第156回
『日本宗教のクセ』発刊特集
内田樹×釈徹宗「宗教的センスの高め方」
2023.08.22更新
こんにちは。ミシマガ編集部です。
8月4日に発売となった内田樹さん・釈徹宗さんの『日本宗教のクセ』、おかげさまで「おもしろい!」「こういうことを知りたかった!」といった声をたくさんいただいております。
発売翌日の8月5日、本書の発刊を記念した内田先生と釈先生の対談イベント「今年のお盆の迎え方〜 日本宗教のクセを生かして」を開催しました。
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そのときに多く語られたのが、本書のメインテーマでもある、「宗教的センスの高め方」についてでした。日本の宗教には、特定の宗教を信仰する、というのとは違うかたちで、各々が宗教的センスを高めるための仕掛けが、「クセ」としてたくさん織り込まれている。
それは、季節の行事の様式、目上の人との接し方、死者の弔い方、そういった私たちの日常に、散在している。本日のミシマガでは、そこに気づくためのヒントを、対談のお話と本書からの引用を交えて、ご紹介します。
鬼神から学んだコミュニケーションの極意
内田 夏至と冬至のときに、死者の世界というか、その超越的なこの世ならざるものと、人間のこの世俗の世界の間のボーダーラインが少し低くなって、何かがやってくる。この世ならざるものっていうのは、この世の度量衡では計り知れないし、推測もできない。でも一つだけ、いかなる鬼神であれ、一つだけコミュニケーションできる方法があるというのを、人類が古代に発見した。それは「鬼神は敬して之を遠ざく」、つまり「敬する」なんですね。
釈 『論語』の言葉ですね。
内田 その鬼神を抱きしめるとか、理解するとか、そういうのは通じないんですよね。愛とかそういうのって。でも唯一通じるのがリスペクトですよ。
つまり、ボーダーラインの向こうから来ますよね。来たときに、彼らが「自分がここに来た」ということを確認する方法というのは、我々生きている人間たちの価値観や物差しでは考量しえぬものが登場してきたということで、みんながさっと引いて距離を取ってその儀礼を行うと、その儀礼だけはとりあえず通じる。何て言うのかな、これ僕ね、本当にすごい知恵だと思うんですよね。
結局、その鬼神の類というのは、コミュニケーション不可能なわけですよね。コミュニケーション不可能な、外部から到来するものに対してでも、一つだけ、人間の側がコミュニケーションができるものがあって、それは敬意を表すること。これだけは、この敬意だけは鬼神と言えどもそれを感応する。それ以外のものは感応しない。これって多分、古代人の宗教的な身体的実感からきてると思うんですよね。いろんなことをやってみてうまくいかなかったけども、リスペクトだけは伝わった。それが宗教儀礼の一番根本にある。これね、人間関係でも、そうなんですよ。例えば愛って伝わらないじゃないですか。ね、心の底から燃え盛るような愛を持っていても全然気づかないってことあるじゃないですか。だけど敬意って、僕が釈先生に敬意を示したら、必ずわかりますよね。
釈 はい、わかると思います。
内田 例えばその50人のクラスで、よく知らない子たちが雑然といる場合でも、敬意というのは、全然知らない人から示されてもわかる。何て言ったらいいんだろう、敬意はピュアですよね。人間的な欲得みたいなものがあんまりなくて、この人とは適切な距離を取らなければいけないと。近づき過ぎてもいけないし下がりすぎてもいけないという、距離感についてすごくセンシティブになっている状態って、すぐわかるんですよ。これがザーッと入ってこられると無礼なやつ、かといってはるか遠くに行っちゃうと無関係になるわけですよね。
だけど、すごく適切な間合いを取ろうとする人って、すぐわかるんです。「この人は僕と適切な間を取ろうとしてる」と。
釈 確かに。
内田 だから愛は伝わらないが敬意は伝わるという。でも、この「愛より敬意」というのは、自分たちの人間世界における経験を鬼神に投影しているのか、あるいは鬼神の類との交渉の経験、宗教的経験から導かれたものなのか。僕は宗教的経験から導かれたものだと思うんですよ。人類が敬意というものを発見したのは、鬼神と出会ったことによってであった。どないでしょうか?
~編集部より~
鬼神に出会ったことによって、人類が敬意を発見したという、今回のお話。『日本宗教のクセ』では、子どもたちの宗教的感性を涵養する第一歩は、「怖い話」ではないか、というお話も展開されています。ここで一部、ご紹介します。
内田 子どもたちの宗教性を涵養していくのに太古から一番活用されていたのは、たぶん恐怖譚だと思うんですね。怖い話。昔から、ストーリーテラーのおじさんが子どもたちを焚き火の周りに集めて、いろんな話をしてきた。子どもたちに神様の話をしたってなかなか理解されないから、まずは怖い話から。
釈 たしかに。僕が子どものときにも、昼に公園に子どもを集めて怖い話をするおじさんがいました......。あの人、今から考えたら仕事は何をしてたんやと思うんですけど。また話がうまいんですよ。聞いたらその晩からトイレに行けなくなるんです。
内田 一番怖い恐怖譚というのは恐怖を与えた実態が何なのか結局わからないという話ですね。(略)「世の中には人知を超えた〈恐るべきもの〉が存在する」「それが到来すると、さまざまな災いをなす」「でも、ある種の作法を守ると、一時的にお引き取り願うことだけはできる」。それが恐怖譚の基本的な構成です。これって、ある意味で初歩的な宗教教育だと思うんです。小説や映画や漫画やアニメやあるいはゲームというかたちを通じて、恐怖譚は同じ話型を繰り返しています。これは発生的にはやはり「宗教的なもの」と言ってよいと思います。
――『日本宗教のクセ』p220~221
左:釈徹宗先生、右:内田樹先生
脱「悪しき合理主義」
釈 「どう向き合っていいかわからないけども、敬意を示すために出来上がってきた」、その先人の知恵を引き継いで、同じ順序で接するというのが、だんだん儀礼として、整備されていったんでしょうね。ですからお盆でも手順が結構大事な地域がありますでしょ。まずお墓に行って迎え火を焚いて。きゅうりで馬、なすびで牛を作ったりして。早く帰ってきてほしいから来るときは馬で、帰るときはゆっくり帰ってほしいから牛で。おもしろいのいっぱいあるんですよ。まずは「おがら」を焚くでしょう。
内田 おがらってなんですか?
