第135回
藤原辰史さんより 『小さき者たちの』を読んで(後編)
2023.03.17更新
『小さき者たちの』の刊行を記念して、1月末に、著者の松村圭一郎さんと歴史学者の藤原辰史さんによる対談が行われました。
テーマは、「私たちとは誰か? 〜人と植物の小さき声を聴く〜」。
松村さんと藤原さんはこれまでも、新著をミシマ社から上梓されるたび、対話を重ねてきました。
イベント開始早々、「話したいことがたくさんあるので、話していいですか?」と切り出した藤原さん。『小さき者たちの』から感じたこと、考えたことを、一気に語っていただきました。
昨日公開した前編につづいて、本日は後編をお届けします。
(構成:角智春)
熊本とエチオピア
藤原 さらにもうひとつ。本書は熊本の話を取り上げているのに、ところどころに松村さんが撮ったエチオピアの写真が入っています。
一緒に暮らしてきたコーヒー農園の人や、労働奉仕をさせられている若い人、石を担いでる女性たち、それから、ダンスを踊りはじめる人も。熊本についての、日本でも随一の優れた文章の数々と呼応するかのように、松村さんはアフリカの写真をわれわれに見せる。しかも、両者の関係性にはほぼ触れないままで、読者に投げかけてくれているわけですね。
ある意味では読者への「丸投げ」かもしれません。でもその「丸投げ」というのは、余計な、過剰な解釈を加えないで見せてくれているということ。私も、写真で何度かグッとくるときがありました。
たとえば、須恵村についての章では、アメリカの文化人類学者のロバート・J・スミスとエラ・L・ウィスウェルによる『須恵村の女たち』という本が引かれています。熊本県の深い山奥である須恵村に二人の人類学者が入り、そこの女性たちを描いているのですが、ここでは、女性たちがものすごく生き生きとしていて、よく食べるし、タバコもよく吸うし、お酒もたくさん飲む。性的にも非常にオープンで、いろんな猥談を朗らかに語る。そんな文章と読み進めていると、次のページにふと写真が出てきて、エチオピアの女性たちの顔が並んでいるわけです。
『小さき者たちの』182~183頁
ちょっと笑顔であったり、ヤギに餌をあげていたり、教会で祈りを捧げていたりする、まったく異国の地の人びとの顔。見事な「異化効果」が起こっている。自分が思ってもいなかったような感情、言葉にならない思いが熊本とエチオピアの関係のなかに生まれてくる。そんな心が沁みる瞬間がありました。
松村さんはこれからもエチオピアのフィールドワークを続けていくと思うし、「私たちは誰か」という問い、「熊本で生まれた松村さん」としての問いについても、またしっかり考えていかれるんだろうなということを、写真と言葉の往復のなかで感じました。
では、「大きな者たち」とは?
松村さんへの質問というか、私自身も考えなければならないと思っていることがあります。
本書のタイトルになっている「小さき者たち」とは誰か、という問いです。
ひとつはもちろん、本書に出てくる名もなき人、歴史に名を残すことのほとんどないであろう人たちですね。水俣病患者として一生を暮らしている、あるいは終えた人。須恵村で上半身裸になって働き、みんなでお酒を飲みながら踊っている女性たち。海外の娼楼に売られ、貨物船の船員などの相手をさせられた女性たち。そういう人たちを、松村さんが「小さき者」と呼んでいることはわかったんです。
とすると、次に私たちが考えなければならないのは、じゃあその「小さき者たち」のなかに私たちは入るのか。
もしくは、「小さき者たち」がいるんだったら、「大きな者たち」も存在していているはずで、では、その「大きな者たち」とはいったい誰なのか。
そして、「大きな者たち」にもいろいろあるのではないか。
さらには、「大きな者たち」と私たちにはどれぐらいの距離があるのか。
松村さんが「小さき者」と表現したのは、ある意味で「大きな者」というのをぼんやりとでも想定しているからだと思いますが、これは誰だろうかということなんです。
左:藤原辰史さん、右:松村圭一郎さん
注意深く読めば、松村さんはそこをちゃんと書いてるんですね。歴史の教科書を見てごらんなさいと。そこに出てくるのは皇帝、国王、将軍ばかりですよね。たしかにそうです。僕も歴史研究者なので忸怩たる思いがありますが、大きな者たちというのは次々に出てきます。
では、この本のなかの大きな者たちは誰かというと、ひとつは「チッソ」ですね。日本窒素肥料株式会社の社長やその部下たち。
たとえば、水俣の住宅は差別構造になっていて、一番上と一番下の労働者とではすごい差があった。そこには朝鮮人の労働者もいて、松村さんもコロニアリズムの問題、民族の問題として取り上げています。チッソは朝鮮人の労働者を酷使し、そして朝鮮半島に渡って朝鮮窒素肥料株式会社の工場も建設していました。
「大きな者」のひとつは、こういう社長や企業であったり、社長でさえも小さく見えるような経済の動き、資本主義といったものであったりすると思います。
『小さき者たちの』第1章冒頭
天皇という日本独特の「大きな者」
