第31回
工藤保則×松村圭一郎 社会学者と人類学者が子育てをとおして考えたこと(後編)
2021.06.21更新
今年3月に発刊となった、工藤保則さんによる子育てをめぐるエッセイ『46歳で父になった社会学者』。45歳で結婚、46歳で父になった工藤さんが、共働きで子育てをするなかで感じたこと、手探りであゆんだ日々を綴った本です。
「育児エッセイですが、誰にとっても多くの気づきがある一冊だと思います。(簑島ほなみさん・蔦屋書店海老名市立中央図書館)」「自分の経験と重ねて胸がいっぱいになり、涙が溢れて文字が見えなくなる本(40代読者の声)」など、読んだ方からの静かな反響の声が広がっています。
発刊後の4月16日にオンライン配信・MSLive!でおこなった、文化人類学者・松村圭一郎さんとの対談の模様をお届けします。3児の父である松村さんと、2児の父である工藤さんの対話は、子育てへの共感から社会への問題、生きて死ぬことまで、本書を軸にいろんな話題をめぐりました。(前編はこちら)
(構成・新居未希)
人が生まれることと人が亡くなるということの連続線
松村 104歳のおじいさんをみんなで看取ってお別れする話が、この本の一つの山場だと思います。人が生まれることと亡くなることの、連続線みたいなものが本の中で引かれている。そこは単なる子育ての本ではない感じがしたんです。あらゆる人が誰かの子としてこの世に生まれてきたことの確認というか。親も育てるだけの人間ではなくて、かつてどこかで誰かに育てられた存在であり、そのかつての親や祖父母を見送って、今度は自分が育てる側に回るというような・・・そういう命のつながりって普遍的ですよね。人類がずっとやってきた、普遍的な生と死の重なり合い。本で書かれていた「法事と子どもは相性がいい」というのも、本当におっしゃる通り明言だと思いました(笑)。
工藤 子どもがいてくれることによって、104歳のじいちゃんと2歳の子どもを繋げる空気の塊ができたように思いました。それは家族や親族だからということではなく、もっと異なる繋がりみたいなものがその場に生まれていました。なんか、いいもんだなあと思ったんですね。関係性でいうと、うちの子どもと私の亡くなった母親のいとことか、もう何親等かわかりません(笑)。でも、おなじ空気の塊の中に存在してるんだなぁと感じましたね。
松村 親戚づきあいって、とくに必要ないといえば必要ないんですよね。法事とかそういう冠婚葬祭で顔合わせるぐらいで。でも、そこで子ども同士が同い年ぐらいだと自然と遊び始めるといったことで繋がる。子どもが仲介になって疎遠な人たちが交わるようなことが起こるわけですね。
三度目の緊急事態宣言の前にタイミングを見計らって、熊本の実家に久しぶりに帰ったんです。そしたら、実家にある仏壇の向こう側に、みんな入ってるんですよ。祖母も、父の兄弟も、おばさんも・・・父も、二年前に亡くしたんですけど、気がついたら仏壇に写真がいっぱい並んでて。みんなあっち側にいっちゃったな、と。でもその仏壇の前で新たに生まれてきた子どもたちが手を合わせている。生と死の重なり合いの中に私たちは生きていることが、そのときすごく目の前にある感じがしました。みんなそうやって親として、子として、育て、育てられてきたんだな、と。そもそも、子どもを育てるって正解がわからないじゃないですか。
工藤 本当にそう。わからないことだらけですよね。
松村 何が正しいのかわからないし、どうやっていいかわからない。自分も親としては反省してばかりですが、仏壇の前で、なんかずっとみんなでつないできた綱をちょっと一時期もっているだけなんだというか、いま託されてるんだという感覚をもちました。
工藤 仏壇のなかには見たことない人がいっぱいいますが、その人たちがちょっとずつ綱を繋いでいって、私も今たまたまここにいるんだなと思います。歳をとってから子どもができて、一時、綱を預かって、それをまた子どもにちょっと繋ぐ、という仕事だなって。それは「自分がやった」と誇るようなものではなくて。たまたまその係をやっているというだけだな、という気がしますね。
残るのは記録やぞ
