46歳で父になった社会学者

第26回

失敗

2020.12.05更新

お知らせ
この連載に加筆修正を加え、本になりました。ぜひ書籍でもご覧ください。

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『46歳で父になった社会学者』工藤保則(著)

 息子のじゅんが2歳の時、友人ふたりとともに編者となって『<オトコの育児>の社会学』(ミネルヴァ書房、2016年)という本を出した。大学の「子ども社会学」や「現代社会論」といった授業で使える教科書を目指すとともに、育児する日々の中で感じたことや考えたことを問いかけたいと思って企画を立て、2年かけてつくった本である。

 その本の「はしがき」に書いたことの一部を引く。

母親が担わされる子育ては、量だけでなく質も求められる。子が何かトラブルを起こすと、なによりも母親の責任が問われる。女性も外で働くようになってきた現在でもそれは変わらない。同じ親でありながらこの差は歴然としており、しばしば夫婦関係の亀裂を招くだけでなく、子どもにとって望ましくない状況につながることもある。

ただ、そんなオトコも夫婦が「いい関係」であることを願っているし、自分が変わらなければならないことにはうすうす気づいている。温度差はあるにせよ、子育てに「協力」しようとするオトコは増えつつある。ところが、長く子育てするオトコは想定されていなかったこともあり、大半のオトコは子育てについての覚悟も備えも持ち合わせていない。結果として、母親(妻)から言われるままに「お手伝い」する程度のことしかできない。それで母親の負担は若干軽減されるかもしれないが、母親が置かれている抑圧的状況は変わることがない。

この不均衡な関係を改めるには、戒めや反省だけでは十分でない。必要なのは、子育て場面で顕在化する夫婦間の溝にオトコが「気づき」「行動」することである。子育てにまつわる困難にあまりにも鈍感すぎたオトコたちを刺激しよう。オトコの変化は「協力」にとどまらない子育てのあり方と、より伸びやかな夫婦のかたちを創出していくだろう。

 妻とともに子育てをしていくなかで、育児においては男性と女性は同じ景色を見ていないのではないか、同じ世界に生きていないのではないか、と自責の念も込めて強く感じたことが、『<オトコの育児>の社会学』を出すきっかけだった。

 本が出た後、いろいろな反応があった。

 知人(男性)から「いい本だと思うけど・・・、何か嘘っぽいな。ダメな話とか失敗談とかはないの?」と聞かれた。おそらく同じ意図で、私の育児を「立派すぎるなぁ。まねできないなぁ(笑)」という人もいた。何事においても平凡な私に対して、立派という言葉が使われるなんて、とびっくりした。

 私は自分の育児を立派だとは露ほども思っていない(そもそも育児に対して「立派」という言葉を使うことに違和感を覚える)。しかし、失敗談として披露すれば他人から笑いを伴った「共感」を得られそうな話は思いうかばなかった。そういうと、今度は女性から「育児はたいへんなことなのに、『失敗が思いうかばない』なんてのんきすぎる。奥さんの苦労がうかがわれる」といわれそうだ。

 実際、私はのんきで楽天的なところがあるので、「失敗が思いうかばない」というのが私だけの思い込みだといけないと思い、妻に尋ねてみた。すると、「できないことはいろいろあったけど、失敗という失敗はないね」という返事をもらい、安心した。

 あらゆることに不器用な私は、ほんとうにできないことばかりだった。そういう意味では、最初のうちは、毎日、失敗していたといってもいいかもしれない。

第5回 ケア」でも書いたが、おむつ替えでは、替える前に下に新しいおむつを敷くのをよく忘れた。

「あー、下におむつを敷くのを忘れてた。すいませんが、ちょっと、もってきてください」

「もー、なんで忘れるんかいな。はい」

「すいませんね。慌ててて・・・」

 お風呂入れも、慣れるまでたいへんだった。背中を洗うために裏返すのがこわくてなかなかできなかった。

「じゅんくん、お風呂、入れてくれる?」

「緊張するなー。うまく、できるかなー」

「緊張してんの?」

「だって、裏返すのがうまくできないしー。お湯の中に落としそうで」

「裏返すときは、手伝うから」

「すいません。お願いします」

 ひとりでできるはずのことなのに、妻の手を借りていた。

 ミルクに関してもしかりである。

「あー、じゅんくん、なかなか飲んでくれないなー」

「哺乳瓶の角度がよくないんちゃう」

「角度?」

「飲みやすい角度にしてあげないと」

「そうなん?」

「今まで、気にしてなかったん?」

「・・・・・・」

 どれもそんなに難しいことではない。というか、誰でもできる簡単なことだろう。でも最初は、悲しくなるくらいにできなかった。じゅんに泣かれることも多かった。しかし、うまくいかなくても毎日やりつづけることで、だんだんとできるようになっていった。そうした経験を積み重ねていくうちに、たいていのことはできるようになった。いつの間にか、妻よりも上手にできるようになったこともあった。

