第13回
『すごい論語』プロローグ(後半)
2019.05.19更新
今週の土曜日、5/25にいよいよ『すごい論語』が発売となります!
『論語』と聞くと、なんとなく道徳的説教イメージがあって、敬して遠ざけたくなる・・・のは、なんと著者の安田登さんも一緒だったそうです。
それが、なぜ本を出すほどまでに『論語』に魅せられていったのか、大きな変化を迎えている今の時代だからこそ『論語』から受け取れる恵みとは、そして今回、いとうせいこうさん、釈徹宗さん、ドミニク・チェンさんらをゲストに迎えて『論語』を読む試みをしたのはなぜか・・・?
そのあたりを綴ってくださった本書の「プロローグ」を、昨日と本日、ひとあし早くミシマガの読者のみなさまにお届けしています。(前半はコチラ)
どうぞお楽しみください。
(ミシマガ編集部)
・孔子は「四十にして惑わず」とは言わなかった
もうひとつ気づいたのは、現代に流布している『論語』の本文の中には、孔子の時代にはまだ存在していなかった文字が多く使われているということです。
書物としての『論語』が成立したのは孔子が亡くなってから四百年もの年月が経ってからです。その間は口承によって代々語り継がれてきたと思われますが、口承は時代の流れの中で無意識のうちに変化してしまうことは、能の伝承でも明らかです。
この、孔子の時代にはなかった『論語』の文字を、孔子の時代以前の文字に戻して読んでみると、『論語』の内容が全然違うものになるのです。
たとえば『論語』の中でもっとも有名な言葉である「四十にして惑わず」(為政篇四)の「不惑」。この語でいえば「惑」という字が孔子の時代にはありませんでした。「惑」という漢字がないということは、少なくとも孔子は「惑わず(不惑)」とは言わなかったということになります。
これってびっくりでしょ。「不惑」の中の「惑」がなかったら、文全体が全然違う意味になってしまいます。じゃあ、孔子は何と言ったのか。それを考えるときには(単純化していうと)、
(1)字形が似ていて(偏などを取ってみる)
(2)しかも古代音が類似しているもの
を探します。
と、見つかるのが「惑」の下の「心」を取った「或」の字です。当時の文字ではこんな形になります。
現代では「或いは」という意味で使われている「或」ですが、この「或」に「土」をつけると、地域の「域」になります。また、「口」で囲むと「國(国)」になる。ともに「区切られた区域」を表します。
地域を表すのが左側の「口」、城郭で囲まれた土地です。右側の「戈」は棒に武器をつけた形で「ほこ」です。子どものころ地面に棒で線を引いて「ここからこっちは俺の陣地、入るな」とかやったでしょ。あのイメージです。棒の代わりに武器である戈を使っています。
すなわち「或」とは、境界線を引くことによって、ある場所を区切ることをいいます。分けること、限定することです。となると「不惑=不或」とは、「自分を限定してはいけない」という意味になります。
人は四十歳くらいになると「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。「自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか。
「不惑」とは、四十歳くらいは「そういう心の状態になるので気をつけなさい」「四十歳こそ自分の可能性を広げる年齢だ」という意味になるのです。
ね。現代、私たちがイメージする「四十にして惑わず」の「不惑」とはずいぶん違う意味になるでしょ。
じつは、能を大成した世阿弥も同じようなことをいっています。
「初心忘るべからず」です。
初心の「初」は「衣」偏に「刀」。着物を作るためには布地に刀を入れなければならない。それを表すのがこの漢字です。きれいな布地にわざわざハサミを入れるのは、ちょっと怖い。でも、それをしなければ着物はできない。だから勇気をもってバッサリいく。そのような心で、古い自分をバッサリ裁ち切り、新たな自分を見つけていく、それが「初心」なのです。
過去の自分を切り捨てるって怖いですよね。
それでも若いころはまだいい。年を取れば取るほど、いまの自分を捨てることや、過去の栄光を切り捨てることが、より怖くなります。それが本当に怖くなり始めるのは当時でいえば四十歳、いまならば五十歳〜六十歳くらいでしょう。だから四十が「不惑(或)」なのです。
このように孔子の時代の漢字で読むと、全然違う意味になる章が『論語』の中にはいくつもあります。本書でも『論語』の本文は、必要なときには孔子の時代の文字に直したものも紹介しようと思います。
・社会資源としての『論語』
さて、『論語』や能のように長く人々に受け継がれているものは、ある種の「社会的資源」といってもいいのではないでしょうか。
「資源」というのは「さまざまなものに利用しうる有用物」のこと、その代表としては、現代の文明を支える石油資源を挙げることができるでしょう。石油はガソリンや軽油として加工されれば自動車などの動力源になり、灯油として加工されれば冬場の寒さをしのぐ熱源にもなります。火力発電の燃料としても使われていますし、プラスチックや化学繊維の原料にもなります。
『論語』も石油と同じように、さまざまな分野に応用することができます。
ある人がある問いをもって『論語』と向き合うと、『論語』はふさわしい答えを返してくれます。
音楽家が問いを投げ込めば音楽の答えが、スポーツ選手が問いを投げ込めばスポーツの答えが、政治家が問いを投げ込めば政治の答えが、『論語』のほうから返ってきます。
なぜ『論語』が、それほど多彩な引き出しを備えているのか。そのひとつの理由は『論語』の主人公たる孔子が、類まれな多芸多才な人だったからです。本人は、「自分は若いころ、賤しかったから多芸なんだ」(子罕篇六)と言っていますが、一般的には本職と見なされている政治や思想のほかにも、詩をたしなみ、舞を舞い、音楽を奏で、さらには料理についてまでも深い造詣がありました。
