第11回
絵本編集者、担当作品本気レビュー⑤「夢を推奨しない絵本編集者が夢の絵本を作るまで」
2024.11.20更新
2024年11月18日、イラストレーターの三好愛さんによる初の絵本『ゆめがきました』をミシマ社より刊行しました。三好さんは、書籍の装画や挿画を多く手がけてこられた一方で、エッセイ集の著作もあり、ミシマガジンでも、絵と言葉の連載「犬のうんちとわかりあう」で毎月ご登場いただいています。そんな、絵でも言葉でも魅力を放ってこられた三好さんによる絵本。編集は、筒井大介さん、装丁は大島依提亜さんに担当いただきました。筒井さんとミシマ社で絵本をご一緒するのはこれで5冊目。『てがみがきたな きしししし』(網代幸介・作)、『よるにおばけと』(みなはむ・作)、『みんなたいぽ』(マヒトゥ・ザ・ピーポー・作/荒井良二・絵)、「ゆきのゆきちゃん』(きくちちき・作)と、どれも渾身の絵本たちがずらっとならんでおりますが、その絵本を刊行するたびに筒井さんに書いていただいているのがこの「絵本編集者、担当作品本気レビュー」です。編集者の視点で、作者のどんなところに惹かれて、どんなふうにやりとりをして、どうやって絵本をつくってきたのか、出来上がった絵本を手にして、どんなことを考えているのか。そういう生々しい、つくる人の言葉を、ぜひ届けたいなあと思いながらこのコーナーをつづけています。絵本と合わせてぜひ、じっくりと味わってみてください。(ミシマ社編集チーム・ノザキ)
夢を推奨しない絵本編集者
が夢の絵本を作るまで
筒井大介
三好さんってどんな作家?
三好愛さんは非常に特異な作家です。こんな人、他にいません。僕は三好さんの大ファンですが、この文章を書くにあたり改めて三好愛という作家について考えてみました。でも、なんだかよくわからないんですよね。とらえどころがなくて、言葉で説明しようとしてもするりと抜け落ちてしまうような感触を覚えます。そしてそれこそが、三好愛という作家の本質であるような気がするのです。
これを読んでいる皆さんの中には、三好さんの絵を見たことある人も多いと思います。不定形で曖昧な形の、つい「おばけのような」と言ってしまいたくなるけれど、そう言い切ってしまうのも違うような、どうにも説明しづらい生きものたち。描かれているそれぞれに、明確な性格付けがあるわけでもなさそうですし、なんだかわからない存在。でも不思議なことにそんな生きものたちを見ていると謎の安心感を覚えるのです。なんだろう、この感覚は。仕事柄、沢山の画家、イラストレーター、絵本作家の絵を見ますが、こういう絵を描く人を他に知りません。そして、三好さんはこの生きものたち一本で、商業イラストレーターとして活躍の場をどんどん広げていっています。どんな仕事にも、この生きものたちだけで挑む。それでどんどん仕事の幅を広げていく。これって実はとんでもなく凄いことだと思うのです。しつこいですが、こんな作家、他にはいません。尚且つ特殊なのは、絵だけでなく、文章も発表していて、既に2作のエッセイ集を刊行しているということです。イラストレーターでありながら、最初に世に出た単著がエッセイだというのも面白いですよね。三好愛という作家は、絵と文章の両面から、それぞれの方法で、あるものを表現しています。そして、そこで表現しているものこそが、今回の絵本『ゆめがきました』について考える大きな手がかりのひとつになるのです。
急に関係ないことを言い出しますが、僕はエピソードトークというものが苦手です。苦手、というと語弊があるかもしれません。テレビなどで芸人さんが話すエピソードトークには「流石」と思わされるものも多く、今でも楽しんで観たり聞いたりもしています。でも、時々「しんどいな」と感じたりするのです。日々の生活の中で、「これは使える!」と感じた出来事をストックし、他者が面白く感じるように構成し、ブラッシュアップし、披露する。実際に起こったことのインパクトもそうですし、着眼点、それを面白いエピソードに仕立てる腕、話術にとても感心しますし、それらは「絵本」というものを作るうえで参考になることも多々あります。でも、時々すごく疲れるんですよね。「もういいやん、何でもないことを何でもないように話したって」みたいな気分になってくるのです。まあ、芸人さんたちはそれが仕事なのでそんなこと言われても......という感じではあるのですが。自分が生きていて、誰かに「最近こんな面白いことがあって」と話せる出来事なんて殆ど起こりません。そりゃ、様々なことがあるにはありますが、人に話して面白がってもらえるようなことなんて滅多にないです。だから、芸人さんたちが話す様々なエピソードを聞きながら、笑いつつも「なんか大変やな」という気持ちにもなってくるのです。日々エピソードを探し、見つけたものを練り、披露する。なんてしんどい作業だろうかと。完全に余計なお世話ですが......
