーー佐藤さんは、新著のタイトルを「身体的生活」と付けられましたが、その意味を教えていただけますか。
佐藤 人間には、一人ひとりに固有の身体がありますよね。私は、個人の身体って、例えるならば、カプセルみたいなものだと思っています。痛みや苦しみは、例え近い人間であっても、大切な親や我が子であっても、それを完全に理解することはできません。また、卓越した技能を自分が持っていたとしても、それを他人に完全な形で譲り渡すことはできないんですよね。身体とは、とても孤独なものだけれども、だからこそかけがえのないものだと思っています。
一人ひとりの人間が、自分の身体が発するメッセージを大切に受け取りながら生活していけたら、それだけで素晴らしいのじゃないかなと思うんです。ちょっと大げさになりましたけど、そんな思いを持ってつけたのが、「身体的生活」というタイトルです。
平尾 生活には身体が欠かせません。だから「身体的生活」というのはいわば「当たりまえ」なんです。その当たりまえをあえて言葉にしたのがこの本で、内容とタイトルがマッチしていてとてもしっくりきます。都市部で生活していると、つい頭による思考が先行してしまう。からだから発せられるシグナルよりも、脳内で作り出した思い込みを優先してしまう。情報過多の今、とくにそうなりがちです。日々なんとなく感じている息苦しさや窮屈さはここに起因していると思うんですね。だから今こそ「身体」に立ち戻る。身体に立ち戻った生活を試みる。
「自分の身体が発するメッセージを大切に受け取りながら生活していけたら、それだけで素晴らしい」という佐藤さんのメッセージに、僕は深く共感します。
ーーその身体的生活を、stay homeが求められるこの時期に、活かすとすればどうすればいいでしょう?
佐藤 シンプルなのがいいと思うんです。「身体を動かすこと」が大切だと思います。ウオーキング、ジョギング、家事、体操など、自分ができる運動をすることで、気持ちの持ち方も健やかになればいいなと思います。時々学生にも言うんですが、「心の状態を変化させたいときに、心に対して直接アプローチするのには限界があります。心の状態を変えたかったら、心の外側から刺激を入れましょう。身体を動かしましょう!」ということでしょうか。
平尾 シンプルに身体を動かすこと。僕もまったく同意見です。具体例を挙げるとすれば、「口角を上げる」。人って笑顔のまま不機嫌になることはできません。だから無理矢理にでも笑顔を作ることで気分が沈まないように土台を作る。表情筋を使うという意味ではこれも立派な運動ですよ。鏡の前で顔じゅうの筋肉を動かしてニッコリするだけでも心が軽くなると思います。それから「呼吸を整える」。不安になれば呼吸も浅くなるので、まずは呼吸を正常に戻してから不安を小さくする。口から吐いて、鼻から吸う。最初に「吐く」のが肝です。これを10回繰り返す。最後にもう一つ、家事全般、歯磨き、着替えなどの日常動作を「できるだけゆっくりと行う」。そうすれば自分のからだを内側から感じようとします。即効性はないかもしれませんが、継続すればその効果は感じられると思います。ぜひ試してみてください。
オンライン対談を経て身体論の専門家二人が思うこと
――おふたりのお言葉、参考になる言葉だらけで、早くいろんな人に読んでもらいたいです。最後に、今回初めてこうしたオンライン形式で対談いただいたことについて、ご感想をいただければなと思います。
佐藤 この対談形式は想像しているよりもずっとよかったですね。
それは実は、便利さよりも・・・複雑さ・・・、いまもまさにという感じですが、通信がときどき滞りますよね。
そうすると、はっきりしゃべるとか、いつ止まるかわからないからできるだけ端的に話すようにするとか、相手に届けようとする気持ちが強くなると思うんです。
今回(『身体的生活』)のエッセイの中で、目の見えないお医者さんの話を書いたんですけど、実はコミュニケーションの回路というのは、ある種のハードルがあったり、離れていたりするほうが、「伝えたい」とか「聞きたい」という気持ちって高まるんですね。
今回は、見知った3人だからということもありますが、我々3人が会って話すよりも、この状況が緊張感を生むとか、いい化学反応になったのではないかなと思います。
平尾 僕も意外と「いけるな」というのが感想です。
先ほども佐藤さんがおっしゃったように、すでによく知っている3人だからというところもあると思うんですが、対面だと話しながら自分の言葉が届いているかどうかというリアクションがわかりやすいですよね。表情や頷きなどによって。
もちろん画面からもわかるですけど、息づかいみたいなものが感じられない分、わかりづらい。だからいい意味で暴走する。相手のリアクションを気にせずにしゃべっていると、自分の頭の中でいい意味で暴走していくなぁと思いました。
これが逆に、一緒の空気を吸っていると、「いまちょっと話が退屈になってる」とか「いまウケてる!」という外からの情報が多くなって、それに話す内容も影響を受けるので、この適度な距離感が取れることで、予想外のアイデアが生まれやすくなるかもしれませんね。
あとは、よりリラックスできてますかね。いま自宅にいるんですけど、たとえば対談で凱風館に行くとなったら、それなりの心の準備をして、着替えて、髪の毛セットして、ヒゲも剃って・・・となります。けど、今日はヒゲも剃ってない(笑)。
そういうリラックス感が話す内容にも影響を与えるのかなぁと思いました。
――ありがとうございます。さっき平尾さんもおっしゃっていましたが、たとえば凱風館で対談をしていただいていたら僕の無言の頷きや息づかいというものがもっとおふたりに伝わっていたと思うんです。
おふたりが同じ土俵にどうやって乗っていくかというところをインタビュアーとしてどのように作るか。そうしたことに自分の中の何かが働いているんじゃないかと思っていまして。
オンラインではそれらはできないと思っていたんですが、僕自身もマイナス要素は感じずにできたというのが実際の感想でした。今日はありがとうございました。
佐藤・平尾 ありがとうございました。
プロフィール
佐藤友亮(さとう・ゆうすけ)
1971年盛岡市生まれ。医学博士、日本内科学会認定内科医、血液専門医。1997年岩手医科大学医学部卒業。初期研修後、血液内科の診療に従事するも、白血病の治療成績に大きな困難を感じ、2001年に大阪大学大学院医学系研究科入学。大学院修了後、大阪大学医学部附属病院の血液・腫瘍内科で、血液学の臨床と研究を行う。2012年より神戸松蔭女子学院大学准教授、2020年4月より同教授。2002年に、東洋的身体運用に興味を持ち、神戸女学院大学合気道会(内田樹師範)に入会。2020年現在、合気道凱風館塾頭(会員代表)として道場運営に携わる。公益財団法人合気会四段。神戸松蔭女子学院大学合気道部顧問。著書に『身体知性──医師が見つけた身体と感情の深いつながり』(朝日選書)がある。
平尾 剛(ひらお・つよし)
1975年大阪府出身。神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科教授。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退。度重なる怪我がきっかけとなって研究を始める。専門はスポーツ教育学、身体論。著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『ぼくらの身体修行論』(内田樹氏との共著、朝日文庫)、監修に『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)がある。