 私の育児は「自分はこんなこともできないのか」「こんなこともわからないのか」という率直な驚き、そしてそれができるようになっていく、わかるようになっていくことへの素直なよろこびの連続である。

 失敗談なのかどうかわからないが、私の中で大きな位置を占める出来事がある。それは、じゅんが1歳2カ月の時だった。

 その日は日曜日で、妻は朝から外出していて、私はひとりでじゅんの世話をしていた。午前中は一緒に遊び、11時半くらいにお昼ご飯を食べさせたら、じゅんは12時過ぎから昼寝をし始めた。いつも2時間くらいは寝てくれる。子どもの昼寝時間は、親にとって束の間の休息時間である。私は冷たい飲み物で一息入れたいと思い、冷蔵庫をあけてみたが、あいにく、それらしきものは見つからなかった。「近くのコンビニに飲み物を買いにいこうか」と思ったが、じゅんをひとりにするわけにはと躊躇した。けれども、じゅんが昼寝をしている時に別の部屋で仕事をすることはあったし、「ぐっすり寝ているから大丈夫だろう」と、コンビニに行くことにした。もちろん、窓はあいていないか、危ないものは近くにはないか、とじゅんが寝ている部屋の状態を十分に確かめたうえで、である。

 そっと玄関ドアをあけ、急いで飲み物を買って、5分後に戻ってきた。

 玄関ドアに近づいた時、家の中からじゅんの泣き声が聞こえた。

「パーパ、パーパ」

 慌ててドアを開けた。

「パーパー、パーパー」

 玄関先でじゅんが叫んでいた。

 じゅんの声は、それまで聞いたなかで一番大きなものだった。私の気配がなくなったことに気づいて目を覚まし、ハイハイしながら探したのだろう。そして、家の中のどこにもいないことがわかり、私を求めてドアに向かって叫んでいたのだろう。

 真っ赤になって泣いているじゅんを見て、私はじゅんをここまで不安にさせたことをこころから反省し、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「じゅんくん、ごめんね。ひとりにして、ごめんね」

 だっこしてそういうと、あんなに泣き叫んでいたじゅんはすぐに泣きやんだ。

「パーーパ」

 ほっとした表情でそういうと、にっこり笑ってくれた。その顔と声は忘れられない。

 それからは、じゅんを不安な気持ちにさせないということが、常に私の頭の中にある。

 先に「失敗談なのかどうかわからないが」と書いたが、これこそ私にとっての一番大きな失敗談である。だが、それは、知人が私に求めていたものとは質が異なるかもしれない。

 男性は同性に育児の失敗談を求めがちである。一方、女性は同性に育児の苦労話を求めがちだ。男性はこぞって失敗談を披露して「自分も同じようなことがあった」と笑いあい、女性は競うように苦労話を披露して「おたがいたいへんね」と慰めあう。一見対照的にみえるが、つきつめれば、根は同じように思う。イクメンという言葉は定着したが、実際に夫婦で協力して家事・育児をすることはまだ多くない。ほんの少しの「手伝い」をするだけで持ち上げられる男性に対して、女性が受ける「圧力」は桁違いに強い。男性は開き直りあるいは自己弁護のために失敗談を語り、女性は諦めから苦労話をするのではないだろうか。

 私と妻は協力して家事・育児をしている。それがあたりまえのことだと思ってきたから、「立派すぎる」といわれると違和感を覚える。妻はもともと体力がなく、出産後は体調を崩している期間が長かった。そのため、ふたりで協力しないと家がまわっていかなかった。もし私が大きな失敗をしでかしたら、それはそのまま妻の大きな負担になってしまう。笑い話には決してならないのだ。

 男性の失敗話/女性の苦労話ではない、育児の語られ方がもっとあっていいはずだ。

工藤 保則

工藤 保則
(くどう・やすのり)

1967年、徳島県生まれ。龍谷大学教授。専門は文化社会学。著書に『中高生の社会化とネットワーク』(ミネルヴァ書房)、『カワイイ社会・学』(第25回橋本峰雄賞。関西学院大学出版会)、『46歳で父になった社会学者』(ミシマ社)、共編著に『無印都市の社会学』(法律文化社)、『<オトコの育児>の社会学』(ミネルヴァ書房)、『基礎ゼミ 社会学』(世界思想社)などがある。好きなものは、落語、散歩、リクオ(シンガーソングライター)、「0655」(テレビ番組)。現在、8歳の息子と4歳の娘の子育てまっただ中。

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