相変わらず ほんのちょっと当事者

第10回

健康的ってむずかしい(後編)

2022.12.16更新

【お知らせ】この連載から本が生まれました

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『元気じゃないけど、悪くない』
青山ゆみこ(著)

本連載を再構成し、大幅に加筆を加えた一冊です。
「わたしの心と身体」の変化をめぐる、
物語のようなノンフィクションであり、ケアの実践書。
お手にとっていただけたら嬉しいです。(2024年3月20日刊行)

(「健康的ってむずかしい 中編」はこちら)

 30年、お酒を人生の主軸に生きてきたわたしにまず訪れたのは、「禁酒ハイ」だった。
 3日、4日、1週間、2週間・・・「飲んでない」というだけで、なにか大きなことを成し遂げたような達成感で、「酒を止めている自分」にうっとり酔っているみたいな。
 パーソナルトレーニングにチャレンジしている2カ月の間は、「今だけの我慢」だと思うからテンションを保てたのだと思う。

 折しも、この2カ月は大きくイレギュラーな状況があった。
 トレーニングが始まってすぐの頃、夫が怪我をして手術入院したのだ。そのせいで、わたしは突如一人暮らし状態になった。パーソナルトレーニング期間中ずっと。
 同居する家族がいると、食事内容も食べるタイミングも自分ひとりの思い通りにいかないものだが、わたしは、何時に起きて、なにを食べ、どんなふうに一日を過ごすか。まったくすべてを自分のためだけに決められた。
 食生活を思い切って変えられたのには、そんな背景もあった。

 いわば非日常のスペシャルな状況下。
「飲まない」ことへのチャレンジで、わたしはいい感じに気がぴんぴん張っていた。健康への意識が爆上がりして、思い通りに試すことができる。やるっきゃない、と。
 だらだら飲んでぐずぐず夜更かししていた夜も、ヘルシーな食事を摂って映画の1本でも見たら、好きな入浴剤をぽんと入れたお風呂にゆっくり浸かる。身体の芯がほこほこしているあいだにとっとと布団に入り就寝。
 夜明け前には目を覚まし、静かな朝の澄んだ空気のなかで読む本は心にしみじみ言葉が届いてくる。澄み切った頭で原稿を書いて一段落してもまだ10時とかそんな時間だ。天気がいい日はスニーカーをはいてさくさくとウォーキングに出かけて、きれいな空気を肺一杯に吸い込む。
 はあ〜〜〜〜〜。気持ちいい。
 できすぎくらいに「正しい生活」ではないか。
 自分でも、以前の「のんだくれゆみこ」と同じ人間とは思えなかった。

 禁酒当初、当惑したこともある。夜時間の過ごし方は難問だった。
 飲まない晩ごはんはあっという間に終わるし、そのあとの夜はめちゃくちゃ長い・・・。
 スパークリングウォーターをグラスに注ぎ、飲むモノだけ変えて気分をごまかしたり、ちょっと高級なハーブティーを試したり。
 ただ、最初は新鮮でも、どれもすぐに飽きてしまうし、お酒の代わりになりそうなものを探すのはまあまあ面倒だった。
 お酒は飽きないよなあ。
 というか、飽きるとか、そんな感覚を麻痺させて、惰性で飲ませてくださるのがアルコール。手っ取り早いのに、それなりの満足が得られる飲みもの。それがお酒なのだ。
 お酒ってすごいなあ、改めて感心した。

 夫のリハビリは経過良好で予定通りに退院し、わたしのパーソナルトレーニングも順調に終了。2カ月で体重は8kg減、体脂肪率は9%減(なかなかの変化ですよね)。
 特に背中に張りついていた肉布団が2枚は剥がれ落ちたような軽さがあり、慢性的に強ばっていた肩から腕、肩甲骨まわりといった上半身がしなやかによく動く。
 目指していた数値、身体感覚を得られたことが嬉しかった。ユースケせんせのおかげだ。
 でもなんだろう。達成感や喜びとは裏腹に、短期間で急激に変化した身体と、30年慣れ親しんだ行動パターンとは異なる「正しい生活」を送る自分に、言葉でうまくいえない違和感があった。どこか自分が自分じゃないみたいな・・・。

