鬼気迫るど忘れ書道

第11回

シャケの南蛮漬け~カーティス・メイフィールド

2021.11.06更新

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 もしこのスケッチブック(今「スケッチブック」をど忘れし、あわてて表紙を見た)が道端に落ちていたら、人は落とし主をどんな人物だと推測するであろうか。
 最右端に「シャケの南蛮漬け」とあるからお買い物メモかなと思いかねないが、なにしろ物がスケッチブックだし、筆ペンでわりと丁寧に書いてある。おまけにすぐ横がいきなり「ブロックチェーン」だ。いったいどこのどんなビットコイン所持者がわざわざメモを「シャケの南蛮漬け」などと始めるものか。
 そして自分でも呆れる他ないが、さらに横が「玉藻前」(※1)と来る。あとでこのへんのことは説明すると思うが、いわゆる古典芸能の基礎知識なのであり、そういった事柄までもが言葉としてずらずら並んでいるスケッチブックなど、交番に届けてもロクなことがあるまい。いずれにせよ書き手の頭の中は混乱しているのであり、ひょっとすると自分がそのスケッチブックを落としたこと自体を忘れてしまった可能性も少なくない。
 さてそういうわけでまず「シャケの南蛮漬け」から本日の言い訳をする。実はこの数年、俺は毎晩スマホのアプリにその日食べたものをメモり、カロリーだの栄養バランスだのをアニメのお姉さんに測定してもらって、適切なアドバイスをちょうだいしているのである。すでにこの連載に親しんでいる方ならわかると思うが、この寝る前の習慣が俺には非常に苦しい。
 ほとんど忘れているからである。
 「朝食」、わからない、なんだっけ。「昼食」はお菓子で済ませているが、どんなお菓子だったものか。そして最も近い時間帯に食べたはずの「夕食」がまたわからない。と、結局俺はパジャマ姿でスマホを持ったまま呆然と時を過ごす。そして時おり、あ、白い米を食ったな、ということはたぶん味噌汁が横にあるな、ぼんやりとその映像が浮かぶ気がしてきたが、果たしてメインはなんだった・・・あ、あれだ、魚のなんかモチャモチャっとした衣の、酸味の強いようなあれ・・・答えは「シャケの南蛮漬け」なのだが、ど忘れ派の俺にとってこんな難問はない。シャケひとつろくに思い出せない者が、名前の由来のよくわからない「南蛮漬け」を思い出せるはずがないからだ。
 南蛮といえば「蛮」などと失礼きわまりないが、かつてのスペイン、ポルトガルを指す。それは忘れない。思い出せる。ずっと進歩した文化の中にいたのに南蛮人などと言われた人々が、手術後のワンちゃんみたいなカラーの、しかも蛇腹になったようなものを首に付けている様子や、ふくらはぎにぴったり貼り付いたタイツ状のものを履いている姿もわりとはっきり浮かぶ。焼き物で何度も見ているわけだし、俺の場合印籠(※2)などにも興味があるから、そのジャンルに「南蛮人」があるから記憶にとどまりやすいのだろう。
 がしかし、彼らが「揚げた魚にネギなどを乗せ、酢に浸けている」様子が俺の脳みそから外に出てこない。揚げるという意味で「テンプラ」までが限界で、まさかそれを酢漬けにして骨まで溶かすなどとは。なにしろ調べれば「南蛮」自体は室町とか江戸初期の呼称なのであり、それほど長く日本に影響を与えた文化のかなり代表的なものが「南蛮漬け」であるとすれば、これは偉大なるスペイン、ポルトガルといった海洋帝国の名折れなのではないか。
 ああ、あとは「鴨南蛮」(※3)とかなのだが、この場合はもはや「ネギ」部分にしか意味が残っていない。日本では長くネギのことを「南蛮」と言いあらわしていると、もしもイベリア半島周辺の諸氏が知ったら目を丸くするだろう。反対に、「ジャパン」と言ったら「シソ」のことだとか「ミノムシ」のことだとか、そういう文化の特徴の最小化が起こっていたら、我々だってがっかりするに違いない。
 ええと、さっきからただの「南蛮トーク」になってしまっているが、そういうわけで俺はアプリの前で五分以上を過ごし、結果「酢」「魚」で検索してようやく真実を得たのであった。
 「ブロックチェーン」(※4)もよく忘れる。俺はみんな電力(※5)の協力を得て「いとうせいこう発電所」(※6)をマジに立ち上げている身で、ではなぜ彼ら「みん電」と組んでいるかの説明を求められた時、「ひとつにはブロックチェーン技術によって、発電量や送電量、それがどこにどのくらい運ばれたかを誰もが隠蔽なく即時に知ることが出来る」をきわめてクレバーに、立板に水の勢いで言ってみせたい。そして「ゆえに私のパートナーは彼らしかないのです」とバシッと締めたいものだ。
