第132回
特集『小さき者たちの』刊行記念対談 松村圭一郎×辻山良雄 「小さき者たち」を生きる ~エチオピア、熊本、そして「私たち」~ (後編)
2023.03.04更新
『小さき者たちの』の刊行を記念して、1月27日、著者の松村圭一郎さんと、Titleの店主の辻山良雄さんによる対談を開催しました。
人類学者としてエチオピアをフィールドに研究を重ねてこられた松村さんが、なぜ今、自身のルーツである熊本に向き合うことになったのか。熊本の民の暮らしや言葉と向き合う中で、どんな気づきや発見があったのか。そして今後、松村さんはどんな研究をしていくのか・・・。また街の中で「小さき」本屋を営む辻山さんは、この本をどのように読まれたのか。
ミシマガジンではその模様を一部抜粋し、2日間にわたってお届けいたします!
構成:西尾晃一、星野友里
システム化することで世の中が冷えている
辻山 エチオピアとかつての水俣が結びつく話はとても興味深いです。松村さんは『小さき者たちの』の第6章「かかわる」のなかで、「神経どん」の話を取り上げられました。神経を病んでしまっている人が村の中に当たり前のようにいて、その人たちにも生きていく道が用意されていたことが印象的でした。
松村 『うしろめたさの人類学』でもふれていますが、エチオピアの村にも、精神的に病んでしまう人がいたときに、病院に入れるわけではなく、近くの人が手助けしたり、悪いことをしても大目にみたり、隣り合って暮らしているんですね。
考えてみると、当然なのですが、病院などの社会保障が整うまで、人びとがやっていた営みは、エチオピアも熊本も、似ているわけです。
エチオピアの文化があり日本の文化があり、というわけではなく、近代の国家制度と、それ以前の暮らしがあるだけ。遠く思えるアフリカも熊本も地続きであり、人びとの暮らしは普遍的なんだ、ということですよね。
辻山 なるほど。
松村 ではどうして今のエチオピアで助け合いができているのか。逆に言えば、なぜ今の日本ではそれができないのか。それは、やっぱりエチオピアでは問題が閉じ込められていないからだと思うんです。
思い返すと熊本にいた小学校時代、近くに八百屋さんがあって、その野菜を、小柄なおばさんが足を引きずりながら、いつも配達していたんです。母親によると「奉公人」のような立場で、住み込みで働いていたそうです。その人はおそらくなんらかの「障害」を持ってはいたんですが、役割が与えられていた。生きていくのには何らかの手助けが必要な「ケア」の対象として表に出ていて、みんなの意識に上っていたんだと思います。
でも、今の日本では精神を病んだら精神病院、障害がある人は障害者施設というように、システムとして分離され、閉じ込められてしまう。
辻山 最初は良きこととしてシステム化したはずなのに、区割りすることで世の中が冷えてしまったところはありますよね。
松村 区分けすることで、彼らのことが私たちの想像力の中に入らなくなる。ちゃんとリアルに、この世界のことを想像できなくなっている。私たちはすでにヴァーチャルな世界を生きているのかもしれない。そういうことを、文献を読みながら思わされました。
「気がかり」になる場所が求められている
松村 高度にシステム化された現代社会ですが、一方で、あえて「顔」を見る動きから始まる何かが起こっているようにも思います。Amazonでも本は買えるのに、わざわざTitleさんのような本屋で買う。みんな何を求めているんでしょうか? 「満ち足りなさ」があるんでしょうか?
辻山 「寂しさ」ですかね・・・。
松村 「寂しさ」かもしれないですね。本を間に挟んで、人間に会いたい、辻山さんに会いたい、と。それはAmazonにはできないことですね。配達すら「置き配」ですし(笑)。人と人が出会う小さな「場」を、いろんな人がいろんなところでつくっているんだと思います。経済規模や売上高では測れない価値が「店」にはありますよね。最近、ずっと「店」なんじゃないか? って思っているんです!
