中村明珍×安孫子真哉 対談に寄せて(宅イチローさん)
2021.05.01更新
「中村明珍のこみゅにてぃわ」第3回(ゲスト:安孫子真哉さん)開催の際に、おふたりの知人、宅イチローさんがお寄せくださった文章、再掲させていただきます!
*** 中村明珍さんより ***
今回、初めましての方、二人はどういう関係?という方も多いかと思います。
そこで、以前のバンド時代からを見続けてくれている知人の書き手、宅イチローさんがこれまでの過程を素敵な文章で寄せてくれました。
よかったらぜひご一読ください。
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「俺、農家になろうと思ってるんだよね。」
高崎駅前の小さな喫煙室で彼は言い放った。
「マ、マジすか。」
まさかの告白に思わずたじろぐ僕の目に映る中年男の名前は安孫子真哉。本稿におけるメインキャストのひとりである。
「先月から農業の学校に通いだしたの。牛乳屋もいずれ辞めて、農業で生計立てながらレーベルもやる。」
これは進路相談で母親を泣かせる男子高校生の戯れ言ではない。齢40、2人の子供を持つサラリーマンの自主独立宣言である。
「やっぱり中村さんからの影響すか。」
遅れて登場した2人目のメインキャストがこの男、名前は中村明珍。彼こそが安孫子のバディであり、人生のルームメイトであり、農業という世界の楽しさを伝えた張本人である。
ここからは時計の針を戻し、ふたりの足跡を追っていきたい。安孫子と中村はどのように出会い、どのような時間を過ごし、農業にたどり着いたのか。
僕は2人の生き様を16歳の頃から追い掛けてきた、いわば「ガチ勢」であり、僕の価値観や生き方には2人からの影響が多分に含まれている。僕だからこそ語れるストーリーがあるはずだ。パンクと農業に人生を捧げた2人の男(と俺)のストーリー。
2001年7月、僕は試聴機の前で動けなくなっていた。漫画本を片手にレジ奥で僕を睨み付ける店員の目にはさぞかし奇妙に写った事だろう。それもそのはず、僕は試聴機を占領し、同じ作品ばかりを1時間近くに渡り聴いている。ようやく意を決し、1000円札2枚と共に店員に手渡した作品の名は「さくらの唄」、アーティスト名はGOING STEADY。
名前に馴染みのない方もいるかもしれない。GOING STEADY、通称ゴイステは1997年に結成されたパンクバンドだ。間も無くバンドは知名度を上げ、ライブの動員はうなぎ登りに増えていった。
2001年7月にリリースされたアルバム「さくらの唄」はオリコンチャートにランクインし、若者からの支持は決定的なものとなった。僕の通っていた高校では、ゴイステとRIP SLYMEが人気を二分していた。
そんな人気バンドでベースを担当していたのが安孫子真哉だ。安孫子はメロディアスかつ物凄い手数のベースラインを持ち味としたプレイヤーでありながら、現・カクバリズムCEOの角張氏と共にインディーレーベル「stiffeen records」を主宰する筋金入りの音楽オタクでもあった。ゴイステもさることながら、レーベル主宰者として良質なパンク作品をリリースする安孫子の審美眼に惹かれた僕は、stiffeen recordsの作品を片っ端から買い揃えていった。YouTubeやサブスク等あるはずもない当時、地元の新星堂で店員を困らせながら作品を注文していた日々が懐かしい。
中村明珍(当時はチン中村と名乗っていた)はstiffeen recordsから作品をリリースしていたバンド「SNOTTY」のギタリストだった。破天荒なステージパフォーマンスとポップかつ喧しいギタープレイで局地的ながら熱い視線を集めていた人物だ。坊主頭がトレードマークであり、僕は彼の真似をして高校2年生時の多感な時期を坊主頭で過ごした。これに関しては今でも割と後悔している。