それならば、実際にさまざまな分野の第一線で活躍されている方々に『論語』を投げかけてみたら、さぞかしすごい化学反応が起きたり、発酵が起きたりするのではないだろうかという興味で始めたのが本対談です。実際には多くの方と『論語』について語り合いましたが、紙幅の都合で本書には三名の方にご登場いただきました。
最初は、いとうせいこうさんです。せいこうさんは孔子や聞一多と同じくマルチな方。『論語』と「樂(音楽)」の方面からお話を始めましたが、話はあっちに飛んだり、こっちに飛んだり、マルチ人間、いとうせいこうさんの面目躍如。以降の対談に出てくるキーワードのほとんどすべてが提示され、本書の地ならしをしていただきました。
次にご登場いただくのは釈徹宗先生。釈先生は浄土真宗(本願寺派)のお坊さんであり、大学では宗教学の先生。もちろん宗教の方面からの『論語』へのアプローチですが、話題は『論語』の中の宗教性にとどまらず、日本や世界の宗教観、そして儀礼や衣食住の問題にまで及び、終わってみれば深い人間論をお話しされていました。
そして最後はドミニク・チェンさん。ドミニクさんもどのような方かの説明が難しい。情報学研究者として大学で教えてもいらっしゃるのですが、なんと起業家でもあるし、アーティストでもある。今回は、世界がガラッと変わってしまうかもといわれているシンギュラリティから『論語』にアプローチをしていただいたのですが、「仁」のもつすごい意味に気づかされてしまいました。
いやはやびっくり。想像以上の対談になり、みなさまのすごさに脱帽なのですが、それもこれも『論語』そのもののもっているすごさが引き起こしたこと。『論語』って、本当にすごい! と再認識しました。
そこで本書のタイトルが『すごい論語』になったのですが、漢文を扱っていながら貧弱な語彙だと笑わないでください。純粋な感動には単純な言葉しかぴったりしないのです。
さて、ひとつお断りを。
本書で『論語』について語っている方たちは、私も含めて『論語』の専門家でも研究者でもありません。頭で考えたことではなく、自身の体験に根差した話をしています。あるときは『論語』そのものにすらとらわれず、その章句から得たインスピレーションで勝手気まま、自由闊達、天衣無縫に話をしています。むろん、注釈の歴史も先行研究も踏まえていません。ぶっちゃけていえば勝手なことをしゃべっています。
マジメな方は怒ってしまうかもしれません。でも、それがいいのです。
渋沢栄一翁に『論語と算盤』という本があります。この本も、厳密な意味では先行研究を踏まえた本ではありません。しかし、多くの影響を後世に与えています。『論語と算盤』の読者は、『論語』を研究しようと思って読んではいません。渋沢栄一翁の書かれたこと、あるいは発したひとことから、自身がインスピレーションや勇気をもらって、自分の人生の糧にしている。だからこそいまでも読まれ、影響を与え続けているのです。
それは、本と読者とのご縁があってはじめて生まれます。
本書も、どなたかのご縁につながって、そしてその方の人生の糧になっていただければ喜び、これにまさるものはありません。
なんといっても『論語』にはその力があるのですから。
いかがでしたでしょうか。
ここに書かれているとおり、本書では安田登さんとゲストの方々の対話が、あらゆる方向に発展して知の洪水が起きていますが、一方で、「楽」「礼」「仁」といった『論語』の重要な概念については、しっかりと押さえて語られてもいます。
『論語』初心者の方も、もともと『論語』が好きな方も、ぜひ手に取ってみてください!
プロフィール
安田登 (やすだ・のぼる)
1956年千葉県銚子市生まれ。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、甲骨文字、シュメール語、論語、聖書、短歌、俳句等々、古今東西の「身体知」を駆使し、さまざまな活動を行う。著書に『あわいの力~「心の時代」の次を生きる』、コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(以上、ミシマ社)、『異界を旅する能~ワキという存在』(ちくま文庫)、『能~650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。~古代中国の文字から』(新潮文庫)など多数。
編集部からのお知らせ
安田登さんによる新刊『すごい論語』発刊します!
『あわいの力』、『イナンナの冥界下り』でおなじみの、能楽師である安田登さんが、いとうせいこうさん(音楽)、釈徹宗さん(宗教)、ドミニク・チェンさん(テクノロジー)と、各分野で活躍する「すごい」人に『論語』を投げかけた一冊です。ぜひお近くの本屋さんでお手にとってみてください。
『すごい論語』刊行記念トークイベント(安田登×釈徹宗×ドミニク・チェン)開催します!
5月25日(土)発売予定の新刊『すごい論語』の刊行を記念して、著者の安田登さん、本書における対談相手の釈徹宗さん、ドミニク・チェンさんによるトークイベントを開催します。
【会場】青山ブックセンター本店
【日時】2019年5月25日 (土) 18:00~19:30(開場17:30~)
【会場アクセス】
東京都渋谷区神宮前5-53-67
コスモス青山ガーデンフロア (B2F)
安田登さんの名著『あわいの力』4刷が決定しました!
古代人には「心」がなかった――
「心の時代」と言われる現代、自殺や精神疾患の増加が象徴的に示すように、人類は自らがつくり出した「心」の副作用に押し潰されようとしています。「心」の文字の起源から、「心」に代わる何かを模索するこの本。
『すごい論語』と合わせて読んでみてください!