 だが出だしの「ブロックチェーン」から、もうたいてい出ない。そこ、一番肝心なとこなのにである。ビットコイン(※7)を成立させているのもこの技術だし、そもそも「情報公開性」にも「リアルタイムでの発送電の把握」にもたけている。これはエネルギー周辺のすべてを隠蔽しないという意味で革命的である。中央集権型から自律分散型へ、とかねがね俺が主張してきたことの核心がここにはある。
 が、しかし「ブロックチェーン」が出ないから、俺は目をきょろきょろさせて、仕方なく「トレーサビリティ」などと言う。追跡可能性。「生まれた電気がどこへどの量だけ行ったかがわかる」んです、と。そう言っておいてなんとか口の勢いで「ブロックチェーン」が出ないかと思う。だが出ない。出た試しがない。それでもやもやしたままインタビューを終える。もやもやは俺もインタビュアーも同じである。「ブロックチェーン」と言いさえすればすべては明瞭なのに、その言葉だけ俺はあえてのように抜かすから、かえって何か深い考えがあるかのように見える。ど忘れが長く続いているだけなのに。
 もう紙数が足りなくなっているので「玉藻前」は飛ばして、前にも近いところをかすった(※8)「ふすま営業」を説明しておく。もちろん俺の嫌いな失礼な言葉「枕営業」を、あまりに嫌いだからなのか、俺はまた言えなくなった。言えなくなったどころか、話が続く中で俺の頭に「ふすま営業」という言葉が何度となく浮かんだ。「枕」も「ふすま」も和室、それも寝室感のある単語だったが、意味は思いきりかけ離れていた。
 そもそも「ふすま営業」とはなんだ。ぎりぎりまで隠れていていきなり「ふすま」を開けて人を驚かすのか。あるいは開けたり閉めたりして姿の見えない実体が真ん中にあるような営業なのか。しかし、果たしてそんなことで契約が成立するものだろうか。
 しかも、何かが違うと思ううち、俺の脳の奥にはさらにもうひとつ「屏風営業」が出番を待っているのがわかった。少なくともそれは「ふすま営業」よりは派手で、どこかクジャクを連想させた。おそらく売りたい商品の利点を、何双かの屏風を広げることで強くアピールするはずだ。琳派(※9)だろうか、金の使い方が美しい。しかしそこまでして売りたい物はなんなのか。屏風が一番高いのではないのか。なにしろ脳裏には、国宝『花下遊楽図屏風』(※10)ばかりが浮かぶ。それをパタパタ動かして売るものといえば、当の『花下遊楽図屏風』以外に何かあるだろうか。
 俺はそんなこんなで、もはやまともな世界に生きている人材ではないな、と思う。ど忘れがひどいことで他人と生きている世界が異っているのである。
 例えば「ぴょんぴょん」でもそれはわかる。主治医の精神科医・星野概念(※11)のカウンセリング中に、俺は『SHOWROOM』(※12)というネットアプリのことを言いたかった。以前、星野くんとの対談でも使ったことのある、参加しに来た人がアバター(※13)状になってステージ前に集まるソフトである。ほとんどアイドルみたいな若者が使っていて、俺たちなどは門外漢な感じなのだが、むしろそれが面白い。
 それで「またあのアプリで雑談しようよ」と、患者の俺は言ったのである。すると星野くんも「ああ、いいですね。気楽にやれましたもんね」などと答える。「そうそう、あの、ほら、人がみんなさ、あの」と俺は早くも「アバター」という単語を忘れていた。なので両手の人さし指で上をさして、彼らアバターの基本的な動きをあらわし、その上でこう言った。
「あの、あいつらがぴょんぴょんでさ」
 もはや「アバター」のことを言いたいのか、『SHOWROOM』とアプリ名を言いたいのかわからなかった。とにかく参加者が楽しそうにはねているポジティブな雰囲気を俺は表現したかった。彼ら若者にはそういう場が必要なんじゃないかと考えたからだが、俺自身にはその病室が必要だった。正確に何かを言わなくていい部屋。
 そうでなければ俺はますます自信を失うだけだろう。言いたい言葉が出てこないと、つい思考も曖昧になって、感情的になりかねないのだけれど、それでものんびり生きていられる場をより多く確保したいものだ。
 大好きな「カーティス・メイフィールド」先生(※14)の名前さえ出ない俺の、それでも責められることのないスペース。『There's No Place Like America Today』(※15)と名盤のわりと長い名前もすらすら出るし、インプレッションズと彼のバンド名も間髪入れず出る。にもかかわらず肝心の「カーティス」という偉大な名前が出ない俺だって、自分を情けないとは思わずにただただその音楽の素晴らしさを語れる場。
 年寄る俺にはそういうものが今絶対に必要なのだ。