釈 おがらって麻の茎の抜けがらなんですよね。糸を取った後のからを焚くんですよ。麻っていうのは、日本にとってはすごく宗教的な意味があって、だからおがらを焚くんだと思うんですね。それで、奈良かどっかに、「吊り橋」を仏壇の前に作るところがあるんですよ。
内田 吊り橋渡ってくるんですかね?
釈 どうしてそんな難しいことをさせるのかなあと思って。「吊り橋効果」かなんか狙ってるんですかね(笑)。
内田 ドキドキしてくる(笑)。
釈 好きになるように(笑)。とにかく多種多様ですよ、あの手順っていうのは今も厳密に守ってる方たちもいれば、どんどんどんどん簡略化されてるところもあるでしょうけども、お盆の複雑な手順を上の世代からちゃんと引き継ぐみたいなことも、一つやっぱり家制度を支えるために大事なものだったんだろうなと感じます。
内田 そうでしょうね。家督を継ぐ者に口伝で伝えていくとかあるんでしょうね。
釈 はい。またですね、日本のお盆はちょっと面白くて、「施餓鬼」とかするじゃないですか。宗派によるんですけども、餓鬼道に落ちた人のためにご供養する。多くの地域の皆さんがお寺に立って、お寺ではその施餓鬼の塔婆を買って、お家に持って帰って、終わったらお墓にさす。お墓に時々塔婆がいっぱい建っていることがあって、それは施餓鬼なんですよ。つまり全然見ず知らずの人のためにやってる。餓鬼道に落ちた人のために何かご供養する。ですから決して自分のところの先祖のためだけにやってるわけじゃなくって、別の世界に行って苦労してる人が少しでも救われますようにというのが、お盆にあったりします。そういう一つの生命観。面白いです。
内田 死者に対して、生きている人間の気持ちが何らかの形で伝わっていくということですね。宗教的感受性の一番基本ってそうなってますよね。死んじゃった人間は生物学的に死んじゃったらもうゼロだと。そんな人間に向かって何言ったって意味がない。「ご供養とか言ったって相手は死んでんだぜ馬鹿野郎」、っていう人もいるじゃないですか。悪しき合理主義者たち。でも多分宗教の出発というのは、死者にもメッセージが送れるし、場合によっては死者からもメッセージが返ってくるということ。現実世界にいる人間に比べるとずっとかすかだけども、シグナルを発信したり、受信したりすることができるものとして、死者とか鬼神を捉える。僕ね、宗教性の一番核心部分って、「コミュニケーションの可能性を信じる」ということだと思うんですよね。
釈 この本でも、終始語られているテーマや、発せられているメッセージは「宗教的成熟をみんなで目指そう」なんですよ。全編その話になっておりますので、読んでいただいたら、感じることができると思います。今おっしゃったように、悪しき合理主義というのは、コミュニケーションの回路を自ら断っているわけですよね、もう。自分が扱える範囲しか受け入れない。ですけども、でもやっぱり死者とのコミュニケーションというのは、少し自分自身の心を静かに整えると、むくむくと立ち上がってきます。
~編集部より~
日本の宗教の大きなクセのひとつであり、死者とのコミュニケーションのひとつの形である「お墓」について、本書では第3章「お墓の習合論」としてお話をされています。お墓の未来は共同体の未来でもあるというお話の一部を、ここに引用してご紹介します。
内田 お墓というのは、世界各地であり方は全部違うと思うんですよ。「死者をどう供養するか」というのは、自分たちの共同体の継続性をどう担保するかということですから、みなさん、それぞれに苦労していると思うんですよね。そして、まだ人類は正解を発見していない。
釈 今、日本では、死者儀礼を担当しているのは主として仏教ですが、これとて今後どうなっていくかわからない。少なくとも、ここ十五年くらいで変化しつつあった死者儀礼ですが、新型コロナ禍で一気に変化が加速しました。はたして現代人はどのような死者儀礼へと行きつくのか。目が離せない思いです。
――『日本宗教のクセ』p149
釈先生がお話しくださったように、『日本宗教のクセ』で一貫して語られたのは、「宗教的成熟をみんなで目指そう」というメッセージでした。そのために、私たちの日常に埋め込まれている、日本宗教のクセの叡智に、直感的に気づいていく、そのセンスを磨いていくためのヒントが満載です。この機会にぜひ、お手に取ってみていただけたら嬉しいです。
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