安孫子真哉とチン中村。2人は各々のバンドで共演していたこともあり、当時からお互い気になる存在だったという。
そんな2人の人生が深く交わり脈を打ち始めたのは2003年のこと。同年1月15日をもってGOING STEADYは解散した。4人のメンバーのうち、安孫子含む3人のメンバーは新バンド「銀杏BOYZ」を結成した。中村は銀杏BOYZのギタリストに抜擢され、彼らはバンドメイトとなったのだ。ただの知り合いだったはずの2人が運命共同体となった瞬間だ。
中村が銀杏BOYZとしてステージデビューを飾った日の事はよく覚えている。
同年2月、結成されたばかりの銀杏BOYZを目撃しようと若者で満員となった渋谷クラブクアトロ。暗転したステージに現れた坊主頭のギタリストに僕は衝撃を受けた。周囲の観客からもどよめきが起こる。「あれ、SNOTTYのチン君じゃね?」まさに僕の目前で、チン中村と安孫子が同じバンドで音楽を鳴らしている。チン中村がGOING STEADYの名曲を弾いている。SNOTTYで聴く事のできた自己主張の塊みたいな爆音のギタープレイだ。ライブ中にも関わらず僕は友人に電話をかけて、受話器越しに彼のギターと現場の熱狂をシェアした。友人は泣いて喜んでいた。あの時のことは18年経った今でも忘れられない。
銀杏BOYZは生活の全てを音楽に昇華させる、極めて特殊なスタイルのバンドだった。レコーディングやライブ等のいわゆるバンド活動以外の時間も彼らは行動を共にし、常人では想像すらできない濃密な時間を過ごしたという。創作に費やす執念は狂気的ですらあり、一般的なバンドが30年分かけても経験することのない狂騒と軋轢を彼等は9年余りで経験することになる。
2005年1月に銀杏BOYZは2枚のファーストアルバムをリリースし、彼らは全44本にも及ぶ全国ツアー「世界ツアー」を開催した。銀杏BOYZ原理主義者となっていた僕も何ヵ所か観にいったのだが、どれも壮絶な体験だった。メンバーと観客、双方のテンションは完全に振り切れており、人間の熱気だけで酸欠サウナ状態になるほどの激しいパフォーマンスの向こう側に満天の星空が広がるカオスとロマンの相乗体験。走馬灯を見たのは銀杏BOYZのライブが初めてだ。生命の生命による生命のためのダンスパーティー。
「こんな凄まじいものが今後もずっと続くとは思えない」熱狂の渦中にふと思う。こんな活動を続けていたら、絶対にいつか崩壊の時が来る。過剰であり続ける事の皺寄せは必ず誰かが負うことになるのだ。
銀杏BOYZが放っていた炎はやがて自分達をも飲み込む。2006年以降の銀杏BOYZは以前ほどの熱量を失っているように思えた。まるで燃え尽き症候群のようだった。シングルやドキュメンタリーDVDのリリースこそあれど、表舞台に立つ頻度は明らかに減った気がしていた。
メンバーの姿を街で見掛ける事は時折あった。
チン中村は裸のギターをぶら下げながら下北沢の裏通りを歩いていた。表情は暗く、何か思い詰めている様子だった。
ヒップホップのイベントでは安孫子の姿を見掛ける事があった。喫煙所で誰かと長電話しては、やはり何か思い詰めたような表情をしていた。ファンの間で聞こえてくる噂もネガティブなものばかり。一体何が起きているんだろう。
2人とも人当たりのマイルドな人間である事はよく分かっている。銀杏BOYZはファンとの距離感が独特であり、僕らみたいなファンに対しても凄く真摯に対応してくれていた。僕らは2人の事が大好きだったし、2人の活躍をもっと見たいと純粋に思っていた。
2008年、2009年、2010年、かねてから製作中であることをアナウンスされていたセカンドアルバムの発表はなく、出演するライブも数えるほど。2011年の震災後に開催されたショートツアーを最後に表立った活動はとうとう途絶えた。僕は諦めかけていた。アルバムなんて出るはずがない。
