第9回
しょうよう
2018.12.04更新
東京で京都を見つける話だったんだ、そういえば。
わたしにとって京都って何かしらと考えはじめたら、わたしの自意識を育んだ場所だとわかり、自意識を探りだしたら、当初のテーマから随分離れた地点へ歩みをすすめていたことにはたと気がついた。おっとっと。
毎年手帳を一冊買い、買った一冊目の手帳の書きあじがしっくりこないと二冊目を買ってしまうほど、手帳に記すことは癖になっている。起きたことややりたいことなどすぐに忘れてしまうからか(それとも手帳に記すと満足し覚えようとはしないのか)まめに書く。書いていると頭の中が整理されていくようで、思ってもみなかったことに気がつくこともある。ある日の思いの断片も余白のいたるところに散らばっている。
"東京にいると欲望を捏造される心地
京都にいると過剰を抑制される心地
もはやどちらの生粋にもなりたくはない"
「ゆりかもめ」に登場した菊さんとはメールや手紙をやりとりする間柄だ。頻度は表現できない。野道で疾風が通るような、枯れた小葉が知らぬ間に髪に一枚ついていたかのような偶の気配。そんな存在がわたしにはいる。菊さんが普段どんな暮らしをしているか事細かには知らず、生きているのだろうかと漠然と思うこともある。
初冬の手紙の末文に「穏やかな日々を」と書いてくれたことがあった。撮影や稽古がなければ大きく移動することもなく、わたしの日々の過ごし方はなだらかだが、心がまるいわけではない。穏やかな日々はすでにこの手にある気がするがあてどない。無用の散歩に出てしまうのも、心は動いていたいからか。