第189回
松村圭一郎さん推薦文「答えを出すのではなく、踏みとどまるために」
2025.02.19更新
2024年12月に刊行された『青い星、此処で僕らは何をしようか』は、同年同日に生まれたミュージシャンの後藤正文さんと歴史学者の藤原辰史さんによる共著です。
ふたりは自分たちの生まれた日の新聞を読み、そこから見えてきた「ゴミ」「公害」「選挙制度」「消費社会」といった今も続く現代の問題について、どう向き合っていくのかを共に探っていきます。同時代を生きる私たちにとって、これからの生き方・抗い方を考える手がかりとなる、小さくたしかな希望が宿った一冊です。
本書を読んだ人類学者の松村圭一郎さんから、コメントをいただきました。
『うしろめたさの人類学』や『くらしのアナキズム』の著者であり、後藤さん・藤原さんと同世代である松村さんは、どんなことを思われたのでしょうか。
『青い星、此処で僕らは何をしようか』
松村圭一郎さん推薦文
「答えを出すのではなく、踏みとどまるために」
●遠くを見る、長いスパンで考える
『青い星、此処で僕らは何をしようか』、おもしろかったです。
昨年、ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台13』で「三十年後」という特集が組まれて、私も取材を受けましたが、そこでお話ししたことともリンクしていると感じました(『ちゃぶ台13』巻頭インタビュー「日本の最先端は周防大島にあり」)。
情報があふれかえる時代だからこそ、目の前のことに即座に反応するのではなく、遠くを見て、長いスパンで物事を捉える。未来について考えるためにも、現在と過去をしっかりと見つめる。そういうやり方が、今とても大切なのではないかと私は考えています。戦争や、選挙の結果などのニュースに触れることは重要ですが、それによって右往左往して「船酔い」のような状態になってしまっては、元も子もないですよね。
後藤さんと藤原さんがされたように、「私たちはどういう過去をたどって今ここにいるのか」と「私たちはこれからどこに向かっていくのか」ということを、あわせて見ていかなければならないと思うんです。
松村圭一郎さん
●自分の主観を問いにする
『青い星~』を読みながら、おふたりの言葉でハッとしたことがたくさんありました。
たとえば、後藤さんがあるファミレスに行ったら、注文の方法が無意味に煩雑だった。注文番号を紙に書いて店員さんに渡し、その紙を店員さんがその場で読み上げて確認しながら端末に打ち込むというやり方で、しかも、わざわざそうやって注文したものがいくら待っても出てこない。「あれほど確認したのに出てこないというのはどうか」と店員さんに伝えても、「はぁ...」みたいなリアクションしか返ってこない。
ふつうだったら怒って終わってもいいところなのに、ここで後藤さんはぐるぐると考えるんです。そして、自分自身への批判に向かっていくんですね。
気味が悪いのは、たかだか一〇〇〇円でチキンを焼いたおいしいランチが食べられると思って、それを間違えられたくらいで店員に怒ることができる自分の消費者感覚なんですよね。それを批判しないと成り立たない。すごく複雑な問題で、この店員さんだけが怒られて済む問題じゃないんじゃないかと思う。そのチキンもたとえばブラジルから来たのかもしれない。「こんな低価格で出せる? この料理」という。
(『青い星~』55-56頁、後藤正文さんの言葉)
後藤さんのこのスタンスは、人類学に通じるところがあると思いました。
人類学は「主観」を大事にする学問です。自分の主観を信じるということではなく、主観そのもの、自分の感情や思考そのものを問いの対象にする。『うしろめたさの人類学』でも書きましたが、たとえば私は、エチオピアにはじめて調査に行って物乞いの人と対面したとき、うしろめたさを感じました。こういうときに「なぜ自分はうしろめたいのだろう」と、感じたことそれ自体を考える手がかりにしていくんですね。