誰もが忘れかけていた2013年の暮れ、突如としてセカンドアルバム「光のなかに立っていてね」ライブリミックスアルバム「BEACH」の完成が発表された。リリースは2014年1月。前作から実に9年、僕らはあまりに待ち過ぎた。
何より衝撃だったのは、ほぼ同時にアナウンスされた「チン中村と安孫子がバンド脱退」のニュース。
あれだけバンドに心血を注いでいた2人がバンドを辞めるなんて考えられないし考えたくない。アルバムのリリースよりも、2人が辞めてしまった事実の方が全然重大だった。
リリースされたセカンドアルバムは素晴らしい出来映えだったが、脳裏に浮かんでくるのは憔悴したメンバーの表情だった。重く閉塞的な雰囲気が漂うそれを僕は棚の奥にしまい込んだ。
アルバムリリースから幾ばくかの時を経た2014年10月。音楽系ニュースサイトにひとつの記事がポストされる。
「元・銀杏BOYZ 安孫子が音楽レーベルを始動 名前はKiliKiliVilla」
安孫子が音楽シーンに帰還する。それも、バンドではなくレーベル主宰という形で。stiffeen recordsを想起せずにはいられなかった。安孫子の審美眼は間違いない。彼が着用しているバンドTシャツを片っ端からチェックしていた僕には分かる。凄いことが起きている。
居ても立ってもいられなくなった僕は共通の友人を介し、安孫子にインタビューをオファーした。当時の僕は「Anorak citylights」というブログをスタートさせており、不定期ながらも気になる人物のインタビュー記事を作り続けていた。
安孫子はすぐにインタビューを快諾してくれた。Anorak citylightsも以前からチェックしてくれていたらしい。青春時代のヒーローに直接インタビューできる機会などなかなかあることではない。好きな子との初デート前夜のような気持ちで僕はインタビュー日を指折り数えた。まずは握手から?レコードにサインはもらえる?ミーハー丸出しはダサいからクールを気取るべき?口が臭ったら嫌だからにんにく料理は控える?希望と不安を半分ずつ抱えながらインタビュー当日を迎えた。
サラリーマンと学生でごった返すJR大宮駅。時刻は19時少し前。仲介役を買って出てくれた友人・ヤブソンはまだ到着していない。改札前のモニュメント近くでスマホを見ていると、聞き覚えある声が僕の頭をノックする。
「お疲れっすー、タクさんですか?」
目の前にいたのは安孫子真哉。僕の人生を変えたといっても過言ではない、ステージ上や映像の中で何度も名前を叫んだ僕のヒーロー!と言いたいところではあったが、思ったより普通のおじさん化している安孫子に拍子抜けした。
ヤブソンとも合流し、駅近くの居酒屋さんでインタビューを開始する。安孫子は沢山の事を話してくれた。新しく始めるレーベルのこと、銀杏BOYZのこと、バンドを辞めてからのこと。
彼はバンドを辞めてから廃人同様の生活を送っていたため、療養も兼ねて妻の地元・群馬県に移住した。そこで働き口を見付け、サラリーマンをやりながら密やかに生きていく事を決意していた。しかし2014年夏、SEVENTEEN AGAiN(ヤブソンのバンド)のライブツアーに帯同し、地方の若いバンドマンが形成するローカルパンクシーンに感銘を受け、KiliKiliVillaを立ち上げる事を決意したという。「音楽シーンに居場所を作りたいんだよね」安孫子の呟きを僕は聞き逃さなかった。
チン中村の現況についても話してくれた。バンド脱退後、なんと中村は僧侶となり「中村明珍」と改名。家族で山口県・周防大島に移住し、自ら農園を立ち上げ営んでいるとのこと。
点と点が繋がり太い線になる。安孫子と中村は新しい道を見付け出し、今でも連絡を取りあっている。その事実は僕を勇気づけた。いなくなった野良猫を見付けた時のような安堵感だった。