※1 玉藻前:たまものまえ。平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる伝説上の人物で、能の『殺生石』などで取り扱われる。
※2 印籠:日本で独自に進化した小型の携帯用の容器で、主に印判や常備薬を入れていたが、後に美術工芸品へと変容した。南蛮人が描かれた印籠もある。
※3 鴨南蛮:鴨肉とネギが入った蕎麦を指し、この場合、南蛮は「ネギ」を指す。
※4 ブロックチェーン:暗号技術を用いて、取引記録を分散的に処理・記録するデータベースの一種。
※5 みんな電力:株式会社UPDATERが営む再生可能エネルギー事業。家庭や法人に再生可能エネルギーを届けたり、発電応援サービスを行う。
※6 いとうせいこう発電所:福島に「いとうせいこう」と名付けた太陽光発電所をつくり、購入契約をした人に直接電気を届ける。利用者は電気購入と合わせて継続的にアーティストを支援できる仕組みになっている。
※7 ビットコイン:インターネット上で使用できる仮想通貨(暗号通貨)の一つ。法定通貨と交換することができ、支払いや送金に使うことができる。
※8 前にも近いところをかすった:本連載第6回では、「営業枕」から抜け出せなくなった。
※9 琳派:桃山時代後期から近代まで続いた造形芸術上の流派で、背景に金銀箔を用いるなどの特徴がある。
※10 花下遊楽図屏風:かかゆうらくずびょうぶ。江戸時代に狩野長信筆によって描かれた国宝の屏風。東京国立博物館所蔵。
※11 星野概念:著者の主治医で、著書に『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』がある。
※12 SHOWROOM:オンラインのライブ配信サービス。配信者が視聴者とコミュニケーションを楽しむ特徴がある。
※13 アバター:ゲームやネットの中で登場する自分自身の「分身」を表すキャラクターをのこと。
※14 カーティス・メイフィールド:アメリカのミュージシャン、作曲家。バンド、インプレッションズとして音楽活動をしたのち、ソロでも活動。
※15  There's No Place Lke America Today:1975年にリリースされたカーティス・メイフィールドのアルバム。 

いとう せいこう

いとう せいこう
(いとう・せいこう)

1961年生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、様々な分野で活躍。1988年、小説『ノーライフキング』(河出文庫)で作家デビュー。『ボタニカル・ライフ―植物生活―』(新潮文庫)で第15回講談社エッセイ賞受賞。『想像ラジオ』(河出文庫)で第35回野間文芸新人賞を受賞。近著に『ど忘れ書道』(ミシマ社)、『夢七日 夜を昼の國』(文藝春秋)、『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書)など。

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