坊さん、本屋で語る。白川密成×辻山良雄(2)
2020.03.19更新
『坊さん、ぼーっとする。』を出版した白川密成さんのトークイベントを開催しました。元・書店員でもあるミッセイさんが、Title店主辻山さんと、本のこと、仏教のことなど語り合い、和やかで豊かな時間になりました。ミシマガでは、このイベントの様子を2日間にわけてレポートします。
(構成・写真:岡田森)
前編はこちら
欲を大きくする
辻山 今回この本を読んで一番驚いたのが、「欲」に関することです。私が持っているイメージだと、仏教というのは欲や自我を消していき、そこになにか、解脱じゃないですけど、悟りのようなものを見出すものかなと思っていたんです。
でも、今回の本で、「欲望に正直になる」ということを、密成さんの言葉や、いろんな理趣経の教えで書かれていて、ああこういうものなんだ、というふうに思って驚いたんです。やっぱりこれは、密教に特徴的なものなんですか?
白川 密教というのは、仏教の流れのなかでも最終盤に出てくる教えで、いままでの仏教が否定してきたタイプの儀礼だとか、おまじないみたいなものとか、そういうものを取り入れているんです。あと、仏像とかでもそうなんですけど、怒りという表現が出てきたりだとか、怒っている仏様が出てきたり。
辻山 不動明王とかですか。
白川 そうですね。忿怒尊(ふんぬそん)という、怒りの表情が出てきたりだとか。で、もちろん一般的な意味での"欲"は忌避するのですが、ドカーンと飛び抜けた欲望を肯定する面というか、僕の師匠の教えだと、欲望というものを、大きくしていくという考え方をするんです。
密教における「大きい」というのは、大と小の大という相対的なものではないんです。つまり大と小という概念自体を超える、ということをよく教わったんです。「持つんだったら自分を忘れるような巨大な欲を持て」というふうに教わったんですが、それってけっこう難しいですよね。
辻山 どうしても自分の欲になっちゃうというか。
白川 そうです。密教の話をすると、欲望を否定した上で大きな欲の肯定というものが出てくるんです。その怒りとか欲っていうものを、エネルギーに変えていく力学というか構造を、密教が持っているんじゃないかと思いますね。
ただ、僕を含めたふつうの生活者に向けて、仏教・密教というものになにかヒントがあるんじゃない? と言葉にしようとするときに、師から伝えられた「小さな欲を超えて巨大な欲を持て」っていうだけではなかなか、僕のような欲深い人間には、キャッチアップが難しいという感覚があったので、欲をもっと排除しようと提案するよりも、欲があること自体を見るのがいいかなって思うんですよ。「あ、ここに自己顕示欲があるな」とか。僕はそのほうが、健全というのも変な言い方ですけど、生きやすいと思います。
ささやかだけど大切な日常
辻山 1作目『ボクは坊さん。』を書かれて、2作目は『坊さん、父になる』で、今回は『坊さん、ぼーっとする。』だったわけですが、通して読むと第3作にあたる今回の本は、すごく落ち着いているように感じました。
1作目は密成さんがお坊さんになる話で、2作目は結婚して娘さんも授かるという、それぞれちゃんとしたストーリーがあるんですけど、今回ちょっと自由になってるというか、物語というよりは日々のエッセイという感じが強く、話の中から教えを結びつけていくところがとても良かったです。
白川 『坊さん、ぼーっとする。』を書いていた頃は、娘が三歳と五歳くらいのときだったんですね。彼女たちと生活してると、仏教とかそういうものを超えて書き残しておきたいことという小さな事件がけっこう起こるんです。
例えば、ミシマ社がマンガにしてくださっていましたけど、娘と寝てたら、「お父さん死なないで」っていきなり言われて、どうすることもできなくてただ抱きしめたことがあったんです。僕も普段はそんなガラじゃないんだけど(笑)。
白川 でもそうすることでしか表現できない時間というものがあって、そういうことをエッセイとして書きたかったというのはあるのかなって思いますね。そこに仏教の智慧と葛藤が加わっていく。
辻山 密成さんは普段は僧のお仕事をしてお経をあげたり修業をしたりしていると思うんですけど、文章を書くことは、自分の中でそれとは全く別の時間ですか? それとも修業の一環という感覚なのでしょうか?
