第102回
『中学生から知りたいウクライナのこと』の「はじめに」を公開します
2022.06.11更新
本日6月11日より、小山哲さんと藤原辰史さんによる共著『中学生から知りたいウクライナのこと』が書店発売となります。
本書は、2月末に起こったウクライナ侵攻を受けて、3月16日に小山さんと藤原さんがおこなった歴史講義と対談イベント(MSLive!「歴史学者と学ぶ ウクライナのこと」)が元になって生まれた本です。
大国名や特定の政治家の名前だけが飛び交い、人間が生きる複雑な現実を無視した「上から目線」で問題を捉えようとする言説がメディアを覆うなか、お二人が慎重に静かに発した言葉には、私たちが自らを省みつつこの戦争について考えていくための手がかりがたくさんありました。
一刻もはやく、多くの方にこうした言葉を届けたいという思いで、私たちは本書を緊急発刊することにしました。
本日のミシマガでは、藤原さんによる本書の「はじめに」を公開します。
なぜ、ウクライナを「中学生から知る」ことが大切なのか。戦争が起こったときに、歴史学を通じて考えられることは何か。私たちはいかに義務教育で習ってきた狭い歴史観(世界の見方)を崩し、もっと複雑で豊かな、生きた人びとの経験について想像することができるのか。
いま起こっていることに自分なりに向き合いつづけたいと思っておられるすべての方に、ぜひお読みいただきたいと願っています。
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『中学生から知りたいウクライナのこと』
はじめに
同じ映像を見ていても、同じ記事を読んでいても、見ている人、読んでいる人によって、そこで起こっていることをどこまで深くつかむことができるかは大きく異なるという経験をした人は多いと思います。
ウクライナの軍事施設や教育施設や住居に落とされるロシアのミサイルの映像を見て、わが子をロシア兵に銃殺された親の泣き叫ぶ声を聞いて、残骸になった黒焦げの建物を見て、しばしば私たちは遠く離れた地のテレビでそれを見ているだけで胸が痛む、といううしろめたさを
ただ、同時に、私はつぎのようなことも考えます。
歴史がくりかえしてきた重要な問題のひとつは、たとえば日本のような戦場から離れた国に住む人びとの、当事者意識の減退と、関心の低下、そして
朝鮮戦争も、ヴェトナム戦争も、湾岸戦争も、イラク戦争も、シリアの内戦も、この法則から
仮に戦争が終わっても、ウクライナ復興のための未来志向の投資、政治、追悼イベントが大々的にはじまるでしょう。そうやって、大切な存在を失った痛みを死ぬまで抱えつづける遺族を置き去りにして日常を回復する、第二の暴力の加担者に、テレビで胸を痛めていた人たちが加わることこそが歴史の常道であり、本書が避けたいと思っている心のありようです。
本書の執筆者は、どちらも歴史を生業とする者です。このことは、上記の問題と深い関係があります。歴史を研究する職種の資格は、「忘れない執念」ただひとつだと、私は信じています。
二〇二二年三月十六日に、ポーランド史を専門とする小山哲さんと食と農の現代史を専門とする私が、ミシマ社のオンラインのライブ配信イベントMSLive!で「ウクライナ侵攻」についてお話をしたときには、まさか、書籍化されるとはみじんも思っていませんでした。しかもわずか三カ月後に。まさに異次元ともいうべき緊急出版をミシマ社の三島邦弘さんからご依頼いただいたとき、ためらいがなかったわけではありませんが、私の頭にあったのは、これまでさまざまな研究会や読書会をともにしてきた小山さんとの共著というかたちであれば、これからの作業を耐えられるかもしれない、という思いでした。
実際、オンラインで話した言葉を補足するために、その後も読書や調査をつづけてきましたが、正直なところ、期待よりも不安が勝ります。ただ、以下の三つの点で、この書物が類書とは少し異なるのではないかと感じていますので、箇条書きで示します。
第一に、「中学生から知りたい」という言葉がタイトルにくっついていること。
なぜ、中学生なのでしょうか。私なりに考えてみました。
私にはつい数カ月前まで中学生だった子どもがいるのですが、教科書を読んでみると、現在の中学生が学ぶ歴史や地理の知識はほんとうに多くて、白状しますが、私も忘れていることや知らなかったことが少なくありません。国語の現代文も、著者の複雑な論理が展開されている教材が多くて、おそらく、日本の政治家も学者もジャーナリストも、中学生で習う知識を満足できるほどに把握している人は少ないでしょう。
そういう意味で、「中学生から知りたい」というのは、私たちの学んだ知識をカジュアルダウンしてわかりやすく伝える、とは少し異なった方向にあります。むしろ、私たち大人の認識を鍛え直す、という意味も込められていると言ってよいでしょう。中学生に戻って、これまで戦争はどんな悲劇をもたらしてきたのか、「黒土地帯」と習ったけれど、実際のところウクライナやその周辺はどういう場所でどんな人たちが住んでいるのか、どんな歴史があったのか、そして、これからどうなるのか、という根本的な問いを大人に突きつけるという困難な挑戦でもあるのです。
