第3回
さんしょ
2018.06.04更新
京都のどまんなか育ちで、顔もまあるくておちょぼ口、あと額の形も良い。
「ね、舞妓さんになったほうが稼げたんじゃないの」
わたしは過去に二度言われたことがある。しかもそれぞれ、そのとき好きだった男性にだ。まじでむかつく。自分が好意を寄せている男性に言われてしまったことが悔しいのだ。だって今あなたの目の前にいる"わたし"を批判されているような気分になったからだ。わたしは女優になることを選び、東京に出てきて、あなた方に会えたというのに。
「京都に住んでたとき舞妓になりたいなんて思ったこと一度もないわ」
と相手に吐いた(まぁこれも二度ということになる)。
心をひっかかれるところがあるから相手が気になる。嫌いになるわけではない。わたしの好きになるひとに共通していることは、すこし意地悪な性格であること(ん、なんと小っ恥ずかしいことを文字に起こしているのか)。しかし底意地の悪いひとは話が違ってくる。長く一緒にいると不快になるだろう。
女性もぽやんとしたひとより、すこし意地悪なひとが好きだ。すこし意地悪というのは、そのひとの見方を持っていることの現れであるとも言える。8年前に撮影現場で出会った二つ年上のチョコねえは、他にいた同世代の女の子とは違ってどこか屈折した部分があり、同調は苦手そうだったから興味を抱いた。でも相手の話を聞くことのできる柔らかいひとだ。その奥にある芯が硬いから、チョコねえとの会話には噛みごたえを感じる。
「さおりんの思う京都らしさってなに?」
(さおりんとチョコねえは呼んでくれています。これも文字に起こすと小っ恥ずかしいことの一つですが、8年前からなので・・・)
東京で京都見つけた(/る)の文章を書きはじめて間もなかったわたしは、あまりにタイムリーなチョコねえの問いにたじろいだ。ちょ、丁度見つめなおしているところだったの!
「〜らしい」を言い表すことはむつかしい。わたしの思う京都は、育ててくれた父や祖母のしつけと語ること、彼らの価値観から成る生活習慣の影響が色濃い。だから他のおうちのことを聞いたり、京都出身の人の書いた本を読んだりすると、へ〜そうなんや〜と知ることがまだまだ沢山ある。と、ここまで書いて、
わたしはわたしの京都人的態度を自覚する。へ〜そうなんや〜という軽いタッチの感動、自分の外にある甚大な事物へのあっさりした諦念は自然と取ってしまう態度なのだ。わたしは友だちとのおしゃべりは好きだが、どれだけ話を聞いたとしてもヘタに飲み込まれたくないという思いが腹の底にある。わずかにひそむピリリ。これがある種、冷たいと言われても仕方のない側面かもしれないが、わたしの他者に対する愛情は「よそさんはよそさん」(=ひとはひと、わたしはわたし)と考えることであり、相手もわたしも尊重するように臨むことだ。
わが父は人生の節目節目で「好きにしたらええ」と言ってくれた。それ以上につけ足される言葉はない。己の好きによる裁量はずーっと"わたし"との勝負となる。甘えも厳しさも自分次第というのは実のところ棘の道ではなかろうか。優しさと突き放しが同時に与えられてきた中で、わたしの京都らしさは醸成されたようだ。舞妓にはならへんけどな。
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