いま大学で授業をしていると、学生から「日本という国をこれからも成り立たせるためには、伝統文化を守らないといけないと思います」という素朴な意見を聞くことがよくあります。でも、「伝統」と思われているものって、実はそこまで根拠のないものがたくさんある。
学生たちに「じゃあ、日本の伝統文化って何ですか?」と聞いてみると、「着物」や「畳」や「寿司」などが挙がります。「畳っていつから敷きはじめたと思う?」と聞くと、ほとんどの人が知らない。調べてみると、明治以前、庶民の家に畳の間があるのはめずらしかったんです。西日本は板の間、東日本は土間がほとんどだった。近代以前からフローリングが一般的だったんです。
柳田国男なども書いていますが、畳は「たたむ」ものだったから「たたみ」だった。畳をたたまずに敷き詰めていたのは、江戸城の大広間みたいなごく限られたところで、庶民はそんなことはしていなかったし、中世の武士の館にもなかった。だから、日本の住宅で畳の間が減って、フローリングが増えているのは、もとの伝統的な形にもどっているとも言える。でも、今の小学校の教科書には和室と洋室の違いが紹介されていて、「和室は畳、洋室はフローリング」と固定化されている。
寿司についても、日本各地でいわゆる「寿司」として食べられてきたのは、発酵させた「なれ寿司」が一般的でした。江戸前の刺身の寿司は新鮮な魚が獲れる土地でしか手に入らなくて、それでさえ酢漬けとか、しょうゆ漬けとか、ひと手間かけてやっと食べられるようにしていた。庶民が広く生魚を食べられるようになったのは、戦後、冷蔵庫や冷蔵車が普及してからです。つまり、江戸の末期に一部ではじまった比較的新しい文化が、戦後のコールドチェーンの発達とともに広がって、今の寿司になった。
「伝統文化」はあるときに「つくられる」もので、かつては例外的・局地的だったものが日本を代表する文化として捉えられるようになることがよくあるんですね。
そこで人類学は、「私はこれを伝統文化だと思う」とか、「これが廃れると日本という国がなくなるんじゃないかと感じてしまう」といった考え自体を考察対象にする。その意味で、主観を大事にする。だからこそ、主観をもった、身体のある存在として現地に行くフィールドワークという方法が重要になります。
『青い星~』を読んで、後藤さんたちも、自分が現場に立ったときに思ってしまうこと自体をつねに問いにされているのだなと感じました。
『青い星、此処で僕らは何をしようか』帯文
●選挙とアフリカの王権
それから、「有権者と消費者はちがう」という指摘も印象的でした。
選挙の投票率が低いままというのも、もう圧倒的に当事者だと思っていないからなんですよね。(...)僕は、政治家は、たとえばコンビニとかファミレスを選ぶような気持ちで選んじゃいけないと思うんです。自分にとって一番思いどおりのサービスを提供してくれる人を探すとか、これだけの対価を払っているんだから早く料理を持ってこい、みたいな消費的な態度で政治家のことを測っていると、「私に合うお店がなくて自炊するので、そもそも投票に行きません」となってしまう。そうなると、投票に行く集団のところに力が集まって、権力自体が偏っていきますよね。
(『青い星~』104-105頁、後藤正文さんの言葉)
メニューを開いて「これください」と頼んで、美味しくなかったら「まずい」とコメントする。そんな消費者的態度で投票をするのではなく、当事者として、たとえばどう政治家を育てていくか、といった視点をもっていかなければならないと私も思っています。
この後藤さんの言葉を受けて、藤原さんも主権者としての当事者意識を持つことの難しさを語られています。
私たちは、被害者意識はすごく強く持てるけれども、加害者意識を持つことはすごく難しいと。もし私たちが政治について、主権者として権利を行使しているという意識を持つのであれば、私たちはすでに悪いことをしているというか。(...)つまり責任が発生しているわけですね。