 食の好みはわかりやすく変わった。
 大好物だった酒のアテ的な珍味の類いはしょっぱくて食べられず、ご飯のおかずとしか見えなくなった。
 晩ごはんのオードブルに夫が用意してくれたスモークサーモンも、白ワインなしだと、ただの鮭の薄切りにしか思えない。あんなに好きだったのに(夫も戸惑っていた)。
 いわゆるマリアージュ、食べものと飲みものの相性ってある。
 お酒との相性が関係するのは食べものだけではなかった。耳から聞く音楽も、映像を目にする映画も、体内にアルコールが入っているときと素面では、感じ方が異なった。
 例えば、わたしは酔うとタランティーノの『ジャッキー・ブラウン』や、ヴィム・ベンダースの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が見たくなり、もう何十回と繰り返しDVDを再生してきたのだが、素面ではまるでその世界に入り込めなかった。
 別の作品を見ればいいだけだが、自分が「好き」だと疑いもしなかったものへの「熱」が冷めるような、まるで強い恋心が消えてしまったような。

 長年親しんできた「のんだくれゆみこ」と、新たな「ノンアルコールゆみこ」のそんな趣味、嗜好の違いが、小さくあちこちで引っかかってきた。
 思ってたのと、違う。あれ??? という感じで。
 自分のことは誰よりも自分が知っている。そう信じていた足もとが崩れていくように、わたしは自分に対する自信をなくしていった。

 また、自分が人生でもっとも情熱も時間もお金も注いできた「飲む」時間がなくなった所在なさも、想像以上にキツかった。
 現役を引退したスポーツ選手の気持ちはこんなだろうか。比べるのも失礼かもしれないが(すみません)。
 大事にしていたものが人生からごそっと抜け落ちたような空虚。
 友達や夫、猫と過ごしてきた時間とともにあったお酒は、わたしの人生の一部だったと同時に、ろくでもない悪いもの。憎むべき存在でもあった。
 そのことを正しい顔をした「ノンアルコールゆみこ」が突きつけてくるたびに、負の感情を抱き自罰的になる。まあまあ辛い。
 日常の時間としても、心にも、ぽかっと穴が空いたようで、その穴を埋めてくるのは次から次へと現れる不安だった。
 わたしはさまざまな変化に、ますます自信をなくしていたのだと思う。
 そのうち「わたしという存在はいったい・・・」、そんな答えの出るはずのない問いを立てることが止められなくなり、閉じた思考のループに迷い込む時間が増えた。
 あふれ出る自己批判と反省。ぐるぐる思考のループ。よくないことはわかっていても、アルコールの抜けたクリアな頭が、考えることを止めてくれない。

 そんなある日、わたしの心は振り切れたのだろうか。身体までうまく動かなくなった。
 日常的な運動も、バランスを考えた食事もすべて投げ出して、ひたすらしんどい気持ちで布団にくるまって横になることしかできなくなった。
 寝ついたせいなのか、前に書いたフワフワめまいも始まった。
 それ以降、わたしはめまいが怖くてお酒を飲めなくなった。
 アルコールを体内に入れないという点では同じだが、意味がまったく違う。
「飲まない」ではなく、「飲めない」。
 まったく不本意ではあるが、これほどお酒を止める有効な状況もなかっただろう。
 不本意すぎて悔しい、それを通り越して、に、憎い・・・。

