第40回
教えて、尹さん!―『モヤモヤの正体』その後のはなし。
2020.03.28更新
1月末にミシマ社より刊行した、インタビュアー&ライターの尹雄大さんによる著書『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』。尹さんの驚くべき経歴や思いがけない人柄、そして現代の「空気」を見事に捉えた本書の洞察に、多方面から注目が集まっています。
この本について、そして尹さんについて、とにかく誰かと語りたい熱が湧き上がって冷めない編集担当の野崎が、同じくこの本にハマっている恵文社一条寺店の鎌田さんを誘い、一読者として、尹さんに本のことや昨今の世の中のモヤモヤについてずばり訊いてみました。『モヤモヤの正体』を読まれた方も、まだこの本のことを知らない方も、ぜひお楽しみください。
『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』尹雄大(ミシマ社)
※本記事は、2020年3月13日(金)恵文社一乗寺店にて開催された、『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』刊行記念トークイベント「教えて、尹さん!」の内容をもとに構成しています。(構成:野崎敬乃)
モヤモヤした挙句インドへ
鎌田 『モヤモヤの正体』では、多くの人が抱えるモヤモヤについて丁寧に掘り下げられていますが、尹さんは学生の頃にモヤモヤが溜まった挙句、インドに行かれたんですよね? それは「自分探し」ということでいいんでしょうか?
尹 いわゆる青春ノイローゼでしたね。
鎌田 「自分探しでインドに行く」って、例文のように典型的ですよね。なにか変わりましたか?
尹 1991年当時のインドは野良羊に野良犬、野良牛。それから「野良人間」と呼ぶしかないような人たちがいました。僕らの思っている貧しさではないレベルで、生まれた時からすでに貧しくて、死ぬまでそのポジションに居続けざるをえないのでは? としか思えない人をたくさん見かけました。
ものすごい金持ちもいるけど、人間扱いされていない人もたくさんいた。日本にいると標準的な生き方というものがあるように思いがちですけれど、まったくそうではない。人間とは、人間らしい暮らしとは何か? と問い始めると底が見えない。そういうことを思わされて、ある意味どう生きようともいいし、「なんでもありなんだな」と思って帰ってきたんです。ところが就職活動を始めてしまうと、やっぱり社会の基準に合わせなくちゃいけないんじゃないかと思ってしまって、とりあえずリハビリだと考え、ドトールのアルバイトの面接を受けたりしました。
鎌田 急に、なぜドトールに?
尹 これからは社会人になるんだから「接客業の経験くらいないとだめだ」と思ったからです。でも早々に挫折しました。セルフサービスの店で飲み食いしたカップや皿を片付けると、店員が「おそれいります」と言いますよね。客の立場から考えても「これおかしいな」と思ったんです。
客が当たり前のことをやっていて、「おそれいります」と言うのであれば、最初から店員が持っていかないと釣り合わないんじゃないか。だから「おそれいります」が言えなかったんです。そしたら店長に「言って」と言われ、「いや言えない」みたいな葛藤が生じて、言えずじまいでした。
最終的に辞めるきっかけになったのは、カフェ・ラテを作れなかったからです。いまはボタン一つでカフェ・ラテができるようですけれど、当時はノズルをミルクに差し入れてゴボゴボゴボと沸騰させて作っていました。僕がやると、全部蒸発して溢れてしまうんです。やり直して、その間にミラノサンドを作らないといけないんですが、まるで手に負えない。マルチタスクができないんですよ。
思っていた「テラスハウス」と違う
鎌田 本当に、尹さんの文章から伝わるシュッとしたイメージとは真逆の、ポンコツエピソードが凄まじいですね。『モヤモヤの正体』の刊行と同時に公開された「みんなのミシマガジン」のインタビュー記事「尹雄大さんの正体」も衝撃的でした。インタビュアーの方は、コミュニケーションの能力に長けているからこそ、その仕事を選ぶケースが多いのではないかと勝手に思っていたんですが、尹さんの場合はまったくそんなことないですよね。
尹 コミュニケーション能力は皆無に等しかったですね。
鎌田 そこで気になったのは、逆に、インタビューという手法が上達していく中で、普段のコミュニケーションに与えた影響はあるのでしょうか?
尹 そこは解離していますね。いま長野の下諏訪のシェアハウスに住んでいます。もともとは労災リハビリセンターだったところを綺麗にリノベーションして、町が移住者を募ったというものです。そこに7人で住んでいるのですが、他の方とはほとんど会話をしていません。むしろ同居人が帰ってきたら急いで共有スペースから逃げて自分の部屋に行く、みたいにして閉じ気味な暮らしをしています。じゃあなぜシェアハウスに住んでいるの? とよく聞かれますが、そういう住み方もあるでしょうと思っているんです。シェアハウスに住みながら、どうして人と関わらなければいけないのか? という問いを、個人的に立てながら暮らしています。
周りの人も、思っていたのと違うって感じているんじゃないでしょうかね。おそらく僕はシェアハウスの中では謎のおじさんで、週に2回あるゴミの日は早起きしてゴミを出し、毎朝焼き芋を焼いている。朝食に食べるんですけどね。だから「ゴミ捨て&芋を焼いているおじさん」っていう印象だと思います。それ以外の情報が他の人に行き渡っていないと思いますね。「テラスハウス」みたいな展開を望んだ人の期待にはまったく応えていない(笑)。
やさしさってどういうこと?