そんなことをぼんやり考えていた時に、ふと三好さんのことが頭に浮かび「ああそうか」と腑に落ちたのでした。「真逆やな」と。三好さんは、日々の暮らしで起こる、エピソードトークとして披露するには物足りない、あるいはどう説明したらいいかわからないし、説明したところできっと伝わらないだろうな、という出来事や、その中で感じたとらえどころのない気持ちを、あの不定形でなんだかわからない生きものたちに託して描いているんだ。だから、三好さんの絵を見て安心を覚えるんだと。僕らの日々は、エピソード未満(三好さんの著作『怪談未満』オマージュ)の集積です。誰かに話したところでリアクションのしようもないだろうし、面白く話す自信もないから、自分の中にだけ留めて、誰にも伝えずに、やがて忘れてしまう出来事。それらは些細なことかもしれませんが、大切ではない、というわけでは決してなく、きっと自分自身に何らかの影響を及ぼしているはずなんです。
感覚が「生きもの」に転化する
「言葉にできない気持ち、とらえどころのない感覚を表現する」、そういう画家は沢山いるじゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし言葉にできなさの多くは「あまりにインパクトがあるので表現しきれない感覚、感情」だと言えるのではないでしょうか。「筆舌につくしがたい」という言葉があります。この美味しさを、嬉しさを、くやしさを、言葉では表現しきれない。そういうときに使われます。つまり、それらは日々の暮らしの中で強く印象に残る事柄についての言葉なんですよね。でも、三好さんの場合は、他人に言うまでもないような、エピソードになりきらないエピソード、出来事から派生する気持ち、はっきりとある感情にカテゴライズできないような、もやもやした気持ち、感覚を「生きもの」に転化して、表現している。そういう意味で、稀有な作家だと言えます。
三好さんが描く生きものたちの大きな特長のひとつに、それぞれがなにを考えているかわからない、感情がはっきりわからない、ということがあると思います。目は描きこまれていますが、それぞれがなにを考えているかを読み取ることは出来ません。だからこそ、こちらの気分で如何様にも受け取ることができる。絵が自分から「こうだ」と言ってこないんですね。はっきりと「こういうものだ」と言い切ってしまえるものとして描かない。不定形で曖昧である、ということはつまり、やわらかく、しなやかでもあると言えるかもしれません。なので、見ている方は、自分が送る曖昧な、エピソード未満の出来事で構成されている日々を、そこで感じるとらえどころのない気持ちを重ねることが出来るのだと思います。誰かに話すほどのことでもない出来事や気持ち。時には自分さえ気づかず、顧みないような日々の断片を、そこで感じたことを、三好さんは描いてくれるんです。しかも嬉しいのは、不定形で曖昧、何を考えているかわからないこの生きものたちが、なんともかわいいんですね。自分の暮らしを構成するエピソード未満の出来事、そこで感じるとらえどころのない気持ちや、些細な心の動き、そんな「取るにならない」と言ってしまいそうになるものを、こんな風に愛らしく描いてくれる、それだけで日々の暮らしが少し豊かなものに感じられるような気がします。
初の絵本を作るときに考えること
さて、そんな三好愛さんが初めて描く絵本は一体どういうものになるでしょうか。僕は画家やイラストレーターの初めての絵本を担当することが多いです。その時に、作家の持ち味、魅力を活かしたうえで絵本を作ることを大切にしています。それは画風、つまり目に見える絵としての特長や、よく描くモチーフだけをすくい取って作っていくということではありません。それでは不充分です。その絵で表現していることがきちんと絵本の内容に込められたうえで、その作家の絵の良さ、特長が活きるものにしたい、ということなのです。
