第76回
安田登×いとうせいこう 一流めざすの、やめません? ~「三流」頂上対談!(前編)
2021.08.12更新
7月19日、『三流のすすめ』の発刊を記念して、著者の安田登先生×いとうせいこうさんの対談イベントをMSLive!にて開催しました。
本書でいう三流とは、多流=いろいろなことができる人のこと。
さまざまな分野で活躍し、まさにトップオブ三流=多流であるお二人の対話は、どこかに飛んでいったかと思えば、いつの間にか話の核心に着地していたり、かと思えばまたすぐにどこかへ飛んでいったり、まさに三流的、怒涛の展開でした。
知らぬ間に「一流志向」にとらわれている私たちの頭をほぐし、最後には、三流として生きる極意も開陳! 目が離せなかった対談の模様の一部を、2回にわたってお届けします!
構成:染谷はるひ
(左:安田登さん、右:いとうせいこうさん)
全然違うシナプスが発火する快感
いとう 『三流のすすめ』を読んでいて、「みんな自分で自分の首を絞めてるところがあるんじゃないか。それをもっと楽にしていかないか」ということを、安田さんが今、言いたかったんだなと思いました。「自分のなかに多様性をもてばいいんじゃないの。それって豊かなんじゃないの」と。
でも途中から中国の文化に関する安田さんの教養が溢れ出ちゃった。いろんなふうに読める、まさに多流、三流的な本じゃないかと思います。
安田 いとうさんたちと一緒にしている謡の稽古もそういう感じですよね。あっちこっちに話が飛ぶ。
いとう でもそれが素晴らしく刺激的です。全然違うシナプスが発火する瞬間が三流のよさじゃないですかね。
安田 僕は『三流のすすめ』でいろいろなものとの出会いを書いていますけど、いとうさんは、どうやって今のようにマルチな状態になっていったんですか?
いとう 僕の場合は、父親が自由国民社のぶっとい雑学本を持っていたんです。やっぱり中国の故事とか西洋のことわざとか、やたらにあれこれ載ってるやつ。僕は中学くらいからそれを読むのが異常に好きで。雑学が教養の基礎にある。
だから僕は古典的なものをしっかり読んできたわけではなくて、おいしいところだけを取ってつなげてきたんですよ。別々のところにあるシナプスが発火することがたまらなく好きなんです。だからいろんなことをやっているんだと思います。
強制的な暇が変化を生む
安田 僕もあれ、すごく好きで、高校時代は毎年買って読んでいました。昔から伝わる雑学と、そして現代の時事ネタも入っていて、その時間的な呼応がとても楽しかったです。実はこのごろ時間に興味があるんです。時間は一方向に流れている気がしますけど、そうではないのではないかと・・・。学生時代に、先輩の車の助手席に乗っていたときに、前を走る車に追突したことがあります。「ああ、ダメだなぁ」と思ったときに、小さいころからの記憶が走馬灯のようにあらわれた。パノラマ視現象ですね。あれを実際に体験したときに、あらゆる時間は今というこの一瞬にすべて詰まっているのではないかと思いました。
「思う」ことは最初から最後まで一瞬でできている。でも言葉って、発話と文字によって時間的なリニアなものになる、これはちょっと違うんじゃないかと。
いとう なるほど。たとえば絵はいいなと思うのは、結論もオープニングも遊びも、全部一枚に描いてある。あれは文章にはできないんですよね。文章は頭からお尻まで一方向にいかざるをえなくて、小説もその縦の時間をなかなか破れない。それはやっていて
こっちは気が短いから、一番いいところをはやく言いたいわけじゃないですか(笑)。なんで組み立てなきゃいけないんだろう、という気持ちはあります。
安田 あれもこれも一挙にやっていきたいのはまさに三流ですね。
プラトンの『パイドン』の中で、ソクラテスが「牢獄に入って突然詩を書きはじめたのはなぜか」と訊かれるんです。すると彼は「詩を作るという聖なる義務を果たしてこの世を立ち去るべきと考えた」と言い、そこで大事なのは「ロゴスではない」と断言します。