野崎 鎌田さんが先日「京都新聞」にこの本の書評を書いてくださったのですが、その締めくくりの言葉が「コミュニケーションにおけるこの『遠さ』の意味を、本書は繰り返し書いている。優しい人にこそ、この本に出会ってほしいと思う」というものでした。この書評を読んでから、「やさしさ」ってなんだろうということをしばらく考えていて、日常的に使う言葉ではありますが、じゃあ具体的にどういうこと? と考え出すと、「やさしい」とはどういう状態で、なにが備わっているとやさしいのか、ということが意外とよくわからない。ということで、いまの世の中における「やさしさ」について尹さんに聞いてみたいです。
尹 この10年ほど、鹿児島にある知的障害者支援施設の「しょうぶ学園」に取材のため通っています。あくまで僕の体験の範囲ではありますが、重度の自閉症の人たちの振る舞いを見ていて思うのは、僕らが想定している「やさしさ」とか「同情」「いたわり」「絆」というものは、わりと知的な行為なのではないか? ということです。だからと言って、障害者と呼ばれる人たちにやさしさが無いかと言われると、そうではない。ただ、僕らからしたら後を引くような情緒がないように見えます。彼や彼女たちのやさしさは、僕らのようにベタベタはしていない。ベタつくのは、期待に答えようとする意図があるからです。比べて、彼らは日常生活において健常者のように服がうまく着られないとか、できないことはあるのかもしれない。けれども、とても自立しているとも言えます。なぜかと言えば、僕らみたいに人の目を気にし、空気を読み、期待に応えて自身の行動を決めることをあまりしていないように見えるからです。何か気配を察知したときには寄り添ってくれたりします。でも、それは言語で確認できないので、「落ち込んでいるからやさしくしてくれているのかな」というのは、こっちの勝手で当て推量に過ぎない。そういう体験をするうちに、僕らが良いことだと捉えている「やさしさ」は結構湿度が高いんだなと思うようになりました。
野崎 湿度ですか。そう考えると、私たちのコミュニケーションはたしかに湿っている気がしますね。
湿度の高いコミュニケーション
尹 例えばデパートでちょっとした買い物しかしていないのに商品を受け取ろうとすると、店員が「そこまでお持ちします」と店先まで送ってくれて、お辞儀してというのをしてくれますよね。あのコミュニケーションはこっちが振り返って会釈しないと成立しない気がするんですよね。
野崎 店を出てからも見守られている気配を感じたときって、あれは振り返ったほうがいいんですかね?
尹 ちらちらっと見て、お辞儀して、適当なところで切り上げるみたいなことまで込みの「そこまでお持ちします」ですよね。それは結構湿度高いじゃないですか。
鎌田 なるほど。
尹 あるいは食事を済ませて勘定するときに、「ここは私が」「いや私が」というやりとりする景色を見ることがありますよね。すぐさま「じゃあお願いしますと言ったら、なんだこいつと思われるわけで、適当なところで「悪いね。じゃあ今回はお願い」と自然に引き取る。「自然」にというのがすごくハイコンテクストなコミュニケーションになっているんですよね。こういうコミュニケーションは「気遣い」なのか「空気を読む」ことになっているのか、あまりにも習慣的にやっているとわからなくなると思うんです。
鎌田 僕が書評で使った「やさしい人」の意味は、僕自身がそうでもありますが、「面倒臭い人」というようなニュアンスでこの言葉を使ったところがあります。いまの話で言うと、「店先で振り返らないといけないかどうか」なんて考えない人もいるわけですよね。些細なことにも目がいってしまう、でもそういうことばかり考えてしまう人にこの本を読んでもらえたらいいなと思っています。
一対一対応は、芸がない
野崎 『モヤモヤの正体』に出てくる話は「社会問題」というふうに捉えると、深刻になりがちなテーマも結構あると思うのですが、それを実際に自分で考えたり、なにかを実践していくときに、ユーモアがある、どこか笑えるやり方で対処できたらいいなと思ったんです。尹さんは、そういう真っ正面からタックルするのではない別の対処法を持っているように感じます。
尹 苛立つようなことやモヤモヤすることに対して、たしかにイラッとします。でも、何かが起きて、だからイラッとするという行いと感情がきっかり一対一の対応だとしたら、なんだか芸がないなと思ってしまうんです。余裕がないと言うか。もうちょっと違う芸風になりたいなと常に思っていますね。
なぜいま自分はイラッとしたのか? と観察するするとその怒りは自分由来のように見えて、意外とそうではない。
イライラどころではなく、毎日噴火しているような父親がいて、そういう父の気質は自分にも伝わっています。だからこそ、自分が感じるイライラは自分由来ではなく、環境で作られた感性だなと思います。そのまま自分の怒りとして捉えてしまうと、自分の中に余白がない。可能性がなくなるように思うので、「もっと僕はできる子のはずだ!」みたいな気持ちで自分を観察してています。
野崎 そういう親に育てられたら、自分も同じように短気になってしまいそうな気がするんですが、そうではないと。ある種の客観性と言いますか、自分の感情に対しても距離が保てるというのはおもしろいですね。
モヤモヤに対応するためのコツ
鎌田 尹さんのような態度を取るためのコツはありますか?