例えば、かわいい猫を描いている作家がいるとして、単にかわいい猫の絵本を作れば良いというものではないのです。作家にとって猫を描くということがどういうことか、猫をどのように見ているか、あるいは猫を描くことでなにを表現しているのか、そのことと絵本のアイディア、内容が密接に関わっていて欲しい、と考えています。でなければ、少なくとも自分にとっては、その作家に絵本を描いてもらう意味はないと思っています。
そういう意味で、今作『ゆめがきました』は、三好愛というイラストレーターの最初の絵本としては、理想的な作品だと感じています。夢はまさに「エピソード未満」の極北といえるのではないでしょうか。言葉にできない、明確な論理で処理しきれない様々な感覚がビジュアル化されたもの、それが夢だといえますよね。僕は毎晩必ず夢を見ますが、現実を直接的に反映したものから、なんでこんな夢見るんだろう、というものまで色々あり、意味不明なものも多く、他者に説明してわかってもらうのは至難の業です。そして「あれは何だったんだろう......」とぼんやり考えているうちに殆ど忘れてしまう。勿論、強烈な体験が形を変えて夢として現れてきたりもしますが、普段頭の中に浮かばない人が出てきたり、全く気にしていないような、忘れてしまっているような出来事が舞台やキャストを変えて再現されたりもします。
そしてそれらの多くは、日々の暮らしの中で、真っ先に思い出せるような、太字で記録されるような出来事、現象ではなく、何気なく通り過ぎてしまったりしたようなことです。でも、自分では気づかなくても、何かしらの引っ掛かりがあり、心のどこかで、反応していたのかもしれません。覚えておくほどでもないような出来事の記憶。でも、何度も繰り返しますが、僕達の生活の殆どはそういうもので構成されています。日々の暮らしで感じることが、自分自身の感性だったり、価値観を作っていく過程に大きな影響を及ぼしている。そう考えると、その時にはなにも感じずに通り過ぎたような出来事も、実は心のどこかに引っかかり、残っていて、それらが意識の中に蓄積されていて、知らないうちに影響を受けていると言えるかもしれません。そんな出来事とその時の感覚の蓄積がビジュアル化され、ストーリーとなって出てくるのが夢であるといえるでしょう。
つまり、言葉にできない、人にあえて言うまでもないような体験とその時の感覚を絵に託して描く三好愛というイラストレーターが絵本を描くときに、「夢」という題材が選ばれたのは偶然ではなく、きちんと作家の表現していることの延長線上にある選択なのだと思います。最初の絵本としては理想的な作品だ、と書いたのはそういう訳です。
「夢」は絵本づくりの第一級取り扱い注意品目
そのうえで、夢をテーマに絵本を作るって、かなり難易度が高いことでもあります。
夢は、その人のすごく個人的な体験、体感が整理されずに脈絡なく表出している状態であることが多いと思うので、その人にとって面白いものだとしても、他人にはどうでも良いことであることが多く、お互い共通して立脚する状況のうえでのエピソードでもないので、面白いとかこわいとか、切実な感覚が共有できないんですね。個人的な体験の究極の形なので、それをそのまま言われても困るというか、だから「夢の話」と前置きされると途端に興味をなくしてしまいます。あと、やっぱりなんでもありですからね。「なんでもあり」というと、とても自由なことのように聞こえるかもしれませんが、それが落とし穴なんです。やはりどこかに他者が共有出来るリアリティがあってこその、そこからの飛翔としての自由だから快感があるのであって、それがない「生」の状態の「なんでもあり」はそこにある快感を他者が共有しづらいのです。ビジュアルが共有出来るのであればまた別かもしれませんが、それもないとなると本当によくわからない。だから他人の夢の話は面白く感じないことが多いのだと思います。