さらにこの本には、私たちとは何かを考えるうえで重要で、とても日本的ともいえる「大きな者」が出てきます。それはもちろん天皇です。
松村さんは本書で、一章分を割いて天皇の問題に向き合っていますが、そこに印象的な言葉がありました。水俣の運動の中心にいた川本輝夫さんが、こういうふうに言うんです。
「水俣にも、水戸黄門とか月光仮面とかおらんかねえ。バーッと走ってきて、バッと裁断をしてもらえんもんかな」と。そういう意味では、日本でいちばんの権威、存在として、天皇を求める気持ちはつよくもっておったんです。石牟礼さんもよく言ってるんですが、私たち患者や家族のなかで、やっぱり御上(おかみ)ちゅうのは、ものすごい存在なんですよ。御上が来てくれるだけで問題は解決すると、ずっと思っていたんです
(『小さき者たちの』124頁。髙山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』講談社文庫、129-130頁より引用)
この章には、2013年に天皇皇后が水俣に来て、前例のないような行動と異例の長い挨拶を、ギリギリのラインで行ったということが書かれています。
ただ、章の終わり方は非常に暗くて、松村さんは今の皇后雅子さんが、水俣病が拡大した当時のチッソの社長の孫にあたることもふまえながら、天皇皇后が代替わりしても「おそらく何ひとつ解決はしていない」とも述べている。ここの松村さんの迷いのようなものを感じました。
私たち歴史学者にとって、明治維新から1945年、そしてその後の象徴天皇制の時代を含めて、天皇や天皇制を抜きにした日本の歴史は書けないんです。歴史書の文章で「天皇」とは書いていなかったとしても、歴史からその存在がわかる。それほど大きな存在です。
そういう意味で、私は、水戸黄門や月光仮面のように「上から来て裁いてくれてしまう存在」っていうのかな、これが、日本社会の「私たち」というものを知るうえでとても重要だと思います。
福沢諭吉は、1882年に書いた『帝室論』で、こんな事例を出しながら、皇室の存在を擁護しています。人はみんな喧嘩するでしょ、と。喧嘩すると当人たちは何も見えなくなる。そのときに親分が出てきて、まあまあと仲裁してくれる。これがこの社会に必要なんだ、ということを福沢は書いて、ある意味で超越的な調停者の存在を擁護したわけですね。
水俣の場合、患者の側は一人もチッソの企業の人を殺さなかったのに、チッソにはたくさんの人が殺された。こういう状況の仲裁をしてくれるのは天皇しかいない、となってしまう構造は、一方ではたしかにそうかもしれません。
でも、おそらくその構造が、「きっと天皇なら間違いない」というかたちで進んでしまった日本独特の戦争の終わり方、「天皇」の威を借りて他者を支配する構造につながっているのではないでしょうか。
いったい誰が中心にいたのかわからない空白の権力のなかでただ戦争へと突き進み、多くの人は責任を取らないまま翌日には戦後民主主義になってしまう、という不思議な「大きな者」を経験して、私たちは今に至っている。日本が戦争の記憶にきちんと向き合えなかった理由のひとつは、大きな仲裁者のおかげというか、せいではないでしょうか。
そういうところがあって、私はやはり、この章は非常に複雑な思いで読みました。
だから本書は、「私たちは何か」ということについて、タブー視されているかもしれないくらい本質的な部分に迫ろうとしているなと感じます。
やっぱり私は、日本列島の歴史の中で「大きな者」と「小さな者」の関係はどう結ばれてきたのか。その中で「小さき者たち」を描くとはどういうことか。これを松村さんと議論してみたいと思いました。
私は歴史研究をするなかでも、天皇があれだけ大きな存在だったせいで、非常に多くの声なき小さき者たちが殺されていったというイメージを強くもっているので、とても批判的ではあるんです。ただ、いま天皇について考える場はどんどん少なくなってきているので、日本にとっての「大きな者」について本当にしっかり考えていく、その第一歩として本書はいい本だなと思いました。
無知が可能性を生み出す
ちょっと、私、しゃべりすぎましたね(笑)。
松村さんがこの本で、ただ「自分が無知だった」ということを言ってくださったことで、私たちも自分自身が無知だったと言えるようになるし、無知であることが可能性をようやく生み出すと思います。
私の職場のある先輩は、「自分が無知であることをちゃんと晒せるようになること、知ったかぶりをしないということが研究会のエチケットだ」とおっしゃっていました。
松村さんはこの本を使って、われわれを共同研究に誘っていると感じています。迷い、悔やみ、でも知的な勇気をもらえる、そんな充実した読書でした。
(終)
編集部からのお知らせ
松村さんと藤原さんの対談を動画でご覧いただけます
本対談の動画を、全編ご覧いただけます。
記事でご紹介した藤原さんからの問いかけに、松村さんが応答し、「小さき者とは誰か?」をめぐって対話が深まりました。
ぜひ、下記のアーカイブ販売ページをご確認くださいませ。