第36回
たび
2024.04.09更新
わたしは三つの名字を経験している。生まれた家の名字、10代のとき芸名としていただいた名字、結婚して得た名字。現在の芸名は「早織」という名前のみなので、俳優の仕事の現場ではおおむね「早織さん」と呼ばれる。わたしは名前で呼ばれるのが好きだ。正直なところ、三つの名字どれにも強い愛着がない。
「早織」は芸名ではなく、ほんとうにわたしの名で、父が命名した。どんなことも器用に、すみやかにできるようになってほしくて、「早」という漢字を用いたと父は言っていたが、それに逆らうかのように鈍く育った。ゆっくり考えたいし、「早く」と急かされることが嫌いだ。
「△△さん」
と呼ばれて、自分を呼ばれたことに気がつかないことがある。
いま、京都で、「環境負荷の小さい方法でつくられた野菜や果物などを販売している会社」で働いている。俳優の仕事が途切れずにずっとあれば良いが、今年はそういうふうには進んでおらず、空いている時間アルバイトをしている。ここでは結婚して得た名字「△△さん」と呼ばれていて、「△△です。よろしくお願いします」と挨拶すると、普通のようでなんだか得体の知れない人物を演じているかのような気持ちになる。それは名字と自意識がぴったりと張りついていないからだろう。
もともとこの会社の野菜をわたしは買っていてファンだった。ファンが会社に潜入してみたところ、社長が明るく、人事の方が親切で、働いている方々の挨拶がいきいきとしている場所だった。好きなものにぐっと近づくと思いがけず嫌な面を見てしまうこともあるが、今のところ幻滅した点は見当たらない(すごいことだ)。俳優の仕事をしていることを伝えても奇異に扱わず、「いろんな野菜があるように、いろんな人がいるから」と採用してくださったことに深く感謝している。
わたしは出荷部門のアルバイトで、全国の小規模農家さんから届いた野菜を検品したり、その野菜を個人や小売店に配送するための仕分けをしたりしている。これはわかってもらえることかどうかわからないが、わたしはどうやら身体を動かして、自分のよく知らない世界で人と関わって、感情の変化を味わうことを求めているようだ。いや、こうやって書きたくなるようなことを探しにかかっているのかもしれない。
何度も審査を重ねる演劇のオーディションが東京であり、そのために半月以上休み、復帰したこともある。ほとんどの作業を教えてくれて、鈍いわたしにもいらいらすることのない(ように見える)契約社員のなむさんと久しぶりに顔を合わせたとき、
「辞めてなかったわ」と冗談を言った。
なむさんはたしか10歳ほど年下で、出荷の作業場に流してくれる音楽とラジオ番組の選定がおつで、気を許してしまっている。
「東京行ってたんすか。何か収穫ありました?」
「あかんかったーー奮闘はしたんですけど」
(実際、最後の6人にまでは残っていた。惜しかったことが余計に悔しかった)
「まあ次ですね。人生は旅と言いますしね」
巷でよく耳にする、耳にしてきた「人生は旅」という言い回しが、角のないまろやかな声で返ってきて可笑しかった。
次か。ないかもなあとも思うし、次があると信じた方が楽しく張りがあるので、次があるとも思っている。そして常にいつ死ぬかわからないと思っている(昔からだ)ので、出荷場に届く心をこめてつくられた野菜たちに丁寧に触れる。当座、旅を続けられている。
編集部からのお知らせ
映画『走れない人の走り方』に早織さんが出演
今月、早織さん出演の映画が公開となります!
『走れない人の走り方』
★4月26日(金)よりテアトル新宿で公開
監督は、台湾出身の新人女性監督 蘇鈺淳(ス・ユチュン)さん。
5月下旬より、大阪のシネマート心斎橋や、神奈川の横浜シネマリンでも公開予定です。どうぞお楽しみに!
《公式HPより》
「やれない。やれない。だからやってく。
新鋭・蘇鈺淳監督×主演・山本奈衣瑠
切実さとユーモアが融合した、映画にまつわるロードムービー」
PFFアワード2021審査員特別賞(『豚とふたりのコインランドリー』)の蘇鈺淳(スーユチュン)監督による初長編作品『走れない人の走り方』。新人映画監督として葛藤する主人公・キリコ役に、モデルとしての活動だけでなく『猫は逃げた』以降俳優としての活躍も目覚ましい山本奈衣瑠。プロデューサー役に『辻占恋慕』などの早織、カメラマン役に磯田龍生、キリコの同居人役にBEBE、助監督役に服部竜三郎など多彩なキャストが脇を固めているほか、キリコの映画に出演する俳優役として五十嵐諒、荒木知佳、村上由規乃、キリコの父親役に谷仲恵輔、そして蘇監督の恩師でもある諏訪敦彦がチャーミングな役どころで出演を果たしている。2023年3月に実施されたユーロスペースでの修了展での上映が全回満席となるなど好評を博し、2024年3月に開催される第19回大阪アジアン映画祭 インディ・フォーラム部門への出品も決定した本作。悩みながらも理想の映画を追い求め、奔走する主人公はもちろん、映画に関わるあらゆる登場人物たちの切実さとおかしみが切り取られた一編となっている。