第2回
草も木も人も 前編
2022.01.27更新
十一月、コロナが落ち着いてきたので一カ月ほど愛媛に帰った。松山空港から松山駅に出て、予讃線で地元まで走る一時間半の旅。車窓から見える山々には美しい橙色が輝いている。愛媛が一年で一番華やぐみかんの季節だ。宇和島の友人たちも出荷に追われている頃だろう。
翌日、私もみかん畑に行く。母から聞いてはいたが、あまり実がなっていなかった。枯れてしまった木も増えていた。祖父が戦後に植えた木々なので、樹齢七十年を迎えた老木だった上、数年前の大雨で川が溢れて根っこが水に浸かったことで、徐々に枯れはじめていたのだ。その時の細菌がずっと残って、根を蝕んでいったのだろうと父は言った。
収穫後、幹にマシン油をかけたり、夏場の草刈り、日照り時に川からポンプで引き上げての水やりなど、父も母もずっと木々を守ってきてくれたが、寿命なのだろうと思う。ここへきて木を見ていると亡くなった祖父の存在を感じることができた。それもあって、収量が落ちても半分枯れても、生きようとする老木を切ることができなかった。
今年は取れても例年の五分の一以下だろう。それでも、濃くて甘くて美味しい。高齢になるほどに美味しくなっていくのは、人間の内面とも似ている。静かに、木はいろんなことを教えてくれる。毎年、収穫の時は心の中で「お疲れ様」と言いながら、へその緒を切る気持ちで実を取る。枝をしならせてしんどそうにしていた木が、少しほっとしてまた枝を天に向ける。こんな高齢になっても、頑張ってくれて本当にありがとう。
「おじいちゃんが、『もうわしに頼らんと自分らでどんどん新しい木を増やせよ』と言いよるんじゃなあ」とみかんを収穫しながら母が言った。
「ほんまに、その通りやなあ」
枯れた木の後に父母が植えた木々が徐々に育ってきていた。友人たちが大雨のあと寄付してくれた夏みかんやオレンジの小さな木にも実がつきはじめていた。また今年も春に苗木を植えようと思った。果樹は、野菜や米のように植えて来年収穫できるものでない。新たに植える苗木が最盛期を迎える時、私は五十歳を超えているだろう。でも、祖父のように自分が亡くなったあとも、甥や姪が私の植えた果樹の実を食べてくれると思うと、いいなあ。自然の大きな巡りの隣にいるとき、生きることが楽になる。そして、一年に一回しか収穫できないスリル満点の実験にどのように臨むかで、その家その家の個性が出る。
私は、祖父の植えた木も残せないかなあと考える。同じ温州みかんでも、品種改良は進められているので七十年前と同じ種類はきっともう存在しないだろう。そうだ、挿し木をしてみるのはどうか。枝の一部を切り取って発根させる方法だ。老木でも可能なのだろうか。三月頃が時期的に良いと聞くので、勉強して春になったらチャレンジしてみよう。こうして木も世代交代していく時期なんだ。
世代交代というと、黒糖BOYSにもその時期が訪れようとしていた。黒糖工場はサトウキビの成長した冬場だけ開かれる。畑作業に追われながらも、工場にボランティアへ。コロナでしばらく行けなかったから約二年ぶりだった。懐かしい山道を、なっちゃんやゾエと歩いていく。繁殖期で猿が凶暴化して雄猿が目の前で抗争しはじめる。頼むけん、こっちにこんといてよ。びびりの私は二人の後ろで青ざめながら何とか黒糖工場へ辿り着いた。
あれ? 若い人たちがいる。
この辺では六十歳でも若い衆だが、彼ら二人は大学を卒業して間もないような若々しさ。これぞ正真正銘の黒糖"BOYS"だ。数年前からここに通っているとOさんに聞いていた、お隣は香川県の青年たちだった。彼らは、それぞれに自営業で会社を持ちながら、製糖のある冬期の水、土、日曜だけ高松から通っているという。東京で銀行員をした経験のあるI君は、地元の香川で出会った和三盆糖や黒糖に惹かれ、帰ってきて製糖所を中心にディレクションやブランディング制作をしているそうだ。きっと私と同じようにこの工場や黒糖BOYSに魅力を感じ、経営面においても協力したいと思ってくれているのだ。
工場の隣の空き地にテントが張られている。どうやら昨夜はここで寝泊まりしたみたい。見方を変えると大自然に囲まれたこの場所は、キャンパーたちが集えたりもするよねと話した。外からの目線は時に新鮮な空気を送り込んでくれる。
あれ? お地蔵様や山男さんがいない・・・。
「それがね、みんな辞めちゃってね」
「えええー!!!」
ついにOさん一人になってしまったようなのだ。冬の間だけとはいえやはり高齢での力仕事は大変すぎたのだという。
