第8回
たのしい自由研究
2020.08.03更新
高松市美術館前に設置した看板の中で暮らしている一週間の間に、地元の新聞記者が取材に来た。それが記事になった日から時々人が訪ねてくるようになった。好奇心の旺盛な人というのは本当にいるもので、新聞記事を見て美術館前まで来て看板を見つけ、ドアをノックする。僕は留守にしていることも多かったけど、在宅しているときには「はい」と言ってドアを開ける。そうしたら客人は「新聞で見たもので・・」と言う。僕は「そうですか、よかったら入ってください」と言って、看板内のギャラリースペースに通す(看板内はカーテンで寝室とギャラリースペースに仕切られている)。そこには僕が広告費を使って生活している様子がわかるもの(買った食べ物のレシートや、銭湯で使ったお金のメモ)や、近所で描いたドローイングなんかが貼ってある。客人はそれらをチラッと見た後「ここで住んでるんですか?」と聞く。僕は「はい。そうです。そういう作品です」という。「暑くないですか?」とか「眠れますか?」というお決まりの質問を浴び、客人から質問することがなくなった頃に僕は「ぜひ美術館でやっている展覧会も見てください」と宣伝する。するとその人は「そうですね。ありがとうございます」と言って去っていく。こんなやりとりでいいのかなと思いながら僕はそれを見送る。そんなやりとりを何度かするうちに、あることに気がついた。
広告の「外見」と「中身」がズレている
この看板の「外見」は展覧会の広告看板だけど、ドアを開けて一歩入ればそこにはその展覧会に出品している作品、つまり「中身」がある。この看板の外見は、その中身(つまり僕の生活)を広告によって表しているはずなのだけど、この「看板の外見」と「僕の生活という中身」は、実は全然関係がない。これは大変な発見である。
これは食べ物が一番わかりやすい。例えばGoogleの画像検索で「お菓子」と入れてみてほしい。検索結果としてお菓子のパッケージが並ぶ。このパッケージとお菓子本体も直接関係があるわけではない。ロゴとか袋の色とかキャッチコピーなどでお菓子のイメージが作られ、インクで箱に印刷されているだけだ。僕たちはそれを開けて食べるときでさえ、お菓子本体ではなく、そのイメージのほうを思い浮かべながら食べている。
僕たちは、と書いたけど、これは僕だけなのか? みんなはどうなんだろう。少なくとも僕は、例えばポッキーを食べるとき、あの赤い箱と金色のロゴ、そこに印刷されたポッキーの画像(薄茶色の枝の部分と黒いチョコレートの部分がきれいに分かれている)を食べているような気持ちで、本体を食べている。箱から取り出した本体を一本眺めながら、「俺はいまこれを食べている」と思って食べたりはしない。広告によって作られたポッキーのイメージを食べている。ポッキーがおいしいことは間違いない。でも僕が「ポッキーはおいしい」と考えるとき、頭に浮かぶのはあの棒状の細長いものではなく、あのイメージ画像だ。
ホットケーキミックスを使ってホットケーキを作る時も、あのパッケージに印刷されているイメージ、ふわふわのパンにとろっとしたメープルシロップが美味しそうにかけられているやつ、を期待して作り、自分のフライパン上に出来上がった実物との違いにいつも愕然とする。ぺったんこだし、メープルシロップはすぐにパンに染み込んでしまう。下手をしたら僕は目の前で染み込んだシロップを見て、「これはメープルシロップではない」なんて思ってしまいそうだ。目の前に実物があるのに。逆転している。
またドライアイスの製造メーカーのウェブサイトの「実用事例」のページなどには「ラーメンの撮影に使われました」とか「食品サンプルの撮影に使われました」というものがいくらでも出てくるし、本屋のカメラ本コーナーに行けば「料理を美味しく見せるレタッチ」みたいな本が何十冊も並んでいる。
広告はこのように加速する。イメージが現実から乖離していき、食べるときでさえ頭にはイメージが刻まれている。もはや実物だけ、を純粋な目でみることはできない。看板の中に住んでみて初めてこのことに気がついた。そして広告とその中身の関係について考えてみたいと思い、こんなリサーチを始めた。
僕の自由研究
見ればわかる通り、商品のイメージやパッケージの写真と実物を撮影した写真を並べている。これは今でも続けていて、これまで150枚くらい食べ物の写真を撮ってきた。ファストフードチェーン店から近所の蕎麦屋までリサーチしてみた結果、会社規模が大きいほど商品のイメージが美しく作られている傾向がある。ハンバーガーなんかは、大手チェーンであるほどイメージと本体が違うことが多いけれど、実物を意識して見ない限りそれにも気がつかない。鮮やかな緑色のレタスとトマトと焦げ目のついたビーフが挟まっている、分厚いハンバーガーを頭の中で想像しながら食べている。自分がこれから食べる目の前のものはほとんど見ていない。缶ジュースに至っては、中身が見えないようになっている。飲み物シリーズは特に面白い。見れば見るほど、本体とパッケージの距離が遠い。それでも、こうして並べて見るとパッケージの色味は本体と近いことがわかる(もちろん例外もたくさんある)。