辻山 おぉ! 店ですか(笑)。
松村 はい(笑)。いま普通に生活をしていて、どこで人と会うかって聞かれたら、店だと思うんです。いろんなことがマーケットの上にのっていて、物の売り買いなしには、生活ができない。
コロナで自粛生活になったとしても、食べ物を得るには、お店に行かなければいけない。病気になったら病院へ行かなければいけない。どんな場所であれ、お金を介した経済行為で、私たちは一日の大半を過ごしている。コンビニだと目が合わないし、世間話できる雰囲気がない。でもここ(Title)だと辻山さんと立ち話ができる。辻山さんも本に書かれていますが、よく来る常連さんが来ないと心配になったりすることもあるんですよね。互いの「顔」がうっすっらとでも意識にのぼっている。
辻山 そういうことはありますね。それがご年配の方だと、その心配も切実なものになってきます。最近見ないけど、どうしたのだろうと。
松村 いつも来るあの人は、今日はなんで本を取りに来ないんだろう? とかって思われるわけですよね。
辻山 そこは、経済行為ではないんです。単に、いつも来ている人が来ないというのが「気がかり」という、人としてあたりまえの気持ちなだけで・・・。
松村 その「気がかり」という関係になる場所と、コンビニのようにならない場所があって、今つくるとしたら、その「気がかり」になる場所が求められているんだと思います。
一方で、店は、やはり経済行為の場で、辻山さんが金銭を得て生活していくところでもありますよね。もちろんボランティアではない。
辻山 何かしらお金を支払ってもらわないとという。
松村 はい。でも逆に、例えばTitleさんがフリースペースで「お金がない人でも、この本、自由に読んでください」「ここに来たら辻山さんが無料で相談にのってくれます」という状況で、人が来るかなあ? と思うんです。
お金を払う行為は、自分が主体的に行動するわけですよね。支援される側になると、急に受け身になってしまう。重いし、自律性がなくなってしまう。でも本を買うって、辻山さんの生活を支えることでもある。そこで主従がいいバランスになるのが、経済行為の良いところだと思います。
辻山 確かに、あいだに経済行為を挟むことで個対個としてイーブンに話せるということはありますよね。たまに、話すだけ話されて去っていくような方もいらっしゃって、そんなとき「ん?」と思うのは、買わなかったのが嫌なわけじゃなくて、店でやるべき経済行為をやっていないのに、話すだけ話して帰るってずるくない? みたいな気持ちが、どこかにあるからなんだと思います(笑)。
文化人類学は、近代がもたらしたものを考える学問
辻山 この本のタイトルについて、ミシマガジンでの連載時は『小さき者たちの生活誌』で、本にするときに、物語の始まりとして少し余白を持たせるために、『小さき者たちの』という含みのあるタイトルにした、とミシマ社通信にありました。今後この旅はどこへ向かっていくのでしょうか?
松村 人類学者は遠くのフィールドへ行ってフィールドワークをする。それが普通のやり方だったんですが、必ずしも遠くへ行く必要はなくて、身近な場所についての本でも掘り下げることによって、今の私たちの世界を考えることができるんです。例えば、いま岡山の「店」に注目して、その可能性を考える連載を新聞の地方版に書いています。
人類学って、まさに「近代って何なのか?」という問いと格闘してきた学問なんです。近代化していないとされた「未開社会」を研究していたときも、私たちは何を成し遂げ、何を失い、何が変わったんだろう? と考えてきた。そして現代の資本主義や市場経済とされる社会を研究する人類学者も、実際にローカルな小さな場所に目を向けてみると、資本主義的ではないいろんな動きがあることを明らかにしています。
なので、今後も現状のシステムに対して、いまのエチオピアやかつての日本のことを調べるなかで、この大きなシステムをずらしたり、そこから抜け出したりしていく方策を探っていくんだと思います。さまざまな場所に杭を打ちながら、考えていくしかないと思うんです。
辻山 なるほど。いま我々が見ている世界だけが、絶対ではないということですね。
松村 あと現在進行形のこととして、私がエチオピアで通っていた村から、女性たちが中東などに家政婦として出稼ぎに行っているんですね。『小さき者たちの』の17章に出てくる、からゆきさんの話とも繋がりますが、人が生まれ育った場所を離れて外国に働きに出る、この人間の移動と国境というテーマは考えなければいけないテーマの一つです。
彼女たちは出稼ぎ先の外国でビザが切れたりすると、「不法滞在者」とされるんですが、そうすると、人間の「顔」が失われる。日本でも、難民申請が通らなかった人などは、まっとうな「人間」として扱われなくなりますよね。
辻山 「不法滞在者」というイメージでしかなくなりますよね。
松村 ええ。ある特定のラベルに押し込まれて、いろんな思いや生活の現実がかき消されてしまう。そこに人間が生活していることを感じ取れないと、私たちが生きている世界のリアリティをとらえそこねてしまいかねないと思うんです。だから、これも、エチオピアの女性たちの話としてではなく、日本で暮らす「私たち」の話として考えていきたいな、と。
辻山 ええ。実際には、それぞれ個々の人物としてそこにいるのに、それがカテゴライズされて大きな枠に入れられてしまうと、そうした「小さき者たち」の存在はなかったものとして扱われてしまいます。
大きな資本主義により失われてしまった「人間」を取り戻す。わたしのTitleも、小さき者たちとともにありながら、商売を続けたいと思います。
編集部からのお知らせ
松村圭一郎×辻山良雄「『小さき者たち』を生きる ~エチオピア、熊本、そして『私たち』~」
本対談はこちらからご覧いただけます! アーカイブもございますので、ぜひ、あわせてご覧いただけましたら幸いです。