第24回
特集『くらしのアナキズム』刊行記念対談 松村圭一郎×藤原辰史「政治を自分たちの生活にとり戻す!」(前編)
2021.11.09更新
『くらしのアナキズム』の刊行を記念して、10月7日、著者の松村圭一郎さんと、歴史学者の藤原辰史さんによるオンライン対談を開催しました。藤原さんの著書『縁食論』刊行記念対談や、雑誌『ちゃぶ台』誌上での対談など、これまでもたびたび対話を重ねてきた、同世代の研究者のお二人によるトーク。アナキズム、自治、政治・・・etc. 語り合いながらリアルタイムでお互いの思考が「耕されて」いく様子が、とてもスリリングで刺激的なトークとなりました。ミシマガジンではその模様を一部抜粋し、2日間にわたってお届けいたします!
構成:山本路葉、池畑索季
自分の家までフィールドワーク
松村 この私と藤原さんとの組み合わせは、『ちゃぶ台6』での対談でもあったし、「またか」と思われるかもしれないなとは思いつつ、そういうのはちょっと度外視して、やっぱり折にふれて藤原さんとちゃんと話さなきゃいけないなと・・・。
藤原 義務(笑)
松村 それと、藤原さんが去年『縁食論』を出されたときに、私なりに考えていることを藤原さんにぶつけて藤原さんにお答えいただいたので、今回は逆の感じで、藤原さんに直球で厳しいコメントも覚悟していますので、いろいろ投げかけていただいて、この場で議論できたらなと思います。藤原さん、よろしくお願いします。
藤原 よろしくお願いします。
松村 どうでしたか、『くらしのアナキズム』は?
藤原 僕がやっぱりこの本で本当によかったと思うのは、熊本が入っているということです。熊本の地震の話が入っていることでかなり具体的に分かった。で、特によかったのは、お母さんを車で助けに行って、家が結局解体されますよね。松村さんが中学、高校と育った、もう大切な思い出の場所が解体された後の写真を、あたかも松村さんは科学者のような手つきで「ほら、家庭菜園になったでしょう」という感じで。
松村 「科学者の手つき」って、どういうことですか(笑)? 客観的ということ?
藤原 すごい客観的に。さすがフィールドワーカーやな、というか、自分の家までフィールドワークしてしまう客観的手つきというか。お母さんがつぶれてしまった家で泣いているわけでもなく、なぜか畑を作り出して、地震で倒れて全部まっさらになった家で、近所に配っている。そこは家もない、壁もない、ただ近所の人に配っている。自分のお母さんの描いているわりには、観察する視点で描いている。地震のときに、誰に言われるわけでもなく、たまたま生まれてきたアナキズムというものを描いた、熊本のエピソードがあったのは大変大きいと思います。
松村 こうした身近な体験談がないと、本当にただ論じるだけ、口だけ、みたいになるという感じもあって。章間のコラムは、エチオピアと岡山を往復したり、熊本に行ったりしながら考えたことなので、かっちりと実証しているわけでもなく、観察して見聞きしたこと、感じたことにもとづいています。エチオピアでも、反政府デモが弾圧されるとか、内戦状態に陥るとか、そういうことが起きていて、アナキズムの視点から、この事態をどう考えたらいいのか、自問してきました。まだ、きちんとした答えは出せてないんですよね。出せていないんですけど、ここに問題の所在があるんじゃないかって。
関係を耕す
松村 最後の家庭菜園の話は、その前の章の最後に、松嶋健さんの論文――イタリアのコロナにおける医療崩壊について書かれた論文――から、「耕し」という言葉がキーワードとして浮上して、最終的にはこの本全体の重要な概念として参照させていただいて。「お、うちの母親、耕してるやん」という感じで、文字通り土を耕しているだけですけど。それは単に一人で耕しているのではなく、近所の人たちに声をかけて一緒にやっていて、関係を耕すことにもなっているな、と。
藤原 そうですよね。
松村 みんなで家庭菜園をやっているだけで、何か緊密な関係があるわけじゃないんです。地震で避難するときにお世話になった近所の人との関係をかろうじて繋いでいく場所として、ちょっとすれ違ったら「ちょっと待って、この野菜、持っていって」みたいな感じの関係が生まれている。それって一番大事なんじゃないかと。当然、政治的な政策の議論もあって、問題を制度によって解消するっていうのは必要だと思うんだけど、それだけでは、こぼれ落ちる人が出てしまう。藤原さんの言葉で言うと、そこにちゃんと、受け止めて、分解する分解者たちがいないと、たぶん問題はなくならない。おそらくそういう人たちが関係を耕して、実は社会全体を支えているんじゃないか。そういうイメージに繋がって。小さいし、単なる一人のおばあさんの話でしかないんだけど、これが一番肝になるんじゃないかな、と。