尹 コツと言えるかわかりませんが、去年発見したことがあります。
野崎 ほう。
尹 それは「感じていること」と「感じている私」を分けておくということです。普通は感じていること=自分だと思ってしまうのですが、ここを一緒にしておくと湿気がたまるんですよ。例えば、僕が野崎さんに「これ美味しいんですよ。どうぞ」と言ってお菓子を勧めたとします。そこで野崎さんが「いや、いらないです」と言う。そこで「僕のことが嫌いだからお菓子を食べないんだ」と考える。これだけ聞くと笑ってしまうでしょうけれど、案外こういうふうに考える人が多いと思います。単にお腹がいっぱいだったから受け取らなかっただけかもしれない。自分の「感じていること」と「感じている私」は別にできない時に個人的に解釈して、「あの人が私にあんなことをするということは、私は嫌われているんだ」という風に捉えてしまう。
野崎 なるほど。
尹 それから社会の期待に応えないということも大事じゃないかと思います。世の中の動きに対するレスポンスは生じると思うんですけど、それと「あなたあっての私」とは違うはずなので。
野崎 空気の支配というか、最近の新型ウイルスにまつわる報道や世間の動きを見ていても結局「みんな」の話ですよね。じゃあ自分はどうするの? ということに関しては、急に黙ってしまうというか、自分でしっかり考えられているのかな、と疑問に思うことが多々あります。
尹 自分の中にある「共感できない私」を見つけ出すのも大事だと思うんですよね。自分らしさの中には馴れ馴れしい自分もいて、その感じ方に慣れてくると「それが自分だ」と思えてしまう。自分の中で発生する同調圧力みたいなものに自分が応えなくていいと思うんですよね。
野崎 自分が自分で信じ込んでいるだけですもんね。
足腰を鍛えるのは、正義を問うため
野崎 『モヤモヤの正体』の本の中で、「複雑な世の中であるからこそ白黒つけられないところに留まる足腰の強さはあったほうがいいでしょう」という言葉がすごく好きで、これは届いて欲しいなと思います。
尹 物事に善し悪しや白黒をつけないと聞くと、なにも「判断しない」と思う人もいるかもしれません。矛盾するように聞こえるかもしれませんが、僕は「正義を問う」ことは忘れてはならないと思っています。それがないと足腰を鍛えても、じゃあなんのための足腰? ということになってしまう。
「正義」と聞くと、「ふりかざす」という言葉を続けて思い浮かべる人も少なくない。あるいは正義を唱えても、敵対する人も別の正義を持っている。だから、「結局は正義と正義の戦いだ。正義こそを疑え」という言い方を昨今よく聞きます。正義の対義語は「不義」なので、正義と正義の戦いは成り立たない。少なくとも物事を考えるのであれば、概念規定をしましょうと言いたいです。なんでもかんでも相対的に考えて、「どっちもどっち」と言うのは、一番僕は知的な誠実さに欠けると思います。
「正義が暴走する」という言い方をすることで正義を問うことを忘れてしまったら、なにが人間にとって本当なのか。理想なのか。正しいのかを考えられなくなる。考えないで済ます状況を自らに許すという意味で、「善し悪しをつけない」「白黒つけない」ということではないんです。
鎌田 正義という言葉からイメージするものががらっと変わりますね。
尹 同世代に顕著だなと思うのが、正義についてアニメや漫画などのサブカルチャーを通じて学んでいる傾向が強いということなんですよ。現実に起きている戦争を語る際に、50代ぐらいの人間がガンダムのセリフを引用して、正義を相対化する様子を見ると、いい加減そういうの止めようとと思うんですよね。アニメが悪いわけではなくて、アニメと現実は交差するところもあるけれど、それだけでは語りきれない。日本では正義を語ることがすごく恐れられているように感じます。
野崎 なるほど。正義を問うためのトレーニングとして、その観点で、私自身尹さんの言葉にもう一度向き合ってみようと思います。
(終)