「ない」ようで「ある」

第33回

その場に流れている楽しそうな周波数のようなものは、皆が共有していて、

2023.01.06更新

久方ぶりに

 この「ないある」連載の文章を書くのはとても久しぶりです。2022年は変化が多く、気づきがたくさんあって、書きたいと思うことのメモは増え続けました。今は2022年12月30日。せめて2022年内に一度更新をして、2023年につなげようと思い、1週間ほど前から文章を書いているのですが、うまくまとめられず、更新されるのは早くても新年になりそうです。

 書きながら、なぜ更新が滞ったのだろうと考えました。最も大きな理由は、自分が横着者だということに違いないのですが、それだけではない気がしています。何度か書こうともしたのですが、なぜだか筆が走らない、というか、キーボードが弾けない。これまでとは少し違う感じに戸惑っていました。

 これまでと今の大きな違いがあります。それは、一つの場所に常勤で勤務をしなくなったことです。変わらないことは、興味がある物事に対して我慢をせずに取り組んだり、出かけていったりすることで、これまではそのようなことについて主に書いてきた気がします。だから、書きたいことはやっぱりあるのです。メモもたまっている。それなのに書けないというのは、改めて考えてみると興味深いことです。

アイデンティティと家

 常勤で勤務をしている時、僕は「自分とは◯◯」というアイデンティティが安定していたように思います。「自分は大学病院に常勤で勤務する人」という圧倒的な土台がありました。「精神科医 など」という肩書きにこだわりたいと思っているくらいなので、もちろんそれ以外の自分もたくさんいます。でも、毎日通う場所があるという安定感はとても大きかったようで、辞めてみて初めて実感しました。

 この、自分の圧倒的な土台となるアイデンティティって、家みたいです。家をなくした人への支援の形で、まずは安心できる住まいの確保を最優先する「ハウジングファースト」という取り組みがあります。これは、本当に大切なことです。対人支援をしていると、不調が強いとされる人とのかかわりが始まることが多くありますが、色々なかかわりを工夫しても不調が続いてしまう人が、住まいの安定が約束されると驚くほど不調が減るという流れを多く目の当たりにしてきました。

2022年は

 大学病院の常勤医として勤務していた僕には、医療のど真ん中ではない、「など」の活動を思うままにしてから、医療のど真ん中に帰ることができる安定した家のようなアイデンティティがありました。でも、その家が自分にぴったりだと思えなくなったので、家を手放しました。2022年は、自分がここちよい家はどんな場所なんだろうと探しに行く、新たな旅に出た年と言えるかもしれません。興味に従っていろいろな場所に行って、人に会い、体験や学びを重ねて、概ね楽しく試行錯誤していました。

 家がはっきりしていた頃は、そんな体験を書いて報告したいと思える余裕がありました。でも、家を手放した自分は、常に動きながら考え、考えながら動いて絶え間なく少しずつ変わっていくような感じで、ひとまず落ち着いて書いておこうという時間が持てていなかったように思います。

今回の話

 こんな壮大っぽい言い訳を書きつつ、2022年にあったさまざまなことを回想するうち、一つのエピソードを書きたいと思いました。

 家を探すため、いろいろな場所に見学に行き、人に会って話をきく活動を続けていますが、九州のとある病院に元の同僚と見学に行った時のことです。とても地道な試みをしている病院で、日中はじっくりと見学したりお話をきいたりして充実。そして、夜。焼酎がおいしくて知られている地域だったし、元同僚も一緒だったので、その日の振り返りをしながら楽しく食事をしていました。2軒ほどハシゴをして、最後にもう1軒、手頃な場所はないだろうかと地元の人に聞いたところ、絶対にここだ、というスナックを教えてもらいました。