松村 誰もが最初から親なわけではありません。そんなときに、こうして子どもたちの記録を残してくれていると、自分自身を振り返ることができるし、そこからすこし先のことを別の角度から見られるような気がするんです。人類学者としては、ちゃんと自分でやるべきだったんでしょうけれど、なかなか工藤さんみたいにできなくて。子育ての日々の記録を、工藤さんは毎年一冊の本にまとめられているんですよね。今日、無理いって持ってきていただいたんですが。
工藤 そうですね、2013年にこういう厚さから始まって・・・
(左 工藤保則さん /右 松村圭一郎さん)
松村 うわぁ、すごい! ぶ厚いですねー。
工藤 はじめはほぼ、うんち、おしっこ、体温というような記録です。でも今となっては、「一日何回うんちした」「ミルクを何cc飲んだ」というようなことは、絶対に覚えていないんですよね。そういうことが、記録があることによってわかる。あとは、子どもが大きくなったら読んでもらおうと書いた手紙などが入っています。はじめは博士論文くらいの厚さでした。最新のものは、保育園で描いた絵なども入っているので、もうほんとうにすごい厚さになっていて、持つのもたいへんなんです(笑)。
松村 貴重なデータベースですよね。
工藤 私が大学院生のとき、文化人類学の先生に「工藤くんな、残るのは記録やぞ。記録はな、残してたら誰かが何かに使ってくれるんや。だから変に考えるのはいらんわ。それは賢い人がやってくれるやろ」と言われて(笑)。そういうことを最近、ほんと何十年かぶりに思い出したんです。ああそうか、その言葉と繋がってるな、と。たとえ何かに使えなかったとしても、記録だけとっておくということにも、意味があるのかなと思いますね。
子どもが20歳や30歳にもなってすることではないと思うので、状況によって変わってくるにせよ、今のことをできるだけ残して、本人にいずれ渡したいなと思っています。本人は嫌がるかもしれませんが(笑)。
(息子さんの成長を1年ごとにまとめた自製本)
松村 工藤さんの奥さんが「子どもが、人生でなにか辛いことがあったときに、自分の人生が辛いものであるはずがないと思えるようなものを残してあげたい」とおっしゃったのが本を作るきっかけだと、本に書かれていましたね。むっちゃいい言葉ですよね。
工藤 なるほどな、と思いました。妻も私も本が好きなので、じゃあこういう本があったら、もしも辛いことがあったとき、ああ自分はこういうふうに育ててもらったんだ、愛情をかけて育ててもらったんだなと確認してもらえたりもするのかな、と。毎年作業はたいへんなんですけど、作れるかぎりは、作ろうと思っています。
松村 工藤さんの記録を読みながら、自分のなかの忘れていた感覚が蘇ってくるんですよ。奥にしまいこまれていた記憶の引きだしが、本を読みながら引き出されていく。(うんちを出すために)お尻に綿棒を入れてくるくるするとか、つい最近も10カ月の三女にやったんですが、なんか忘れているんですよ。一人目のときにもやったような気がするけど、あっという間にそういう記憶は薄れて消えていってしまう。「こういうときはこうしたほうがいい」というようなハウツー本も必要かもしれないけれど、この本はもう一度、子育てをしているそのときどきの自分の感情を思い出していくというか、生まれる前に感じていたような気持ちを感じなおすことでもう一度、目の前の子どもに向き合うというか、家族の過去と現在と未来をつなぎなおしていくような本だなと思いました。
(終)
工藤保則(くどう・やすのり)
1967 年、徳島県生まれ。龍谷大学教授。専門は文化社会学。自分のことや身のまわりのことから、社会・文化について研究。著書に『中高生の社会化とネットワーク』(ミネルヴァ書房)、『カワイイ社会・学』(関西学院大学出版会/第25回橋本峰雄賞受賞)、共編著に『無印都市の社会学』(法律文化社)、『〈オトコの育児〉の社会学』(ミネルヴァ書房)など。
松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)
1975年、熊本県生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社/第72回毎日出版文化賞特別賞受賞)、『これからの大学』、『はみだしの人類学』、『文化人類学の思考法』(共編著)など。