第131回
特集『小さき者たちの』刊行記念対談 松村圭一郎×辻山良雄 「小さき者たち」を生きる ~エチオピア、熊本、そして「私たち」~ (前編)
2023.03.03更新
『小さき者たちの』の刊行を記念して、1月27日、著者の松村圭一郎さんと、Titleの店主の辻山良雄さんによる対談を開催しました。
人類学者としてエチオピアをフィールドに研究を重ねてこられた松村さんが、なぜ今、自身のルーツである熊本に向き合うことになったのか。熊本の民の暮らしや言葉と向き合う中で、どんな気づきや発見があったのか。そして今後、松村さんはどんな研究をしていくのか・・・。また街の中で「小さき」本屋を営む辻山さんは、この本をどのように読まれたのか。
ミシマガジンではその模様を一部抜粋し、2日間にわたってお届けいたします!
構成:西尾晃一、星野友里
松村さんの本は、言葉が浮かんでくる
辻山 Titleの店主の辻山良雄と申します。実はコロナ禍になって以降、店内で人を入れて行うイベントが初めてでして、そういえばこういう感じだったなと思い出してきています(笑)。もともと、2020年3月に松村圭一郎さんの『はみだしの人類学』という書籍の刊行イベントを行う予定だったのですが、コロナで中止になったので、今回が松村さんをお呼びする念願のイベントとなります。
松村 やっとお目にかかれました(笑)。辻山さんには、何かとメディアなどで私の本を取り上げていただいて、遠くから応援いただいていると感じてきました。
辻山さんの本の紹介は、出版社のHPから言葉を引用するのではなく、いつもご自身の言葉で語られますよね。それを見るのがいつも楽しみなんです。
辻山 ありがとうございます。日々、本の紹介をしているんですが、その中でも言葉が浮かんでくる本と、浮かばない本があるんです。でも、松村さんの本はだいたい浮かんでくる。何か言いたくなるし、考えたくなるんです。
松村 ありがとうございます。今回、初めてTitleさんに入ったんですが、棚に目が合う本がいっぱいあるなあと思いました。気になる本が「ある! ある! ある!」と(笑)。
辻山 それも空間が「小さい」というところがあるかもしれないですね。
松村 棚がたくさん並んでいると、本との距離が出てしまいますよね。多くの書店ではジャンル分けもされている。でもここはそういう明確な区分けがない。その辺が絶妙でいいですね。
水俣の問題を触れずにきた、うしろめたさがあった
辻山 これまでの松村さんのご著書は、エチオピアの話から、私たちの生活につなげていくような内容が中心だったかと思います。今回は熊本について、特に水俣、天草、須恵村について書かれた本ですね。松村さんご自身が熊本ご出身なんですよね?
松村 はい。そうです。
辻山 子どもの頃は水俣をどう捉えられていたんですか?
松村 恥ずかしながら水俣には一度も行ったことがなくて。5〜6年前に初めて行きました。子ども時代、県境に近い阿久根(鹿児島)に海水浴に行った記憶はあるので、水俣の近くを通ってはいるはずなんですが、立ち寄ることはなかったです。
当然、公害については知ってはいました。でも地元ではタブー視されていたように思います。熊本の人間にとっては、もう話題に上ることもない。その近寄り難さ、触れ難さみたいなことがあって、そういう中で私自身、この歳になってしまいました。それがずっと引っかかっていたんです。
辻山 なるほど。
松村 2015年から岡山で暮らしているんですが、そこで初めて石牟礼道子さんの本などをきちんと読まなきゃいけないな、と思いはじめました。アフリカを研究してきたので、研究に直接必要な文献ではないんですが、「これは今、読むべき時が来た」と感じて。
岡山のスロウな本屋さんで、寺小屋(読書会)を始めたんですが、その会の最初に『苦海浄土』を選んだんです。その流れでミシマガの「小さき者たちの生活誌」の連載も書き始めた、という感じですね。
辻山 実際この歳になって、石牟礼道子さんや緒方正人さん、原田医師など水俣病に関わるキーパーソンの方々の言葉に触れてみていかがでしたか?
松村 そうですね。公害って一時期の出来事として教科書には出てくると思うんですが、その前後にさまざまな紆余曲折があることを改めて認識しました。一時金で水銀汚染がなかったことにされたり、それに患者たちが抗って直接交渉したり。たとえ裁判の判決で勝っても、患者認定されない人がたくさんいる。戦いはいまだに続いているわけですよね。
「公害」が、歴史上の点の出来事じゃなくて、ずっと続いてきた問題の連鎖なのだと痛感させられました。
エチオピアとかつての熊本は似ていた
松村 一方で、石牟礼道子さんの小説に出てくるような、かつての村の暮らしが、エチオピアで見聞きしてきた村人の姿と重なることにも興味を覚えました。
辻山 それはどういうところですか?
松村 例えば、エチオピアの村では、家を建てて病気になったりすると、50㎝〜1mくらいずらして、もう一回建て直したりする。
なぜそんなことをするかというと、精霊が通る道に家を建ててしまったから病気になるんだと、彼らは解釈するんです。なので、わざわざ全部取り壊して、ちょっとずらして建て直す。それをするだけのリアリティが彼らにはあるわけですよね。
辻山 ええ。
松村 でもそれは遠いエチオピアに限られた話ではなく、石牟礼さんの小説には山や川の精霊なんかが出てくるわけです。そういう人間ではないものに囲まれて生きることが非常にリアルだった世界観が少し前の熊本にもあった。
エチオピアの村人が精霊を信じるのは、文化人類学者として「理解」できる。でもエチオピアだけの話ではなく、自分が生まれ育った熊本に同じような感覚があったとしたら、つまり、エチオピアで目にしてきたのは「異文化」や「他者」のことではなく、「私たち」のことだったわけです。
それは遠いと思っていたエチオピアの人びとのことが、よりリアルに感じられる出来事であったと同時に、「かれら」の姿は「わたしたち」でもあると実感させられました。
編集部からのお知らせ
松村圭一郎×辻山良雄「『小さき者たち』を生きる ~エチオピア、熊本、そして『私たち』~」
本対談はこちらからご覧いただけます! アーカイブもございますので、ぜひ、あわせてご覧いただけましたら幸いです。