 内心、スナックかぁ・・・と二の足を踏む自分がいました。スナックにはカラオケがあり、多くの場合はマイクが回ってきて、断れず歌を歌うことになるというのが僕の経験上の印象です。歌を歌うのは好きだし、カラオケが嫌なわけでは全然ないのですが、多くの場合はある程度酒を飲んでいて、歌を歌いたい気分にはなれませんでした。僕はバンド活動をしている時には歌を毎日歌い、発声練習も頑張っていました。それにもかかわらず、なかなか上達せず、天性ののどや音感、リズム感を持っているような歌手と自分の圧倒的な差を自覚してきました。それでも、調子の良い時は自分の中では満足のいく歌唱ができて、とても嬉しくなります。ただそれは、本当に調子が良い時で、元々の声帯の強さとか、声がとても響くからだを持ちあわせているわけではないので、酒を飲むとすぐに歌のコントロールがきかなくなり、どんどん納得のいかない歌唱になっていくのです。これは、まわりが聴いて良いとか悪いではなく、自分の中のここちよさの問題です。スナックに行くと、酒を飲んで歌うことになるので、どうあがいてもここちよくない時間が訪れる。だから、スナックかぁ・・・と思ってしまったわけです。

 でも、地元の人の強いおすすめで、その場で電話して席も取ってくれました。これはもう行くしかありません。まぁまぁ酔っ払っていたので、他人からみたら楽しそうに見えたと思うし、実際肩は落ちていなかったと思うけど、こころの肩を大きく落としながらスナックに向かいました。

そのスナックで

 そこのスナックは、想像していたよりも広く、居心地が良く、マスターも常連さんもカラッとした明るさのある場所でした。着いてからしばらくは、その雰囲気に自分を馴染ませながら、楽しく酒を飲んでいました。しばらくすると、マスターが、往年のモノマネ芸人さんのモノマネと言えるような名人芸を披露してくれました。かわいく少しお下品なネタでしたが、マスターの人柄も手伝ってとても面白く、店内は盛り上がりました。お客の中には、数年ぶりに帰ってきたという人もいて、その人は、自分はこの店に育ててもらって人とうまくやれるようになった、と明らかに酔って泣き上戸になったに違いない状態でカラオケを歌い、号泣していました。

 そんな、楽しいカオスと言える状況の中、ついに「あんたらも歌えばいい」という、恐れていた時間がやってきてしまいました。元同僚は、どう工夫したのか分かりませんが歌わない立ち位置をすでに獲得していて、僕はマイクを手放せない状態になりました。大学病院の常勤医という家のようなアイデンティティを手放し、気づいたら、楽しいカオスなマイクを手放せない状態になったのは、良い人生なのか、そうではないのか。そんなことも考える余裕はなく、仕方なく曲を選びます。

 今書いてて思うのですが、ここで曲を選ばなければ良いんですよね。選ばなければ曲は始まらないし、選べば曲は始まります。始まると始まっちゃうんです。前奏が終わり、簡単に訪れる歌唱パート。歌う。ほら、全然声が思うように響かない。こうなると、まわりが少しずつ見えなくなっていきます。あぁだめだ、あぁ全然だめだ。

 映画『THE FIRST SLAM DUNK』を観た人は分かるかもしれませんが、桜木花道以外のメンバー、特にチームの大黒柱である赤木剛憲が、あぁだめだという状態になる描写があり、印象的でした。この時の僕はまさにそんな感じで、歌えば歌うほどうまくいかなくなる悪循環。インターハイのゴリも、スナックのガイネンも、つらい時間を過ごしたわけです。ただ、ゴリには仲間もいたし安西先生もいました。だからこそ、湘北高校の試合はドラマティックに挽回されたのです。ガイネンにはそんな仲間や先生はいませんでした。当然、全く挽回できずに曲が終わる。諦めたらそこで試合終了ですよ、と言われる間もなく、曲が終了してしまいました。

曲が終わって

 悲壮感たっぷりに書いていますが、その場は楽しいカオスのままでした。僕は歌いきったし、外には悲壮感は全然出ていなかったと思います。でも、あぁまたやってしまった、という自分の中の後悔は小さくなく、まわりにそれが全く伝わっていないことは、助かったようだったけど、孤立する寂しさのような感覚もありました。

 その直後、マスターや常連さんから予想外の声が上がりました。

「ナーイスバッティン! ナーイスバッティン!」

 え?
 僕は何もバッティングしてないし、野球の歌を歌ったわけでもありません。でも、その場は「ナーイスバッティン! ナーイスバッティン!」という声で満たされています。な、なんだこの嬉しさは! 自分の中に、全く想定していなかった嬉しさが湧くのがとても不思議でした。