(『青い星~』105頁、藤原辰史さんの言葉)
藤原さんは、「戦後責任」という言葉を引きながら、「戦争の記憶、あるいはその後遺症で苦しんでいる人たちと向き合う責任は、たぶん戦後生まれの人たちもあるはず」と言います。今の世の中では、他人任せでクレームばかり言う、消費者的な態度が蔓延している。藤原さんは「消費が、ある意味生き方になってしまった」とも語っていて、消費社会は「脱政治社会」でもあると言います。
また少し人類学の話をすると、人類学者のデヴィッド・グレーバーとマーシャル・サーリンズが『On Kings(王権について)』という本で、アフリカには王国がたくさん存在してきたけど、いわゆる「国家」とは違って、むしろ国家的な支配関係が固定化しないようにする仕組みがあったという議論をしています。
国の安泰を担う王様は、身勝手な行動をとろうとすると、すぐに民衆に反乱を起こされたり殺されたりしてきました。たとえば「雨の首長」がいて、旱魃でみんなが死んでしまわないように雨を降らせる祈祷をする。それでもずっと雨が降らなければ、民が首長を殺しにいくんです。雨を降らせるためにあなたの存在価値があるのだ、と。それに対して、首長のほうも重武装して反撃したりするのですが、役割を果たす限りにおいて首長という政治的役職が意味をもつ、というのは示唆的です。
首長や王は民に育てられ、支えられ、役割を果たせなければ引きずりおろされる存在だったんです。「王国」のような政治形態でも、あくまで主体は「民」のほうにあった。たしかに首長や王は祖先の霊と交信できるような特殊な能力を持つとされるけれど、たとえば即位儀礼のときには、年長者や家臣たちからめちゃくちゃ指導されるんですね。そして、うまくいかなかったり、変なことしたりすればおろされる。主従関係としては、王権を持っていても王は「従」で、民が「主」だった。人びとはサービスの提供を待っているような受け身の存在ではなかった、ということですね。
もちろんこういう例は、今、国家がある状態を生きる私たちにとって現実的な選択肢を示してるわけではありません。じゃあなぜ、人類学はそんな地平線の向こう側みたいな話をあえてするのかというと、過去を賛美するとか、そっちに戻ればいいとかいう話ではまったくなく、自分たちのすべきことを考えるときにどういう別の可能性があるかを探っていく、ひとつの足場にするということですね。アフリカの王権について知ることも、現代の消費的な投票のあり方を批判するきっかけになると思います。
●踏みとどまるための言葉
長いスパンで考える、とくりかえし言ってきましたが、すぐに答えを求めることには危うさがあるのだと思います。安易な「答え」に流されず「踏みとどまるための言葉」が今、必要なのではないかと。『青い星~』にはそのための言葉がたくさんありました。
明日の選挙の投票率に影響を与えようとして発言をするのではなく、時代を超えて生き抜く言葉を書いていかないといけない、と後藤さんは書いています。「そういう射程で僕たちも書き抜かなきゃいけない。今日明日のヒットチャートで一喜一憂しちゃいけない」(122頁)と。そうした言葉を探っていきたいと、私も思っています。
(終)
『青い星、此処で僕らは何をしようか』、今この時代を生きるたくさんの方々にお手にとっていただけたらと願っています。
また現在、後藤正文さんと藤原辰史さんが本書について語り合った音声を配信中です!
2025年1月29日(水)に開催した『青い星、此処で僕らは何をしようか』刊行記念イベントの音声を、「ミシマ社ラジオ」有料版にて配信中です。
本書で語り足りなかったことや、発刊からひと月半が経ち、あらためて発見したこと、さらには、この時代をともに生きる人たちへ、二人がどうしても伝えたいこと・・・、互いに信頼を寄せ合う関係だからこそ語れることを、縦横無尽にお話しいただきました。
チケットが発売直後に完売し、大好評だったトークを、ぜひ本とあわせてお楽しみください。