藤原 面白いのは、本の最後にスコットとグレーバーではなく、松嶋健さんと猪瀬浩平さんという二人の人類学者を持ってきたというところで、やっぱり「耕す」ってことを考えたいからですよね。身体障がいを持っている方が、健常者たちが当たり前だと思っている世界に入ってきて、突然違った世界を見せてくる、渋滞の道路を車いすでゆっくり横切ることによって風景を変える、という猪瀬さんの『分解者たち』のシーンが私は好きなんですけど、その耕していく、人間も耕されていく、っていうのを松嶋さんのイタリアの事例の言葉を借りたりしていて。『縁食論』の「もれ」というところ、安藤昌益のところもあの文脈の中で引用していただいて。
自治=自 ずから治まっていく
松村 藤原さんの引用をしたところは、じつはちょっと中途半端な引用だったかなというのが少し気になっていて。藤原さんは安藤昌益の「もれ」というのが自治にとって重要だと、ぽろっと書かれているんですけど、あんまり詳しく説明されてないというか・・・。
藤原 ふふはは(笑)
松村 藤原さんが出している具体例としては、「言葉が漏れる」「声がぽろぽろ漏れる」みたいな、そういう例を出されているんですよね。それが重要なんだ、それが自治に繋がるんだとおっしゃっていて・・・。その心を教えていただいていいですか。
藤原 安藤昌益は体液の話をしているんですよ。汗って、「汗かくぞ」と言ってかけるものじゃないですよね。よだれも、梅干しを思い浮かべれば出てくるけど、基本的には自分でコントロールできない、にじみ出るもの、おのずと湧き出るもの。コントロールできないけど、何か人と人とのやり取りの中でにじみ出てくるものや、喜びとしてあふれてくるようなものを、彼は哲学の中心に据えているんですよ。そういうのを大切にするのが自治だと私は思っていて。
松村 なるほど、なるほど。
藤原 アナキズムもおそらく松村さんの本を読む限りでは、明示的に「やりなさい」「やりました」ということで積み重なっていったシステムというよりは、「あれ、出ちゃった」「あれ、しゃべっちゃった」という感じがしていて、その中で、少数意見も拾っていく。漏れ出てくる意見というのも、ちょうど汗がにじみ出るのと似ていると。だから、例えば松村さんとしゃべっている時にいろいろしゃべりたくなって色々出てくる感じですよ。プランを超えていく感じ、計画を超えていく感じ、これがない限りアナキズムも自治も成り立たない。そういうことを、本当は『縁食論』でも書きたかった。
松村 人から与えられる何かに応答するだけじゃなく、内側から湧き出てくるものがベースにあるってことですかね。「自治」というと、組織を作ってちゃんと調整し合って治めていく、というイメージがあるけど、そうじゃなくてみんな内側にあるものをわーっと漏らしていく。それがあふれて混じり合って何かが生まれていく。関係が生まれていく。耕されていく。でもそれって、なんか「自治」という言葉のイメージをだいぶ超えているなと。
藤原 そっか、そこで疑問を抱いていたのか。
松村 だから自治は、
藤原 そうか、じゃあごめんなさい、私、定義変えますわ、「自治」、これから。
松村 いやいやいや、ちょっと言葉のイメージを拡張すると、うまく「もれ」と「自治」がつながる感じもするんだけど、『縁食論』を読んだだけだと、キーワードとして繋がっているなとは思いつつ、少し自信がないまま引用したところがあって。
藤原 いや、合ってますよ。だから地方自治の自治じゃないの。
松村 違いますよね。
藤原 自ずから治まる、っておしゃっていただいた通りで、治まるは自動詞です。誰かを治めるんじゃない、統治するんじゃないんです。
松村 なるほど。そう考えると、やっぱり安藤昌益の言葉の持つイメージが自治に繋がっているというのは、その通りですね。自然の生命の営みのような秩序のつくり方ですよね。それって、やっぱりアナキズム的かもしれない。
藤原 私も『縁食論』で「自治」って言葉を使ったのは、いま大学自治がボロボロだからなんですけど、でも実は私が考えていた自治はそのレベルの自治だけじゃなくて、自然の問題を考えていていたんだと、教えていただいたような気がしました。
松村 なるほど、なるほどねぇ。面白い。
(後編につづく)