あとはやっぱり、創作物を観たり読んだりして、ものすごく不思議な世界が展開されたあとで、結局「ゆめでした」って終わられるとなんかがっかりしますよね。よっぽどうまく使えるのであれば別ですが、絵本を作る時になるべくなら避けていただきたいことの代表格、それが夢オチなんです。架空の世界での出来事だということをわかりながら、でもどこかでその世界がどこかに存在する、あの主人公の体験は自分の体験でもあると思いたいのに、急に目がさめて「夢でした」みたいにされると最後の最後でハシゴを外されたような気持ちになります。「夢でした」と言われるのはつまり、主人公に自分を重ねてその世界に没頭していたら、最後の最後でその物語はすべて主人公の個人的な体験、体感に過ぎず、あなたには関係ありません、と言われるようなもので、そりゃがっかりしますよね。今までの自分のわくわくを返してくれ、そんな気持ちにもなるものです。「夢」って自由であるからこそ、自由で楽しい、想像力の翼を広げる絵本の題材にとても向いているように感じます。そのせいか、絵本作家志望の方の作品にも頻繁に夢ネタが登場しますが、絵本作りにおける第一級の取り扱い注意品目、それが「夢」なんです。
夢の絵本についてのレビューで、長々と夢を題材にすることの危険性を書いてしまい、「こいつ大丈夫か......」と思われそうですが、何が言いたいかというと、三好愛さんは、初めての絵本で真正面から「夢」をメインのアイディアに据えているという、実は非常に大胆なことをしているのだ、ということなんです。絵本ワークショップや教えている学生の作品の講評でも「なるべく夢オチは避けてほしい」「夢だと明示してしまうのも避けた方が良い」という話を頻繁にしています。なので、数度の打ち合わせを経て三好さんからこの絵本の初回ラフが送られてきた時、「夢できたか......!」とドキドキしたのを覚えています。不安というよりは、三好さんはこの高難度テーマである「夢」をどのように扱うのだろうか、という興味の方が強かったですね。そうして読み始めてすぐに「これはいける......!」と嬉しくなりました。
ゆめは「見る」のではなく、「来る」
それはなぜか。タイトルを見ればわかる通り、今回は「ゆめがきました」であって、「ゆめをみました」ではないんです。「見る」のではなく、「来る」。この視点の変換が、大きなポイントだと思います。多くの場合、主人公が夢の世界、つまり非日常の異世界に入っていきます。普段とは違うリアリティが存在している世界に入りこみ、そこで様々な不思議な体験をするわけですね。読者はそれを見て、自分を重ねて、その世界で自分が様々な体験をしている、そう感じられた時に「楽しい」「面白い」あるいは「悲しい」などと感じるのだと思います。そしてそのように感じるには夢の世界、異世界における「普段とは違うリアリティ」を読者が自然に受け入れられる状態を作らなければなりません。でも、究極の個人的体験であり、かつなんでもありの夢の世界でそのように感じてもらうことはなかなかに難しいことでもあります。「夢」とあえて言ってしまう以上、ここをクリアする必要があります。三好愛さんは、それをとてもシンプルな発想の転換であっさりとクリアしてみせました。