僕はこのリサーチを通して「写真と実物が違うじゃないか!」みたいなつまらないことを言いたいわけではない。僕はすでにイメージを消費することからは逃げられない体になっていて、カフェに行く時も、服を買う時も、車を買う時も、頭の中には常にそれが付き纏っているので、どこまでが本体かなんて定義できない。ただしそれに慣れてしまって、イメージを食べていると思い込むのは良くない。この連載の第5回で書いたように、情報は食べられない。そもそも食べ物をイメージで表すこと自体が暴力的なことだ。
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド/草思社文庫)という本の中に、野生のアーモンドやとうもろこしを数千年かけて無毒化したり、果実を大きくしたりして栽培化してきた歴史が書かれているのだけど、その時間の積み重ねを想像すればわかるはずだ。これは食べ物の広告に限らず、日々流れてくるニュースや情報にも言える。あるイメージの直撃を受けたとき、それが作られたものであることを思い出し、これは暴力だと感じるようにならなければいけない。「イメージと現実は全く何の関係もない」くらいに思っておいたほうがいい。これはとても難しいのだけど。
「経済(economy)」のルーツ
広告には消費を喚起するという目的がある。お金を使わせて「経済」を無限に大きくするために作り出されたものだ。英語のeconomyを訳したのが「経済」という言葉だけど、3年前に行った「労働をつかむ」という僕の個展に文化人類学者の今福龍太さんを招いてお話をしてもらったとき、今福さんはeconomyのルーツについて話してくれた。
この言葉はもともとギリシャ語のオイコス(οἶκος)+ノモス(νόμος)であり、オイコスは「家」で、ノモスは「規範」を表す。つまりeconomyはもともと「家政術」を指す言葉であり、「貨幣術」ではなかった。もっというとアリストテレスは「経済」を「家政術」と「貨幣術」に分けて考えており、後者のほうは「資本を無限に肥やし続けたい」という、終わりのない欲望にとってかわられてしまうので貨幣術としての経済を否定し、「オイコノモス」つまり「家政術」が真の経済だと言っていたという。2000年以上も前に。「経済」がお金を扱うことだけを指すようになってから、お金を無限に増やすだけのゲームがはじまり、広告が力を持つことになった。
僕のアトリエから歩いて30分~1時間くらいのところに、個人商店の肉屋や豆腐屋やお茶屋や酒屋がある。ちょっと遠いので普段はあまり行けないけど(こういう店がもっと近くにあればいいのに)たまに、例えば肉屋に行っておじさんに「鳥もも肉300グラムください」と言うと「何に使うんだ?」と聞いてくれて、そこで「カレーです」と言うと、もも肉を一口サイズに切ってから渡してくれる。豆腐屋に行けば大抵おじさんが中でうとうとしていて、「すいません」と言って起こして豆腐を頼むと、油揚げをやたらサービスしてくれる。たぶん余っているんだろう。つまりこういうことがeconomyなのだとアリストテレスは言っている(のだと思う)。こういう場所で肉や豆腐を買うときに、広告が介入する余地はない。つまり現代の広告は「貨幣術」としてのeconomyの中にある。そんな「広告」が、「家政術」として考えるべき食べ物を無謀にも扱った結果が上のリサーチだ。だからこそ僕は広告看板の中で暮らし、そこで家政を営みたいと考えた。この気持ちがわかってもらえるだろうか。
(続く)
お知らせ
札幌及び名古屋で今年の冬~来年の春にかけて行う予定の「広告看板の家」のスポンサーを募集しています。個人でも、法人でも構いません。名前を出したくないという方は匿名でもかまいません。名乗り出てくれた方にはプロジェクト終了後に、制作した看板とドローイング一点を差し上げます。お金の集まりによっては東京でも実現させたいと思っています。日本の都市をもっと面白い場所にしたいと思っている方と共にプロジェクトを動かしたいです。どうかよろしくお願いします。
*2020/8/4追記
7月22日に記者発表があり、札幌国際芸術祭2020が中止となりました。芸術祭は中止になりましたが、「広告看板の家」プロジェクトは実施する予定です。芸術祭の事務局とも連携しつつ、僕は僕で個人協賛を集め、札幌と名古屋で実現させるべく動いています。