第2回
何を迷惑とし、ワガママと捉えるか
2018.05.24更新
引き続き「ベビーカー問題」を例に、「迷惑とワガママ」について考えていきます。電車が混み合っている時間帯にベビーカーで乗り入れることについて良識を知らない、独善的な行為だと理解を拒み、批判する声があると、前回取り上げた記事(「マイナビウーマン」2015年11月1日付)で紹介しました。
それらに対して「子育てにもっと寛容になれ」「弱者の立場を想像しなさい」と言ったところであまり響かないでしょう。冷淡に見える態度をとっている人だって、寛容さや想像力が必要性だというのは薄々気づいているからです。だから、わざわざ他人に指摘されたくはありません。嫌な自分を認めるくらいなら、「そんな時間帯に乗る方が迷惑だろ!」と言い切る方がいいからです。幸い客観性や常識を持ち出せば、そうした後ろめたい感情を追い払えるし、「私は何も悪くない」と正当化することはいくらでもできます。
とは言え、誰だって自分のことを「ちょっとはいいところがある」と思っているし、できればいい人でありたいと願っているはずです。実際の行動で表さなくても、「よくはありたい」という切ない気持ちを根っこのところで持って生きているのだと思います。
私たちは「自分は正しい。相手は間違えている」とすっぱり言い切ってしまうことに魅力を覚えてはいないでしょうか。でも、実際にそうすると居心地の悪さを感じてしまいます。そういう感覚がなぜ訪れるのか。きっと誰しも弱いし、時に小狡いことだってしてしまう、そう大したことのない自分の存在を知っているからだと思います。だからでしょうか。コラムニストは記事をこのようにまとめています。
「ベビーカーを使うことが悪いというわけではありませんが、周囲に配慮した使い方を考えるだけでまわりの目は変わってきます。少子化が叫ばれる中、子どもを大切にしていかなければいけないのは事実ですが、社会のマナーを教えるのもまた親の役目です。自分がママになったときも、ベビーカーを印籠にして周囲に迷惑をかけることのないよう気を付けたいものですね」
コラムニストはベビーカーを乗り入れる親と通勤する人たちのどちらにも目配りをした、できるだけ本人なりの「客観的」な立場でものを言おうとしています。
ただし、この場合の「客観的」というのは定見がないということであり、また公正であろうとするのではなく、現状の社会に受け入れられやすい考えを採用したという意味です。人それぞれの抱える事情や弱さへの配慮がそうさせるのでしょう。
通勤ラッシュを解消しようとしたら、それこそ働き方や経済活動といった、心の持ちようや他人に優しく接することでは解決できない複数の事情を相手にしないといけなくなります。そういう大きな問題を前にすると、結局のところ従来通りの「迷惑やワガママなことは控えましょう」という穏当なルールに則るという提案しかできなくなります。
それはふらふらと腰の定まらない様子に見えるかもしれません。けれども、こうも世の中が複雑になると「こうすればいい」と断言しさえすれば万事うまくいくことはほとんど期待できません。コラムはそのことをよく表していると言えます。
では、どうすればいいのでしょうか? これからそのことについて書き進めていくわけですが、その前に読者のみなさんの頭の隅っこに置いてもらいたいことがあります。それは、この記事に見られるような意見に対し良し悪しをつけるのでも、現状に対して「仕方ない」と追認するのでも拒絶するのでもない道を選ぶということです。
「それは迷惑だし、ワガママだ」と感じている人がいるとします。その人に向けて、「なるほど。その通りだ」と同意と共感を示すだけでは、実際に問題となっているから議論になっている実状を無視することになります。だからと言って「その感じ方は間違えている」と言ったところで、それ以上の展開を望めないのは本人が「そう感じている」ことそのものを否定しようがないからです。
「迷惑やワガママというタグをつけてしまえるのは、単なる癖なのかもしれません」と先述しました。癖は他人から指摘されたところで直しようがありません。また「癖をやめる」というゴールを定めて努力しても、かえって意識してしまい、ぎこちなくなるだけです。
ただ「自分にはこういう癖があるようだ」と自覚すれば、改めるきっかけにはなるでしょう。そこから考えると、本人が「そう感じている」のは否定しようがないとしても、「そう感じているのはなぜか?」や「何がその感性をもたらしたのか?」は問えます。
「迷惑だ。ワガママだ」「いや、そうではない」のどちらかに与するのではなく、この話題を材料に私たちの考える迷惑とワガママの姿形を明らかにしたいのです。それが、つい「これが常識だ」と思ってしまう暮らしに変化をもたらすのではないでしょうか。
自動的にタグを付けるラベリングの癖が身につくと忘れてしまうことがあります。それは迷惑やワガママな行為が前もって存在するのではないということです。この時代や社会を生きる私たちからするとそう感じる行為があるだけです。
たとえば、いまどき電車の中でタバコを吸う人はいません。もし、そういう人がいたら傍迷惑だし、条例に違反した行為です。けれども、私が子供の頃は列車の座席には灰皿がついており、喫煙は普通のことでした。飛行機の中でも吸い放題で煙でもくもくしてました。
あるいは、いまでは電車はおろか街中といった公共の場で赤ちゃんに胸をはだけて母乳を与えるのは、マナー違反とされています。カフェの隣でそんな人がいたら眉をひそめられるかもしれません。また乳を与えるお母さんにしても授乳用のケープなしにはきっと恥ずかしいと感じてしまうでしょう。
これも40年ほど前なら、女性が人前で胸をさらして乳を与える光景は都会でも田舎でも普通に見られました。誰もそれをおかしいと言ったり、非難もしませんでした。
余談ながら先日、北海道へ行った際、駅のホームで中国人観光客の若い母親が胸をはだけて赤ちゃんに乳を与えており、何ら含羞を覚えていない様子にどうにも懐かしい思いをしました。いずれ中国も公衆に体をさらすことをタブー視して行くかもしれません。
つまり「何を迷惑とし、ワガママと捉えるか」という基準は、「いまの社会で優先されるべき価値」に従って移ろっていきます。
ベビーカーに対する批判的な見方の背景にあるのは、「出勤で利用する人が多い以上、その目的が優先されなくてはならないのは当然だ」という考えではないでしょうか。
なぜ優先されなくてはならないかと言えば、会社へ行って働くことは、その他の事情よりも大事だからです。「働かざる者食うべからず」や「自己責任」という言葉が浸透していることからわかる通り、この社会においては労働し、情報や製品を生み出し、サービスを提供することでお金を稼ぐ。それが何より意義のあることだとされています。あるいは、労働は子育てよりも価値の高いことだと、知らず考えているのかもしれません。
というのも、意識するかしまいかはともかく、生産性や経済的かどうかで物事を捉えているからこそベビーカーで乗り込むことが問題として取り上げられ、非難されるような扱いになっているのです。
「いや、そうじゃない。通勤ラッシュの時間帯だから迷惑だと言っているだけで、満員電車でなければ別にベビーカーで乗り込んでも構わない」という人もいます。冷静でまともな意見に聞こえます。
でも、本当にそうでしょうか。なぜ「乗り込んでも構わない」と許可を下す立場に自分がいられると思えるのでしょう? それは労働と生産の方が上位にあるからだと信じているからではないでしょうか。それが悪いというのではありません。一見すると「冷静でまとも」な考えが立脚しているところを問うてみると、私たちが信じている価値のありかがわかってくるのだ、ということを言いたいのです。