この絵本では寝ている人たちのもとに「ゆめ」がやってくる、そのように描かれています。つまり、僕らが暮らしている、現実の世界に夢がやってくるのです。しかも、ゆめたちは、どうやら玄関や窓から家屋に侵入し、ドアを開け、寝室に辿り着いています。物理的に侵入しているわけですね。戸締まりどうなってるんだ、大丈夫か、と思ったりもしますが、住人達も「ゆめ」が来るのを毎晩楽しみにしていると思われるので、入れるようにしているのかもしれません。いずれにしてもここで重要なポイントは、現実世界に、夢が物理的に登場している、ということです。こうなると、人間が現実から異世界に行くわけではないので、リアリティの共有、という問題は起こりづらくなります。最初にラフを読んだとき「なるほどこの方法があったか......!」と膝を打ちました。さらに、このシステムをきちんと機能させる仕掛けがこの絵本には存在します。それは、夢そのものをキャラクター化した、ということです。夢の擬人化、と言いたいところですが、人になぞらえているわけでもないので擬生きもの化、とでも言いましょうか。それがあるからこそ「ゆめがきました」というアイディアが可能になっているのだと思います。
夢をある生きもののような形で具象化させるとき、三好さんが描く生き物たちはこれ以上ないくらいに適任に思えます。前半で、三好さんが夢を描くにあたって理屈を長々と書きましたが、そんなことをいちいち考える必要もないくらい、あの生きものたちが「ゆめがきました」と登場することに圧倒的な説得力を感じます。最初のページで、あの絵とともに「きました」としれっと断言されることで、読者は「ゆめがくる」、しかもああいう生きものとしてやってくる、という不思議な設定をごく自然に受け入れてしまうことでしょう。そうなればしめたものです。そこから先はなんでもあり。だって夢なんですから。さっき書いた夢を扱うことの難しさを「夢が物理的にやってくる」「夢の擬生きもの化」という形でクリアしてしまったので、足かせになるはずだった「なんでもあり」という状態が強みに転換しているのです。あとはもう三好さんのやりたい放題です。その絵や文章から三好さんが面白い世界を持った人だとはわかってたつもりですが、なんでもあり状態になった三好さん、マジで最強ですよね。結果、この絵本には奇想とナンセンスが横溢することとなり、読んでいる読者を夢の世界に巻き込んでいきます。ラフを改訂し、新たな夢のバリエーションが出てくる度に驚きが止まりませんでした。「おかあさんが ふえる ゆめ」「たまになって ころがされる ゆめ」「ラッパをふいたら いもうとがでてくる ゆめ」......何なんでしょうね、一体。どうやったらこんなことを思いつくのでしょうか。しかもそれらの描写が本当に面白いんです。夢自体も勿論、三好さんが描く生きものたちが人間たちに夢を見せる様が本当に愛らしく、楽しそうでついニヤニヤしてしまいます。
夢が生きものの形を持って現実世界に物理的に登場する。さらに、人間たちに夢を見せるのも、どうやらかなり物理的な手法をとっているように見えます。例えば「おなかが ふくらんで たいこになる ゆめ」というものが登場しますが、その数ページ前、夢が寝室に来た場面ではたいこのバチらしきものを持った「ゆめ」が枕元でスタンバイしています。ここからどうやって夢を見せるのでしょうか。枕元でバチをふるって踊り狂うのか、それとも実際にお腹をたたいてしまうのか、どのようにして夢を見せるに至るのかは描かれていませんが、いずれにしてもそこそこ物理的な方法を取っていることが想像されます。「夢」という、とらえどころのない、ふわふわしたものを描くにあたり、かなり物理的な設定と描写を採用しているといえます。それが功を奏していますね。