逆にいえば、義務教育でいろんなことを学んだ経験を持っている方ならば、今起こっていることについて、政治家や学者やジャーナリストよりも深く考えることは可能だ、ということを読者に示したい。もちろん、小山さんや私の話や文章の中身は大学でお話しする内容とあまり変わりませんが、十分に理解できるように言葉づかいには注意をしたつもりです。本書は、テレビや新聞の記事、SNSから伝えられる情報を
第二に、小山さんが、ポーランドに留学経験のあるポーランド近世史の研究者であり、ポーランドという国から眺めたウクライナという地域の見方が重視されていること。
これはとても珍しい試みで、現状を理解するうえで新しい見方を提示してくれるはずです。というのも、これから小山さんが講義(第Ⅲ章)で述べていきますように、現在のウクライナの領域は、かつてポーランド領だった場所が多く、ポーランド語の話者も、ポーランド人と同じカトリックの信者も少なくありません。かつてはお互いに殺しあった悲惨な歴史も共有しています。
しかし、ロシアやアメリカという超大国ではなく、ポーランドという中規模の、スラブ言語が話されている東ヨーロッパ諸国のまなざしをなぞることは、テレビを見ているうちに
私はナチズムを中心に研究してきたので、ドイツ史からウクライナを眺めるという視点を本書で提示しましたが、それほど珍しいものではありません。ただ、ロシアやドイツに、場合によっては複数回にわたって占領されたポーランドやウクライナの歴史を知ることも、現状の背景をとらえるうえで欠かせないと感じます。
何より、あらゆる世界現象を日本語と英語という二言語で把握しようとする傾向の強い日本の政治界、学界、言論界にあって、第三、第四言語を大学で学ぶ意義は、こういう混迷の時期こそ、効果を発揮するにちがいありません。
第三に、本書では、地政学的な、あるいは、国際政治論的な分析が少なく、歴史学的な分析が多いということ。
たしかに、地理と人間の行為をダイナミックに理解する本来の意味の地政学は、今回のことを理解するうえで重要な見方を示してくれます。また、国際関係論は、私も大学一年生のときに憧れて学んだほど魅力的な学問ですが、二人ともその専門家ではありません。読者はこの点で失望するかもしれません。
では、私たちは、現状について語ることは少ないのか、といえば、そうではありません。一見遠回りかもしれませんが、歴史をさかのぼることで、現状分析だけでは理解できない深い背景を知ることができます。長期的変動を見極めるような視点も、もしかしたら、そのヒントくらいは得られるかもしれません。
それから、現在「地政学」という言葉がメディアで用いられたとき、しばしば気になるのが、あそこは地政学的に重要だ、という中心から辺境を眺めるまなざしです。そして、「地政学」をナチスが中東欧の侵略と占領の根拠に悪用した歴史の忘却です。私たちは、できるかぎり、中心からの目線と同一化しないで、中心からまなざされる側にも立って歴史を眺めたいという認識で一致しています。
本書は、小山さんと私のオンラインでの講義や対談を増補したもののほかに、私がウクライナ侵攻前後に発表したエッセイも含まれています。これらの歴史的限界を示すために、文章を補うときも、発表時点で知りえなかったことはできるだけ書かず、どうしてもあとからの情報による補足が必要な場合は、そう明記するようにしました。
本書自体も時代の産物で、のちの時代に、ウクライナ侵攻の直後、ユーラシア大陸の東端の島国で何が考えられていたか、どう認識され、認識し損なったのかを知る史料にもなるでしょう。ですから、本書は、ほかの類書と同様に、今後新たに明らかにされていく事実によって、歴史的検証にさらされるべき運命にあります。こうした作業に読者のみなさんが少しでも関わっていただけたなら、望外の喜びです。
二〇二二年五月
藤原辰史
小山さん、藤原さんからのメッセージ動画
本書の発刊にあたり、著者の小山さんと藤原さんからメッセージをいただきました。
いま中学生の人、むかし中学生だったことのある人、すべての人に向けて書きました。
歴史を研究するふたりの研究者が書いていますので、かっこよく、国際関係とか軍事技術について分析することはできませんけれども、
いま起こっていることを考えるための土台となるような、基本的なことを愚直に語り合って、その内容が書かれています。決して、いまメディアで流されていることだけが本当のことではなくて、
もっと歴史をさかのぼったり、もっと現状を見ていくと、さまざまな見方が、いまウクライナで起こっていることについて出てくると思いますので、
ぜひこの本を手に取って、自分なりの考えや、自分なりの見方を確認していただければと思っています。
本書のもとになった対談をご覧いただけます!
本書のもとになったMSLive!「歴史学者と学ぶ ウクライナのこと」のアーカイブをご覧いただけます。
そもそも、ウクライナという土地はどんなところで、どんな歴史的経験や文化がある? 戦争という事態を前に、私たちが現状を非難し、こうではない世界へと向かっていくために必要な言葉とは? 約2時間半にわたり、お二人とともに考えました。