一釜分の製糖が終わって休憩していると、軽トラが工場に帰ってきた。中から出てきたのは、イケメンの山ぴーおじさんである。このおじさん、本であまり登場してこなかったのはなぜかというと、ずっと畑でサトウキビを刈り続けているため製糖所にいないからだ。この日も二〇〇キロのサトウキビを一人で手刈りしてきていて仰天した。サトウキビを荷台から下ろすと、煮詰めたときに出るアクをコップですくって飲んで、
「あー。たまに飲むこの一杯がうまいんよのう」
と、温泉に入ったような顔で笑うのだった。そして、にこにことまた働きはじめたではないか。超人すぎる。私も一度手伝いにいったが、サトウキビの刈り取りはかなり腰にくる。
「わしらの地域は海沿いじゃから、薪を拾う山がなくての。地域でこの山の権利をもろうて、小学生の頃から親父とリアカー引いて薪拾いに来とったんじゃ。昔はご飯するのも焚きもんがいりよったからな。今は楽になったもんよ」
ひょえー。だって、おじさんの住んどる地域から一〇キロ以上あるよ。七十代が元気な理由が分かった気がした。山ぴーおじさんは、さらに、昭和初期までうちの町の産業の第三位が黒糖(地元では赤糖と言われた)だったと教えてくれた。私の家のみかん畑も、戦後まではサトウキビ畑だった。愛媛で黒糖? と若い人は驚くが、七十代以上の人はみんな「懐かしいなあ」と言った。彼らにとっての原風景はサトウキビ畑なのだ。
対して、高松BOYSたちは画期的なメカを入手してきていた。香川県でオリーブの実を収穫する時、枝から葉を落とすために農業機関に導入された脱葉機だった。どうやら、想定したようにオリーブの葉が落ちず使われていなかったそうで、Iくんが借りてきたそう。ずっとY字の鎌で手作業で葉をこそぎ落としていたが、機械を通すとものの数秒で葉の大半が落ちた。全て手作業でする良さもあったけれど、ぎっくり腰になったり、メンバーが辞めていったり、限界がきていたんだなあ。そういうことを相談できる高松BOYSが現れ、Oさんや山ぴーさんも「すごく楽になった」と喜んでいた。Iくんは、さらにサトウキビの絞りカスの繊維で紙を作れないかと思案していた。単価がすごく高くなるそうで今は断念しているけれど、二〇〇も製紙会社がある街だからいつかは実現できるといいなあ。
二人の活躍で、様々なことが効率よく回るようになっていた。会社の存続が難しいというOさんに、「企業という形を無理に続けるよりも、楽しみで黒糖を作るサークルにするのもいいかもしれませんね」などと呑気な提案をしていた私とは大違いだ。
ただ、今までは一日一釜か多くても二釜しか製糖せず、わりとゆったり作業していたけれど、今は生産性を上げるため三釜製糖する日もあり、帰ったら私でもくたくただった。いくら元気とはいえおじさんたちは大丈夫だろうか。とはいえ、私のように皆がボランティアとはいかず、ほぼハンドメイドでの黒糖作りを維持するには三釜以上作らないと経営がなりたたないのだとIくんが教えてくれた。まず全て手作業なのに黒糖が安すぎるんじゃないかなあと私は思う。このロハスクラブの黒糖、びっくりするくらい美味しいです。年中おやつに食べていたい。ネットでも買えるので是非食べてみてほしい。
ニューカマーが現れてくれたことでOさんもホッとしているようで良かった。私も応援していこうと思った。
編集部からのお知らせ
高橋久美子×渡邉麻里子 「怒られの二人 ~それでも今、行動する理由」開催します!
生活者のための総合雑誌『ちゃぶ台』の次号に収録予定の対談を配信イベントとしてお届けする「ちゃぶ台編集室」。その第1回として、高橋久美子さんと、鳥取県智頭町でパンとビールとカフェの3本柱で「タルマーリー」の女将をされている渡邉麻里子さんをお迎えし、対談いただきます!
東京在住でありながら愛媛で農業に携わる高橋さんと、東京で生まれ育って智頭に移住した麻里子さん。
「できれば波風を起こしたくない」という人が多い中、「外から来た人」としての難しさ、高齢化する地域の難しさ、女性として携わる難しさ・・・等々に直面しながらも、「場」を守り育もうとする、その原動力はどこにあるのか??
その行動力ゆえに、怒られることも多いというお二人に、その本音と危機感、動いているからこそ見えてきたものを、たっぷりお話いただきます。どうぞお楽しみに。
イベント日時:2月10日(木)19:00〜20:30
※配信後、申込者全員にアーカイブ動画をお送りします。
久美子さんとチンさんの「農LIFE、どうLIVE?」アーカイブ動画を期間限定配信中です!
・周防大島と愛媛、農業のリアル、今と昔
・農地は「怒られ」を起こす!?
・チーム「怒られ組」の怒られエピソード
などなど、ともにミュージシャンとして活躍を経て、それぞれ東京と地方の両方での生活を経験し、現在は農に取り組むお二人による大いに盛り上がったトークイベントのアーカイブ動画を2/13までの期間限定配信中です。