第176回
『中学生から知りたいパレスチナのこと』を発刊します
2024.07.19更新
2024年7月20日、『中学生から知りたいパレスチナのこと』がリアル書店先行発売となります。(*ネット書店を含むすべての書店での公式発刊日は7月26日)
本書は、今も進行するガザのジェノサイドを前に、三人の人文学者が、「歴史」の学び方・捉え方への痛烈な危機感を抱いて執筆した、新しい世界史=「生きるための世界史」の書です。
アラブ文学者の岡真理さん、ポーランド史を専門とする歴史学者の小山哲さん、ドイツ史や食と農の歴史を専門とする藤原辰史さんの対話から、パレスチナ――ヨーロッパ――日本をつなげる、これまで見過ごされてきた歴史観が立ち上がっていきます。
この本が、中学生から大人まであらゆる方にとって、パレスチナ問題の根源にある植民地主義とレイシズムが私たちの日常のなかで続いていることをもういちど知り、歴史に出会い直すきっかけとなりましたら幸いです。
発刊に際し、岡真理さんによる「はじめに」を全文公開いたします。
『中学生から知りたいパレスチナのこと』
はじめに
パレスチナ問題には、世界の――とりわけ近代ヨーロッパの500年の歴史の――諸矛盾が凝縮されています。
第二次世界大戦後のヨーロッパでは、ナチス・ドイツによるジェノサイドを生き延びたユダヤ人25万人が、行く当てなく難民となっていました。このユダヤ人難民問題解決のため、国連総会は1947年11月、パレスチナを分割し、そこに「ユダヤ国家」をつくることを決議します。総会に先立ってこの分割案を検討したアドホック委員会が、パレスチナ人住民の大多数の意思を無視した、違法で、政治的に不正な、実現不可能な案だと断じたその案が、総会にかけられ、賛成多数で可決されてしまったのです。
分割決議の直後から、「ユダヤ国家」建設を企図するシオニストにより、パレスチナの民族浄化がはじまります。占領、集団虐殺、レイプ、強制追放......。その結果、パレスチナ人75万人が故郷を追われ難民となりました。国連は25万人のユダヤ人難民問題を解決しようとして、75万人のパレスチナ人を難民にしてしまったのです。こうしてパレスチナ人を民族浄化した土地に「ユダヤ国家」を掲げるイスラエルが建国されました。世界は、ナチス・ドイツによるユダヤ人のジェノサイドという犯罪の尻拭いを、それとはなんの関係もないパレスチナ人に代償を支払わせることで図ったのでした。国連は、以後76年経っても解決しない紛争の種を自ら蒔き、その不正は今や、ガザにおけるジェノサイドという事態に至っています。
イスラエルによるガザのジェノサイドは、世界注視のなか8カ月が過ぎてなおつづいています。230万の住民のうち200万人が家を追われ、住宅の6割が破壊されました。死者は37000人超。人為的につくり出された飢餓で住民の半分が壊滅的飢餓に瀕し、体力のない病人や老人、乳幼児が、飢えや渇きや暑熱や感染症で次々に亡くなっています。2007年以来封鎖がつづくガザは「世界最大の野外監獄」と呼ばれてきましたが、今や絶滅収容所にほかなりません。
人間が大量に殺されているだけではありません。ガザの歴史は紀元前2000年までさかのぼります。ユーゴ内戦で民族共生の歴史を証言する図書館がまっさきに攻撃され破壊されたように、地中海世界で人類の諸文明の歴史を重層的に紡いできたガザの、その歴史の記録や記憶の場――歴史的なモスクや教会、博物館、図書館、文化センター、その他もろもろ――が狙われ、瓦礫にされています。ガザを歴史的真空地帯にすることで、そこに生きてきた者たちから、自分たちがその土地、その歴史に根差す「パレスチナ人」であるという歴史性、政治的主体性を剝奪することが目的です。「パレスチナ人」という歴史的・政治的存在そのものを地上から消し去ろうとしているのです。
これが今、ガザで起きていることです。