 だがしかし、もはやお酒どころではない。「強制終了」状態の「自分」を「再起動」しなくてはならないのだ。
 医師に「不安障害」と告げられて、引きこもっているわたしにできることは、寝転んだまま本を読むことだった。
 たまたま手に取った一冊が児童文学の名著、バーネットの『秘密の花園』。
 誰にも大切にされたことがなく、孤児となった「さみしさ」にも気づけない偏屈な少女メアリ。引き取られた叔父の屋敷で荒れ果てた庭を見つけた彼女は、一人で雑草を抜くことから始めて、次第に仲間を増やし、ついには美しい庭を作り上げることで、庭を、自分自身を再生する物語だ。
 児童文学は「保育」の観点も大きいからか、身体を動かすことが心の健康にもつながる。血行がよくなると機嫌もよくなる。そんなことが繰り返し描かれている。
 屋敷に閉じこもっていないで、外に出なさい。新鮮な空気を吸いなさい。
 少女が言われた言葉が、自分にも響いてきた。
 そんなことしかできない気がする。
 でも、そんなことならできるかもしれない。
 ごくごく当たり前の行動をする。生活をするってこと。
 朝起きる。顔を洗う。牛乳を買いにコンビニに歩いて行く。借りてる本を返しに図書館まで自転車を漕ぐ。鳴いてる猫にごはんをあげる。冷えた身体をお風呂で温める。
 目的をつくって、小さな行動をする。あまりに当たり前のことばかりだが、身体も心も鉛のように重たいわたしには、一つひとつが必死の冒険のような心持ちだった。できなくてもいい、できれば上等くらいの感じで。
 小さな小さな行動を積み重ねるような毎日が、1週間、ひと月、3カ月、半年と続いていくうちに、できることが少しずつ増えて、わたしは気づけばなんとか日常生活が送れるようになっていた。
 お酒のことは考えたくもなかったが、夫が飲む姿を毎晩目にするので、忘れることはできなかった。わたし自身はめまいが怖いし飲みたいとも思わないけれど、目にするといつも自分のどこかで、黒いモヤモヤが燻った。
 それはどうすることもできない重しのように感じられた。

 さておき、自分にできることは、やっぱり行動を、生活をすることだ。
 日常で「好き」「楽しい」と感じたものは、意識的に増やしていった。海を見に行く。雲の写真を撮るなんてささいなこと。
 なかでも、信頼する友人とたあいもない話をすることは、声を出すので肺が動くし(これも『秘密の花園』に書いてあった)、心身ともに胸のあたりがぽっと温かくなるよい感触があった。
 でも、しんどい気持ちになるたびに、友人に電話するのも申し訳ないなあ。スマホを握りしめて迷うことが多いある日、『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(まんが 水谷緑/解説 斎藤環)という対話の手法を紹介したコミックに出会った。
「オープンダイアローグ」とはフィンランドの精神医療の現場で生まれた手法だが、わかりやすいエピソードで紹介された漫画を読んでいると、自分の日常にも応用できそうな気がした。
 複数で集まって話す、聞く。基本はそれだけで、「人の話(体験)を否定しない」「結論を出さない」「アドバイスをしない」といったシンプルなルールさえ守れば、悪くないっぽい。

 やってみたくなって、4〜5人のチームで、月に1、2度集まることにした。話す内容は困りごとに限らず、その場でみんなで決める。特にテーマを決めずに、ただ、とりとめなく話す日もある。
 あるときわたしは、「自分が話をしたり仲間の話を聞いたりする」という「場」を継続して持つだけで、日常の小さなモヤモヤがいつの間にか流れていくようになっている自分に気がついた。
 なにかモヤっとすると、次にこの話を聞いてもらおうかなあ。そう考えるだけで、もう話を聞いてもらったような気がして、自分のなかにとどまらない。
 集まりの場でなにも起きなくても、ほかの時間にまで「話す」「聞く」が継続しているような不思議な影響が、日常の気分も行動も変えていく。
 ただのおしゃべり会のようでもあり、ときに共通の困りごとを話し合う自助グループのようでもあり、あるテーマを考察する勉強会でもあるし、本や映画など趣味の感想会のような時間でもある。
 話す内容はなんでもいい。約束をして会い続けるだけでいい。なによりただ一緒に過ごすことが安心を生むような集まりの「場」を、いろんな友人と継続して持ち、もう1年半以上になる。

 さて、お酒について。
 わたしのなかで負の感情が強すぎて、安心した集まりの場でさえ、自分から話題にすることはあまりなかったのだけれど、ふとしたときに、自分がかつて「飲まないとやってられない」気分になった、その原因に関連する出来事について、話が深まることがあった。
 そもそもわたしはなぜ、「飲まないとやってられない」と思い込んでいたのだろう。いや、疑うことなく信じていたのか。
 そのヒントも友人との「話す」「聞く」場で得ることが多かった。
 わたしの場合、飲みたくなる原因をダイレクトに究明しようとすれば、自罰感情が強まりすぎて耐えられない気持ちになるのだが、自分ではない誰かのエピソードとして、思ってもみなかった文脈で「似たような話」が心に触れてくると、少し離れたところから、遠回しになるからこそ、自分事として捉え直せることが多かった。
 そうしたなかで、あんなに知りたかった、狂おしく自問した「自分」が、ちらりと見える瞬間がある。そんなたびに、知らなかった自分の一面に初めて出会った気がした。
「飲まないとやってられない」現実も確かにあった。飲んでやり過ごさないとしんどいようなことだったのだと、誰に言われるでもなく自分をゆるせる気がするたびに、心の片隅にあった重しのようなものが少しずつ消えていった。
 そういえば、わたしが飲みに行くのが好きだった理由の一つは、「飲まないと話せないことがある」からだった。
 けれども、集まりの場では飲まなくてもいろんな話ができている。それは嬉しい驚きだった。
 飲んできた過去は変えられないけれど、これからはこうして、飲まずにやっていけるのだという自信も、集まりのたびに強く持てるようになった。
 また、お酒を介さずとも、自分が充分すぎるほど盛り上がれることも知った。

