第7回
あらゆる命が常に仏法を語っている
2022.01.16更新
期間を決める
最近、なにかに日にちをかけて取り組みたい時に、「マイ接心(せっしん)」という言葉で、自分自身に語りかけることがあります。接心というのは、他のことをやらずに、期間を決めて、集中的に坐禅に取り組むことです。
坐禅ではなくて、もっと日常的なことでも「この期間は、これを集中的にやってみよう」、あるいは「この期間はこれを集中的にやめてみよう」ということを、期間を決めて取り組むのは、わりとおすすめです。「まず1日だけ」と決めると、なぜかその1日がなかなかできなかったりしますが、あらかじめ1週間、1カ月と決めてしまうと、目の前の「1日」が小さく見えて、すっとできてしまうことも多いようです。
例えば、それが「休むこと」であったとしても、少し期間を決めて「続けてみる」ことも大事です。最初はちょっと手応えがなくても、続けているうちにその感触が変わってくることもあるようです。
仏教の様々な"身体"
今日は、仏教の「仏身(ぶっしん)」について、少しお話ししてみようと思います。「仏の身体」のことです。身体といっても普段、僕たちの感じている身体とは少し違う意味合いがあります。
仏教の「仏の身体」について考えることは、専門用語の羅列のようにみえて、「かつて生きた人々が、どのように真理と向き合おうとしてきたか」ということを考えるきっかけになりますし、今を生きる僕たちにとっても、ヒントがあるように思います。
まず釈尊(しゃくそん、おシャカさん、ブッダのこと)が亡くなった後、ブッダその人の現実の身体を「色身(しきしん)」と呼び、説いた教え(法、ダルマ)を「法身(ほっしん)」と呼んで、区別しました。生身のブッダは消滅したけれど、教えであるダルマは、真理なので「ここにある」不滅の身体としたわけです。「教え」を身体と呼ぶことが面白いですね。
それぐらい頭だけではなく、身体全体で受けとっていたということであり、受け止めなければならないというメッセージもあったのでしょう。
つづいて仏教の歴史の流れの中で大乗仏教がおこり、様々な思想、議論がおこり、たくさんの「仏の身体」の理論が提唱されます。例えば代表的なところでは、「三身(さんじん)」という仏の3種類の身体を説き、「法身(ほっしん)」、「応身(おうじん)」、「報身(ほうじん)」と分類しています。この法身は、先程と同じ「仏の説いた教えである真理そのもの」です。
応身は、ブッダに代表されるようにこの現実世界に現れて、人々に教えを説く身体。そして報身とは、輪廻しながら修行を続け、その結果として滅することのない身体をもった仏であり、いわゆる「阿弥陀如来」などもそうです。「おシャカさまから、どうやって"仏様"につながるの?」という疑問を時々、投げかけられますが、こういった流れがあります。この三身説も、ここに紹介したものだけではなく様々なバージョンがあります。
僕の修行している密教の仏身観
ここで僕の修行している「密教」の話になります。今までの仏教では、歴史上の生身の人物であるおシャカさんは、もちろん説法をしますが、「真理そのもの」の教えである法身は、説法をしないと考えてきました。普通そう思いますよね。
しかし密教では、この法身が説法をして、僕たちに常に語りかけているという立場をとります。これを「法身説法(ほっしんせっぽう)」といいます。僕は、この「法身説法」の思想が、日本人の信仰や神仏習合にとっても、深い影響を与えたり、補助線を引くことになったと感じています。
その話をするために四種法身という密教の4種類の「法身」についても、みていきましょう。
それが「自性法身(じしょうほっしん)、受用法身(じゅゆうほっしん)、変化法身(へんげほっしん)、等流法身(とうるほっしん)」です。1つ目の自性法身は、法身のありのままの姿で、時間空間を持たず、透明で無音の状態です。2つ目の受用法身は、先ほどの自性法身が、ある意味で完全性を解いて、具体性を帯びた時に出現する、滅することのない仏身で、如来などがこれにあたります。3つ目の変化法身は、法身が歴史上の人物として世に現れた存在で、釈尊や宗祖などがこれにあたり、時間も空間も存在します。このあたりは先ほどの三身とも近い意味ですね。
4つ目の「等流法身」が密教の特徴をよくあらわしています。
これは法身が、僕たちの身近なところで、近くにいる普通の人や動植物の姿となって常に仏法を説いている、という「時に相手と同じ姿になって説く」仏身なのです。
この等流法身は、ありのままの姿もまた「真実」を常に体現しているという僕たち日本人の心象風景や身体的な感触に太い繋がりがあり、密教と日本人が互いに影響を与えながら、培ってきたものの根底にあるものだと感じます。
日本人が元々持っていた古い神道などとも、密教が敵対するのではなく、今に至るまで共存してきた大きな思想的源流にもなっています。そして自然や人が仏法を体現しているならば、その法身は常に法を説いていることになり、密教の「法身説法」の思想も、当然のように持ち上がってくるわけです。
空海は、残した様々な言葉の中で、「この大自然こそが経典の文字であり真実を説いている」という意味のことを、様々な表現で繰り返し述べています。それは密教が机の上のみで考えられたものではなく、この生(なま)の自然やあらゆる生命が発していることこそに真実があることの表現です。
長々とした用語解説のようになってしまいましたが、この仏教や密教の持つ「仏身」のことを胸に置いていると、自分たちが特定の宗教を信仰しているという自覚がなくても、ふとした時に感じる「聖なる」感覚が、長い連なりをもって育まれてきたという感覚を得ることがあるでしょう。それは、僕たちが生きて、死んでいこうとする中で、とても大切な感覚であると思います。
死者に出会う
今日は少し用語解説のような回になってしまったかもしれません。でもとても大事なところだと思います。最後に、僧侶として「死」の場面に身をおいている者としてお話ししたいと思います。
お通夜、葬儀など儀式を終えた後に、集まった人を前にして話すことが多いです。その際に「どのような話をするか」ということは、本当に難しいです。
「死者の言葉をわかったように話すことは、なによりも避けなければならない」「しかし死者がここにいたら、どんな言葉を語りたいか全身で耳を澄ませたい」。その相反する思いが、駆け巡ります。20年間その役割に触れてきて、その結果、常にお伝えしようとしたことは、「今、悲しいのは当然だと思う。でも残された人が、その後、少しでも笑顔でいられることが多かったならば、それがうれしい」ということだったような気がします。ですから、仏教の思想や考え方と共にいろんな表現でそのことをお伝えしてきました。
僕が葬儀でお会いする方は、ごく少数の方です。ですので、もしこの文章を読んだ方で、近しい方の死に触れた方がおられるとしたら、僕の言葉とは違うと思うのですが、死者がこの場にいたとしたら、発したい言葉に耳を澄ませてみるのはどうかと思います。なるべく「わかったような」気持ちを避けながら。それは、今、私たちが感じている悲しみとは、少しだけ感触が違うことがあります。
そしてその無言の会話は、とても豊かな交流だと思いますし、今日、長々とお話ししてきた、「あらゆるものが常に真実の聖なる言葉を発している」ということとも、やはり太く繋がっている話だと感じています。