この間、これまで私たちの目から隠されていたさまざまなことがあらわになりました。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスなど、自由と民主主義を掲げ、ロシアや中国の侵略や人権侵害を声高に非難する国々が、自国において、イスラエルによるジェノサイドを批判し、その民族浄化や占領やアパルトヘイトの廃絶を求める市民や学生を、「反ユダヤ主義」だとして弾圧しています。
とりわけドイツはこれまで、自国の加害の歴史を反省する国として、日本がモデルにすべき存在とみなされていました。しかし、今回の事態が明らかにしたのは、ドイツが反省したのはユダヤ人に対するジェノサイドであって、反ユダヤ主義の根底にあるレイシズムや植民地主義の歴史そのものが反省されたわけではないという事実です。むしろドイツでは、ユダヤ人のジェノサイドは人類未曽有の犯罪と位置付けられて絶対化され、特権化され、西ドイツ、そして統一後のドイツは、その人類未曽有の犯罪に対する反省の証として、犠牲者であるユダヤ人の祖国と称するイスラエルを支援し擁護しつづけることで、ナチスによるユダヤ人のジェノサイドのもうひとつの犠牲者であるパレスチナ人に対してこの間ずっと、さらなる犠牲を強いてきたのでした。
ユダヤ人のジェノサイドという出来事についても、私たちの認識は一面的です。ホロコーストは一般的に、アウシュヴィッツ=ビルケナウに代表される絶滅収容所におけるベルトコンベヤ式のシステマティックな殺害というイメージがもたれています。しかし、イスラエル出身の歴史家のオメル・バルトフによる東欧研究は、そうした理解がホロコーストという出来事の片面にすぎないことを明らかにしています(Omer Bartov, "Genocide, the Holocaust and Israel-Palestine" 。日本語版は橋本伸也訳『ホロコーストとジェノサイド――ガリツィアの記憶からパレスチナの語りへ』岩波書店、2024年12月出版予定)。本書第Ⅲ部の鼎談で触れるように、それまで数世紀にわたりさまざまな民族がともに暮らすのが常態であった東欧地域において生起した、排他的で自民族中心的なエスノナショナリズムと民族浄化の暴力のなかで、シオニズムは生まれました。日本ではつとに鶴見太郎さんが専門的にご研究されていることですが(鶴見太郎『ロシア・シオニズムの想像力』『イスラエルの起源』ほか)、バルトフの著書からわかるのは、東欧地域におけるユダヤ人の民族浄化とシオニストによるパレスチナの民族浄化は、歴史の地脈でつながっているということです。
本書では、こうした問題意識から、中東欧史を専門とする小山哲さん、ドイツ史を専門とする藤原辰史さんとともに、今パレスチナで起きているジェノサイドの暴力について考えていきます。
ガザ、そしてパレスチナをめぐる問題は、ユダヤ人のジェノサイドが宗教対立でないのと同じように宗教対立の問題でもなければ、ヴェトナムやアイルランド、アルジェリアの独立の問題が単なる土地争いでないのと同様、土地をめぐる争いでもありません。私たちの歴史的無知や忘却につけこんで、ガザのジェノサイド、そしてパレスチナの民族浄化を、宗教対立や土地争い、あるいは「イスラームのテロ組織」対イスラエルの「自衛」の戦争に還元しようとする言説に抗して、私たちは問題の根源をしっかりと見据えなければいけない。そのために私たちが今、必要としているのは、私たちの知をかたちづくってきた西洋中心主義的で、かつ地域ごとに分断された歴史に代わる新しい世界史、近代500年の歴史を通してグローバルに形成された「歴史の地脈」によって、私たちが生きるこの現代世界を理解するための「グローバル・ヒストリー」であるということです。
本書はそのためのささやかな第一歩です。
2024年6月15日
岡真理