 お酒を止めて2年が過ぎた2022年秋のこと。
 その日は夫の誕生日で、ほんとうに久しぶりに二人で外食をした。
 わたしががんがん飲んでいた頃から行きつけのビストロで、夫はいつものように楽しそうにワインを飲んでいる。
 なぜだろう。無性においしそうに見えて羨ましくなり、わたしも思い切ってワインを注文した。きれいなグラスに注いでもらった少しいいワインを一口飲んで、あまりにおいしくて驚いた。
 ああ、おいしいお酒って、おいしいんだなあ。
 さらに驚いた。自分のなかに重しのように居座っていた、お酒に対する憎しみというか、抵抗感のようなものが消えていたからだ。
 ああ、わたしはお酒に囚われていないんだなあ。もう敵視しなくてもいいんだ。
 感動して涙が出そうになった。
 そしてなんだか頭がふらふらして、30年ぶりに思い出した。お酒が回ると、「酔う」ということを。

 親離れ、子離れという言葉があるが、わたしは飲酒行動を止めたものの、ほんとうの意味で「酒離れ」ができていなかったのではないだろうか。
 わたしにとってお酒は、困ったときに頼りがいのある兄貴であり、親密に寄り添ってくれる姉貴であり、どんなときにも駆けつけてくれる親友で、なぜかそばにいる腐れ縁の悪友のようでもあった。どこまでも自分の一部である気がしていた。
 でも、そんなお酒と離れて暮らしていたら、わたしとお酒は別の存在で、それぞれが独立した人生を生きているのだと納得できた。頭で理解する以上に、体験として。
 親離れ、子離れがそうであるように、酒離れにも、距離と時間が必要なのかもしれない。そのなかでさまざまな角度から捉え直して、本当に離れることができるのだろう。
 これからわたしとお酒は、また新しい関係で付き合うことになる。

 この2年でお酒を介さず親しくなった友人も増えたし、長年一緒に飲んできた友人ともお茶を飲んで楽しく過ごせている。いちばんの飲み友達だった夫とも、お酒なしでまあまあ機嫌良くやっている(本当に自分でも驚く)。
 その事実がなにより心強く、わたしを励ましてくれる。
 お互いの存在は変えられなくても、関わり方は変えられる。
 そして、自分のやり方を変えるのは難しいけれど、新しいやり方を始めることは、いくつになっても意外とできるように思う。
 始めてしまえばいいんだから。今日のたったいまのこの瞬間も、この先の自分にはいちばん新しい最初の一歩なのだ。
 なんて思うわたしって、ずいぶんと人間が丸くなったなあ。
 そういえば、パーソナルトレーニングでぎゅんぎゅんに絞ったはずなのに、2年経ってみれば身体、顔も丸く・・・あれれ。
 わたしって健康的なのだろうか。もうよくわからない。
 わからなさを保留にできるそんな自分は、とりあえず健康なんじゃないかな。

青山 ゆみこ

青山 ゆみこ
(あおやま・ゆみこ)

文筆・編集。神戸在住。猫が好き。「読む・書く」講座やオープンダイアローグをはじめ、さまざまな対話の手法を実践中。著書に、ホスピスの「食のケア」を取材した『人生最後のご馳走』(幻冬舎文庫)、エッセイ『ほんのちょっと当事者』(ミシマ社)。共著に『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房)、震災後の神戸の聞き書き集『BE KOBE』(ポプラ社)などがある。

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