このインタビューを境に、安孫子と僕は連絡を取りあう仲になる。
2015年4月、KiliKiliVillaはレーベルの名刺代わりとなるコンピレーションアルバム「while we're dead.:the first year」をリリースする。これには全13組の新曲に加え、160ページにわたるジン(読み物)が付属していた。安孫子がセレクトした各界の有識者が、パンクに纏わる様々なコラムやエッセイを寄稿している。そこには中村明珍の名前もあった。中村は独自過ぎる目線からパンクと種ひいては農業に繋がる奇妙な因果関係についての名文を寄稿していたのだが、これに多大な影響を受けたのが他でもない安孫子本人だったのだ。まるでパンクのレコードを初めて聴いた日のようなときめきを覚えたという。
彼の農業への興味は日に日に増していき、一時期は毎日のように中村と連絡をとり合い、農業への知識を深め、自分が就農した場合の青写真を描いていった。自分はどう生きるべきか。この衝動にどんな落とし前をつけるべきか。農業とはサラリーマンという肩書きを捨て残りの人生を費やすほどに輝く世界なのか。安孫子の暗中模索は続いた。
池袋駅から一緒に乗り込んだ高崎線のグリーン車内、農業についての雑学や農園を立ち上げる夢を楽しそうに話す安孫子の姿を見て、僕は初めてGOING STEADYを聴いた日の事を思い出した。安孫子は少しも変わっていない。歳と体型だけは立派な40代だが、GOING STEADYとして目をキラキラさせながらステージジャンプをかましていた時の安孫子は今でもそこにいる。自分の好きなものにとことんピュアで、熱心で、どんなに未開拓の分野であっても「自分の居場所」を作り出そうとする姿勢。心底感服する。
大人になってから安孫子と将来の夢について語る姿など、17歳の時には想像すらできなかっただろう。ふいに僕は泣き出しそうになり、窓の外を見た。歳月は僕たちを想像もできない場所へ連れていってくれるのだな。流れる景色を目で追いながら遠くない未来の事を考える。安孫子はきっと夢を叶えるのだろうと。
「吉里吉里農園って名前にすんの。キリキリノウエン。」
「ちょっとダサくないですか」
「いやいや、これがダサいならKiliKiliVillaって名前もダサいことになるよ」
「いや、そっちはオシャレなんすけど」
高崎駅前の喫煙ルーム、タバコの煙が少し目に染みる。
「中村はさ、最近はすっかり農業の人としてメディアに出てるからね。チンポコみたいな頭してるのに。今度山口からこっち帰ってくるみたいだから、タクくんも飲もうよ」
「大宮辺りがいいっすね」
「だな!じゃあコーヒー飲んで帰んべ!」
2020年、安孫子は遂に専業農家になった。農園を立ち上げ、夏はキュウリ、冬は白菜とサニーレタスを作っている。
中村はというと、自身の農園「中村農園」を運営しつつ、ミシマ社内でオンライン番組のホストを務めるなど、活動は多岐に渡っている。
自分の本能や感覚に忠実でありつつ、誰も置き去りにしない生き方。それこそが安孫子真哉と中村明珍なのだ。
「自分たちの居場所を作りたい」
初めて会った時に安孫子が呟いたこの言葉こそ全てなんだと思う。
銀杏BOYZや農業に特段興味を持たない方でも、何か新しい生き方を漠然と求めているのであれば、パンクと農業、異なるふたつの星を同時に夢見る2人の話に耳を傾けてみてはいかがだろうか。明るい未来を作るヒント、あなただけのヒントがきっと見つかるはずである。
終
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◎宅イチロー
埼玉県在住。心に茨をもったおっさん。ブログ「Anorak citylights」を細々と運営中。
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