白川 どこか、僕の中ではつながっている気がしますね。日本のお坊さんの、結婚して家族がいるという姿って、スタンダードな仏教からみるとやっぱ特殊なんですよね。
家庭という場では、自分が修行の中で培ってきたものが全くどうもならないことが多いんですよ。そこそこ心が安定している気持ちになっていても、すぐにささいなケンカでずっとイライラしていたり。
僕がよく思うのは、生活自体が、仏教の<泊りがけのワークショップ>みたいだなって感じます。あるいはその「実践編」というか。本当の修業の舞台だなという感じです。どこまでもいっても生活という一日一日がすごく繋がっているものだと思いますね。
書くことについては、僕もまさか自分が本を出すとは夢にも思わなかったんですけども、なにか出来事があったときに文章を書くことによって何かを知る、ということは結構多い気がしますね。今回は自分のエッセイのあとに「理趣経」というお経の教えを引用してつけていってみたんですが、そうしたら、順番とかを気にせずに僕が単に思ったことを書き記したエッセイごとに、ピタッと来るような言葉がどんどん出てきた感覚があったんです。「理趣経」というのは僕たちの宗派が普段一番読経する機会の多いお経なんですが、そういう意味でも、さっきの話じゃないですけど、長い時間の中で残ってきたものの凄みを感じましたね。そのスパンが仏教の場合、千年とか二千年ですものね。
お寺の経営と本屋さんの経営
白川 実は今、お遍路さんが全体としては、すごく減っているんです。歩き遍路さんや海外からのお遍路さんは、例外的に増えているんですが......。お寺の経営というか収入が、ここ何十年で一番くらい危なくなっているんです。辻山さんの本を読んでびっくりしたのは、最初の事業計画だとか、何に何円使ったとか、全部書いてあったんです。僕、経営のことが全然わからないので、経営を勉強しなきゃと思って本屋さんに行って買ったのが、『バーの始め方』って本だったんです(笑)
辻山 ハハハ(笑)
白川 いや、バーって経営的な側面だけみると業態が意外とお寺に似てるなと思って、買ってみたんです。でも、僕はあんまりバーに興味がなかったんで、響かないんですよね(笑)
でも、辻山さんの本は、僕が書店経験者というのもあるんですが、経営という視点で見てもすごく面白かったんです。本当に届けたいものを届けながら、でも場所を成り立たせていくということについて、辻山さんはどう考えていますか?
辻山 Titleのような小さい店だと、割と自分を出したほうが良いこともあります。この規模だと、決まったお客さんの層に対しては、正直に商売しているということがストレートに伝わるんですよ。
私が前に勤めていたリブロ池袋本店は、敷地がここの50倍くらいあって、常時100人くらい従業員がいました。そうした店でみなが食べていけるには、お店の色が出るような選書やイベントもする一方で、時にはアイドルの握手会とかをしながら、言い方は悪いですが「荒稼ぎ」みたいなこともする(笑)
白川 その辺のジレンマがあるんですね。
辻山 そういうジレンマが、ここに居ると少なくはなりました。ただ、よく聞かれるんですけど、「ここにある本、全部好きなのか?」と言うと......。
白川 そんなこともないですよね。
辻山 嫌いじゃないけど......まあ、売れるから、っていう本もあります。もちろん、本当に好きな本もありますが。
白川 コロコロコミックなんかも置く、と本に書かれてましたよね。別にコロコロが良いとか悪いとかじゃないですけど(笑)
辻山 コロコロは良いですよ(笑)
白川 いま、仏教コーナーですごく読まれているある本があるんですが、その本の発売直前に、担当編集者の方と話していたら、「僕はこの本すごい好きなんだけど、たぶん売れないと思います」と正直に言ったんですよね。で、今すごく売れているんです。でも、そういうのが届く時代なのかなと思ったんです。「僕は好きだけど、こういう微妙な感覚が、伝わらない人多いんじゃないかな」というものが意外と読まれたり、届いたり。
なので、辻山さんのように自分の個性というか、癖みたいなものを出すことがより大事になってくるんじゃないかと思いました。それは自分の書く本でも、お寺の経営でも活かしたいヒントですね。
辻山 「届くのかな?」というような本でも、2000人~3000人の読者はいるかもしれません。ただ、そういう本を、少し薄めて、みんなにも読んでもらおうとすると、途端にダメになるんです。結局誰のためのものでもなくなるということなんですけど。
だから、ちゃんと2000人とか3000人にズドンと届くような〈濃い〉ものにすれば、その層には間違いなく届くし、さらに言えば突き抜けた本の面白さは違うジャンルの人からも面白かったりするので、思いもかけなかった人が手に取ることも起こるんですよね。
白川 ほぼ日で『ボクは坊さん。』の元となる連載をしていた時に、印象的なやりとりがありました。連載の中で、僕が大江健三郎さんの言葉を大事な箇所で引用して、今から思うと「どうだ、大江さんも書いてるぞ!」という書き方をしたことがあったんです。そうしたら、今回は掲載やめときましょうか、というメールが来て、「密成さんの自分の言葉になってないかも」と言われたんです。その回は、引用をやめて自分の言葉で書き直して掲載してもらいました。それがすごく印象的で、それ以来、引用はしたとしても、きちんと「本当に自分が感じている事」をどんなに未完成でも、書くようにしています。
そうやっていると、「自分のことばっかり見てしまっているかな」なんてことも時々思うんですが、自分という微小なものも、自然や宇宙といった大きなものに繋がっているというのが密教の教えの根底にあると思っています。ですから、「今の自分が本当に感じていること」を丁寧に書きたいと、最終的には思うんです。
辻山 そうなんですね。
白川 辻山さんが、本の中で「新刊書店」というものにこだわっている、という話をされていたことに、僕はすごく共感したんです。本に詳しくなるほど、古典のほうが読み応えがあると考えがちですけど、今という同時代の中で、自分の言葉を、情けないかもしれないけど、新刊として発していくということにも価値があると思います。
これは新刊だけじゃなくて、仏教でも......いや、仏教だけじゃなくても、「かつてこういう言葉があった」とか「おばあちゃんがこう言っていた」というのも大事ですけど、今この時代の中でこういうモチベーションを持ってる、ということを言葉で発する、ということが、仏教とか書店とかに限らず、今回伝えたいことなのかもしれないですね。それが凝縮されたひとつのエッセンスが『ぼーっとする。』というタイトルになったのも、気に入っています。
(終わり)