文章がひとつづきに並ぶのは、まさにロゴス(論理)です。ソクラテスは死を前にして、そこから自由になりポイエーシスを作るようになるのです。ポイエーシスはポエムの「詩」と訳されますが、本来は「生成されるもの」、あるいは「生成する原理」。論理であるロゴスから自由に自然に生まれてくるものがポイエーシスです。最近、いとうさんがされている俳句はまさにポイエーシスですね。
いとう 俳句は急にはじめましたね。詩人に対する尊敬があまりに強くて、何十年も実作は絶対にやらないと決めていたんです。
それが、子どもが生まれると授乳のときになにもすることがなくて、ただ頭が動いている。でも子どもが泣き出せば考えていることはすぐ全部捨てなきゃいけない。そうなると短編小説さえ考えられないんですよ。そこで俳句ってすげえなと。5分10分あるとサーッと考えて、ポンと戻れるんです。
安田 子育てとともに俳句をはじめたというのは、すごくおもしろいですね。ロゴスって、組み立てることに時間と体力が必要ですよね。
いとう 基本的にずっと同じテンションでいないといけませんからね。
安田 ロゴスのためにつくる時間って、自分でつくる暇な時間だと思うんです。でも授乳の時間のような暇は、与えられてしまうものですね。
いとう そうですね。強制的に、飛び飛びに牢獄に入れられるみたいなものじゃないですか。そういう暇に論理ではなく詩が生まれるのは、時間が関係しているんでしょうね。
安田 なにかができなくなるというのは、そのときはネガティブに感じますよね。でも人が変化するときは、そういう受け身の暇があるのかもしれません。
混乱のなかからだけ出てくるものがある
いとう 安田さんもそうですけど、三流的な人間は文章を書いていたかと思うと体を動かしにいくとか、全然違うこともほぼ同時にしているじゃないですか。
でも、たとえばミュージシャンたちといる時間と、ひとりで文学に向きあわざるをえない時間は刻まれ方がちがう。だからそれを切り替えるとき、体にはとまどいがあると思うんです。そこで生じるずれが、じつは一番おいしいところで(笑)。その混乱のなかからだけ、全部が混ざったようななにかが出てくる。
安田 なるほど。
いとう 僕の本は、書店で置きどころに困ることが多いんですよね。たとえば『福島モノローグ』(河出書房新社)は、福島で話を聞いて、それをモノローグのかたちにして残した。ノンフィクションだけど、そう読もうと思えば小説としても受け取れる。
僕はどちらに思われても、あるいは、どちらでもないよくわからないものとして受け取られてもいいと思ってる。だから、できれば「これは本当の話です」とは書きたくなかった。でもそれは今の出版システムでは許されないんですよね。書店でどこに置かれるかを明確にしないといけないんで。つまり書籍が三流であることができない。
安田 たぶん『三流のすすめ』も、置きどころに困っている書店があると思います。
いとう ふふふ。困ってるでしょうね(笑)
編集部からのお知らせ
ドミニク・チェン×安田登 対談、開催します!
情報学者で、この8月には『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)を上梓し独自の文学全集を編むなど、様々な分野で活躍する(三流=多流)ドミニク・チェンさんと、安田登さんが対談されます!
個人の創作物を発表・販売するプラットフォームが拡充し、収入を得る人々が増えている、いわば「大三流時代」ともいえる今日。三流街道を行きながら次々と新しい手を繰り広げるお二人に、「三流」という視点からみた、これからの創作のあり方、そして生活について語っていただきます。
創作や表現に携わる人や、これまでの「一流」的なクリエイティブのあり方に行き詰まりを感じている人、はたまた複数の生業を持つ方も。思わぬ角度から未来が拓くかもしれない、お二人の対話をぜひご覧ください!