そのうえで、夢オチの場合、朝がきて目が覚めたら夢の世界は消えていますが、この「ゆめ」たちは朝になって夢が終わると、「ゆめのねどこ」に帰って明日はどんな夢を見せようかとみんなで話し合うのです。帰っていくときも、窓をあけたりして、物理的に帰っていきます。朝日とともにだんだんと姿を消すとか、そういうのではなく、「帰宅する」という感覚にかなり近いものがあります。帰っていく姿と話し合う様子を見ていると、この「ゆめ」たちはきっとこの世界のどこかにいるんだろうな、という気持ちになりますよね。だから夢オチ特有のハシゴを外されたようながっかり感、「なんでもええやん」感を覚えずにすむのですね。帰宅した「ゆめ」たちが、明日はどんな夢を見せようか話し合う。そこでは様々なアイディアが出るのでしょう。「もっとこうしたら面白いんじゃないか」「こうしたらびっくりするにちがいない」そうやって「いいねえ」となったものが採用され、また夜に実行される。それぞれの「ゆめ」が専属で担当している人間がいて、その人の趣味嗜好や暮らしぶり、最近の出来事などをリサーチし、夢の内容に活かすような試みがされていたりもするのでしょうか。そんな想像をしてしまうのも、作中における物理的な設定のお陰だといえます。絵本の外の現実にまで「ゆめ」たちが侵食してくる。そうやって絵本を閉じても楽しみが続くのです。
言葉の演出
最後にテキストについて言及して終わりたいと思います。先述のように、三好さんは文章も書かれています。言葉にできない、とらえどころのない気持ちや出来事を、生きものとして描き表現しているのに対して、文章ではその時に感じたことを微に入り細かいに入り、丹念に言語化していきます。多くの人がスルーしてしまうような感情の機微、心の襞を見逃さずに書く。面白いのは、その文章の印象が「出来事と心情の詳細な説明」にならずに、三好さんが絵で描く生きものを見た時の感覚に近い、ということです。詳細に書いた結果、「曖昧」「とらえどころがない」という概念がそのまま具象化された、という言い方はわかりづらいでしょうか。とにかく、こんな文章には他で出会ったことがなく、読んだあとはいつも何らかの特殊能力を目の当たりにしたような気持ちになりぼんやりしてしまいます。
今回は絵本ということで言葉はとても少ないですが、そんな中にも、三好さんの特異な能力を感じるところがあります。曖昧で、とらえどころがない「夢」というものを非常にうまく表しているところ。それはまさに「ゆめ」という言葉の扱いに見られます。この絵本では、夢を擬生きもの化した「ゆめ」が登場し、人間に「ゆめ」を見せます。「ゆめ」が「ゆめ」を見せる。主体と目的が(おそらく)意図的に混同されているのです。上手いですね。夢の曖昧さ、とらえどころのなさがとてもよく演出されていると思います。
そしてもうひとつ、この絵本は語り手が曖昧なんです。絵本の語りには、客観的なナレーションと会話文の組み合わせだったり、主人公の心の声をナレーションとして扱いつつ登場人物の会話を組み合わせたり、会話のみだったり、あるいはナレーションのみだったり、様々な手法がありますが、いずれにしても、どういう存在がどんなスタンスで語っているかをはっきりとさせるのが望ましいです。ところが、この絵本はそこが曖昧なんです。
まず、今回は「ゆめ」が様々なお家にやってくるという設定なので明確な主人公が不在です。そのうえで「ゆめがきました」と語られるわけですが、最初はこれが客観的なナレーションに感じられます。でも、それぞれの夢の場面では、夢を見ているそれぞれの人間の感覚が語られているように読めます。例えば「よぞらで ゼリーをたべる ゆめ つるりんぷるぷる のどがひんやり ひとくちごとに ちがうあじ」、これは夢を見ている人の感覚ですよね。でも、途中で「ねている ひとたち みんなのところに ゆめはきました」など、また客観的なナレーションらしき箇所も出てきます。ラストのテキストもそうですね。語り手がゆらぎ、移り変わっていく。いつもなら、語り手をはっきりさせましょうと言うところですが、今回に限っては「これはありだな」と判断し、そのまま採用しています。夢の中って、登場人物がいつの間にかぬるっと変わっていたりするのは僕だけでしょうか。それに似ているなと面白く感じたのす。先述の「ゆめ」という言葉の扱いと共に、夢というものの曖昧さ、とらえどころのなさの効果的な演出になっているのではないでしょうか。と、このように分析するのは簡単ですが、なかなか出来ることではないです。普通は不自然さが勝ってしまい、引っ掛かりが出てしまうものですが、それをごく自然にやってのける。意図していても、そうでなくても、どちらにせよすごいと思います。やっぱりこんな作家、他にいませんね。
