第169回
いよいよ本日『RITA MAGAZINE』公式発売!
2024.02.22更新
いよいよ本日、『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』が公式発売となりました!
東京工業大学の未来の人類研究センターで、利他研究会が発足してから4年。
「利他」という言葉も、利他研究会が議論し研究している内容も、クリアカットに指し示すことが難しい。でもそこに、今の私たちにとって、とても大切なことが、宿っている。
それをどうにかして文字に残し、たくさんの方に届けられないか、という試行錯誤の結果、ミシマ社でも出したことがない、新たな読みものが、生まれました。
本日のミシマガでは、未来の人類研究センターのセンター長で、本書の編集メンバーの伊藤亜紗さんによる「まえがき」を公開します。
執筆者の皆さまは、各ジャンルの専門家の方々でもありますが、ここで語られ、書かれている内容は、日々の暮らしや仕事と、地続きです。ぜひお手に取っていただけたら嬉しいです。
(編集部)
まえがき
店なのに、ただめしを食わす。
せっかくの食糧を、あげてしまう。
急な客人を、歓待する。
利他はどこかとぼけた概念です。
誰かに強制されたわけでもないのに、ときに己の身の安定すらかえりみず、他人の利益になるような行動をしてしまう。事例をならべるだけで、「なんで?」と笑いがこみあげてくるような気さえします。
利他は、「生産性」や「合理化」といった、私たちがくらす社会の標準的なものさしからは、明らかにはずれた振る舞いです。競争における勝ち負けからも、コストやパフォーマンスの計算からも、利他は外れているように見えます。
では利他は、経済活動の外側に位置する、余剰のようなものなのでしょうか? 利他は、余裕のある人が行う、困っている人のための「ほどこし」なのでしょうか?
そうではない、と私は思います。
私は二〇二〇年から四年間にわたって、大学の仲間たちと、利他について研究をしてきました。その中で繰り返し実感してきたのは、利他という概念が、それについて考える者に「人間であること」を要求する、ということです。
たとえば、一〇〇人以上が集まる企業の研修に呼んでいただいて利他の話をしたとします。そうすると、こちらの意図を伝えきれず、ぽかんとされてしまうことが多々ある。一方、小さな町の集まりで同じ話をすると、お母さんのことを思い出して涙を流す人が現れたりする。これは人の違いというより、状況や文脈の違いが大きいでしょう。同じ人でも、研修の一環として聞いたときはピンとこなかったのに、町の集まりで聞くとピンとくる、ということがあるはずです。
一企業の社員であること。店の経営者であること。病院の医師であること。だれもが背負っているこうした「社会的な役割」をいったん脇においたときに初めて向き合えるのが、利他という概念なのかな、と感じています。「私は〇〇だから」という仮面をはずしたときにようやくその下に現れるもの、というか。
つまり、利他は、生産性や合理化の「外」にあるものではなく、むしろ「下」にあるものなのではないか。もし人間である私たちが、完全に個人的な存在で、自分の利益を最大化することしか考えていなかったら、社会などつくらないでしょう。利他的な関係がまずあって、社会が生まれ、そのうえに私たちが当たり前だと思っている制度や価値観が乗っかっている。利他は私たちの社会のあり方を、土台の部分から考え直すための道具です。
とぼけていながら、「〇〇である前に、人間として、おまえはどう振る舞うのか」と問うてくる。そう、それが利他という概念の空恐ろしいところなのです。
本書は、そんなとぼけていて空恐ろしい利他という概念のまわりで、私たちが数年にわたって考え、語り合ったこと、その集大成です。「私たち」とは、東京工業大学の未来の人類研究センターの歴代メンバーのこと。具体的にお名前をあげるならば、初代メンバー(二〇二〇~二〇二二)の中島岳志さん、若松英輔さん、磯﨑憲一郎さん、國分功一郎さん、二代目メンバー(二〇二一~二〇二三)の北村匡平さん、山崎太郎さん、木内久美子さん、そしてセンター長の私、伊藤亜紗です。
対話はメンバー内だけで行われたわけではなく、同じ東工大の理工系研究者や卒業生、さらには学外の研究者や実践家にも加わっていただきました。哲学、政治学、法学、芸術、宗教学、建築学、情報工学、生命工学、杜氏 、食堂の店主......それぞれの専門や現場は多岐にわたります。
「雑誌」という形態をとったのも、テーマが利他ならではの事情があります。
先に、利他とは「私は〇〇だから」という仮面をはずしたときにようやくその下に現れるもの、と書きました。同じことが研究にもいえて、従来の科学の手法である「定義」「測定」「標準化」といったことをしようとしたとたんに、利他はするりと指の間を逃れていってしまうのです。利他は具体的な行為や営みの中にしかないものであり、それ自体、科学への挑戦のような性格を持っています。
だからこそ、論文のように形式が優先されるフォーマットに画一的に思考を落とし込むことはせず、その思考が生まれた具体的な状況ごと、私たちの活動をスクラップブックのように束ねる形を採用しました。定義も法則も出てきませんが、「これってこういうことかな」と横に展開するような想像力で、本書の内容がみなさんの日々の生き方につながっていったら幸いです。
なお、本書の全体のコンセプトや章立ての作成は、初代利他プロジェクトリーダーの中島さんと二代目利他プロジェクトリーダーの北村さん、そして伊藤が担当しています。
サブタイトルの「テクノロジーに利他はあるのか?」についても一言。私たちの所属は東京工業大学ですので、つねにテクノロジーの問題が身近にあるのはたしかです。でもここでいうテクノロジーは、必ずしも狭義の「科学技術」には限定されません。本書では、AIやロボットのような文字どおり科学技術に関する話題も出てきますが、法律や料理なども含めた「つくること」一般、もっと言うと「つくることによって人を動かすこと」一般に関わる利他の問題が扱われています。
これがじつはとても難しい。なぜなら利他の最大の敵は、他者をコントロールすることだからです。しばしば利他は「善行」と混同されています。けれどもその善行が「自分の頭で考えた、相手にとってよいこと」であるかぎり、それは自分の正義を押し付けることになってしまう。私たちが大事にしたい利他は、受け取り手がよろこぶ利他です。それが利他かどうかを決めるのは、与える側の能動性や意図ではなく、受け取る側がそこに見出す価値です。
でも、すべてを受け手に委ねてしまうと、偶然を待つだけになってしまいます。それでは、社会が抱えるさまざまな問題に対して、利他という道具は何もできないことになってしまう。受け手の受け取り方そのものは設計するべきではないけれど、よき受け取りが発生しやすいような状況を設計することはできるのではないか。そのような状況を生み出すような、法律やロボット、食堂の形はつくれるのではないか。それが本書のサブタイトル「テクノロジーに利他はあるのか?」に込められた問いです。
心の問題ではなく、創造の連鎖としての利他。本書が「利他のつくり手」の手元を照らす一冊となれば幸いです。
伊藤亜紗
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