長々と書いているうちにいつのまにか夜も深まってきました。そろそろ「ゆめ」たちが起床してスタンバイしだす頃でしょうか。きっと、皆さんのところにも、ゆめはきます。今夜も趣向を凝らして、楽しませてくれることでしょう。想像していると早く寝たくなりますね。もう寝ましょう。というわけで、この文章もそろそろおしまいです。おやすみなさい。
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この本の詳細を知りたい方は、下記ページをご覧ください。
プロフィール
筒井大介(つつい・だいすけ)
1978年大阪府生まれ。絵本編集者。教育画劇、イースト・プレスを経てフリー。野分編集室主宰。担当した絵本に『ドクルジン』(ミロコマチコ)、『ぼくはいしころ』(坂本千明)、『ネコヅメのよる 』(町田尚子)、『てがみがきたな きしししし』(網代幸介)、『ぼく』(谷川俊太郎/作 合田里美/絵)、『ねこまがたけ』(加門七海/作 五十嵐大介/絵)、『100ねんごもまたあした』(瀬尾まいこ/作 くりはらたかし/絵)、『よるにおばけと』(みなはむ)、『みんなたいぽ』(マヒトゥ・ザ・ピーポー/文 荒井良二/絵)、『ゆきのゆきちゃん』(きくちちき)など多数。『ブラッキンダー』(スズキコージ)、『オオカミがとぶひ』(ミロコマチコ)がそれぞれ第14回、第18回日本絵本賞大賞を、『こどもたちは まっている』(荒井良二)が第26回日本絵本賞を受賞。『オレときいろ』(ミロコマチコ)が2015年度のブラティスラヴァ世界絵本原画展において第2位にあたる「金のりんご賞」を受賞した。編著に『あの日からの或る日の絵とことば 3.11と子どもの本の作家たち』がある。水曜えほん塾、nowaki絵本ワークショップを主宰し、作家の発掘、育成にも力を注いでいる。2023年10月~2024年1月にかけて、京都dddギャラリーにて展覧会「はみだす。とびこえる。絵本編集者 筒井大介の仕事」が開催された。京都精華大学デザイン学部特任准教授。
編集部からのお知らせ
『ゆめがきました』原画展情報
本書の発刊を記念して、群馬の高崎にて原画展を開催します。今回の展示では、すべての本文原画を展示予定。ふしぎな「ゆめ」たちがつくりあげる世界に、どっぷりと浸ることができます。原画を観たあなたの元にも、きっと素敵な「ゆめ」がやってくる!? ご来場を心よりお待ちしております。
三好愛『ゆめがきました』原画展@高崎
<会期>
2024年11月22日(金)〜2025年1月13日(月)
営業時間:10:00〜21:00
<会場>
未来屋書店 ⾼崎店・無印良品イオンモール高崎店=Open MUJI
〒370-3521群馬県高崎市棟高町1400番地イオンモール高崎2F
2006年に自由が丘の地で創業し、「ちいさな総合出版社」としてジャンルにとらわれずに「おもろい」を追求してきたミシマ社。自由が丘のおとなり、都立大学で楽しいイベントを開催されながら、絵本を届けられているニジノ絵本屋さんで、11月から12月にかけて、展示を行うことになりました。展示のテーマは「本の贈り物」。
こちらの展示で、三好愛さんの『ゆめがきました』表紙の原画を展示しています。
ちいさな総合出版社 ミシマ社の本の贈り物展
<会期>
2024年11月14日(木)〜12月2日(月)
営業時間:12:00~18:00(火・水定休)
<会場>
ニジノ絵本屋
〒152-0032 東京都目黒区平町1丁目23−20