 この時上がった声が、「うまいね〜」とか「曲が映える〜〜」とかだったらきっと、そんな思ってもいないだろうことを言われても嬉しくないよ、と勝手にヘソを曲げて、自分の卑屈な側面が目立ち、さらにここち悪さの悪循環が生じたことでしょう。でも、「ナーイスバッティン! ナーイスバッティン!」という声では、ヘソを曲げようがなかったのです。卑屈さの種を見つけようと思っても見つけられない奇想天外さがありました。こんな風に、ただただ意味不明に褒められるという体験は、もしかしたら人生初だったかもしれません。いや、もしかしたら、記憶がないくらい小さい頃はたくさんこういうことがあった可能性があります。生まれたばかりで全てが初めての体験である子どもは、何をしても当然偉いから、とにかく褒めたい。そう思うのは僕だけではないはずです。よく分からないまま上機嫌になった僕は、気づけばマイクをバットのように持ちかえて、ゆっくりとスイングしていました。その直後上がった声。

「ナイッシュー! ナイッシュー!」

 なんだそれ、とツッコみたさがこみ上げてくる声でしたが、その時はすでにヘソ曲がり悪循環は消えていて、じゃれ合いのような状態になり、楽しい気分はさらに増えました。そのまままさかのもう一曲を歌った時には、なぜかここちよく歌えました。もしかしたら、一曲目と同じように声があまり響かず、イマイチな歌唱だったかもしれません。でも、自分の中のここちよさの問題だと先ほども書きました。だからオールオッケーなナイスバッティングだったと、よくわからない確信を胸を張って表明したいと思います。

ナーイスバッティン! の影響

 この経験は、その後の僕に大きな影響をもたらしました。コミュニケーションは言葉を使って行うので、もちろん言葉は大切です。でも、気持ちが悪循環していたり、もやもやと滞った気分でいる時、言葉でそれを解消しようとしてもうまくいかない時があります。不機嫌な自分を言葉で説得しようとしても、それに抵抗しようとする自分がいるようなのです。

 僕が「ナーイスバッティン! ナーイスバッティン!」で感じた嬉しさは、そのような抵抗を無力化する意味不明な力がありました。意味などなくても、その人のもやもやを晴らす方向に持っていく気持ちの向け方ってある、というか、意味がないからこそ理屈抜きで直接的に高揚感がからだに響くスピード感があるのかもしれません。言語的な意味のなさのなせること。この体感は、自分の中ではとても新鮮でした。

施設でも

 以前、高齢の人が入所して暮らす施設に診療に行った時、みなさんが食事をする場所に集まってとても楽しそうにしている時間に遭遇して、それぞれの人の話に耳をすましてみると、全く話が噛み合っていないことに驚愕したことがありました。その場に流れている楽しそうな周波数のようなものは、皆が共有していて、そこを訪れた僕もなんだか楽しい気分になったのです。でも、仮にその場で交わされている言葉を文字に起こしてそのテキストを読んだとしたら、全く成立しないやりとりになるに違いないというのはとても驚くべきことでした。

 僕は、「ナーイスバッティン! ナーイスバッティン!」体験以降、この高齢の人たちのことも参考にさせてもらいながら、自分がここちよい気分でいること自体がとても大切だと意識するようになりました。もちろん、それまでやっていたように言葉の内容も最大限考えます。自分がここちよい気分でいると、そんな言葉たちの響き方、届き方も、よりパァっとするのではないかと思っています。これはまさに、ないようであるかもしれないもので、数値などで測定することはきっとできません。専門家にこんな話をしたら、笑われるどころか批判される可能性さえ感じます。でも、この意識が自分の中で生まれたことによって、まるで僕のここちよい気分に共鳴するように、診療の中で機嫌よい雰囲気になる人が増えているような気がしています。ここちよさや機嫌よさは共鳴したり伝播したりするかもしれない。これは個人的に、2022年のとても大きな「ないある」的気づきでした。

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星野 概念

星野 概念
(ほしの・がいねん)

1978年生まれ。精神科医 など。病院に勤務する傍ら、執筆や音楽活動も行う。雑誌やWebでの連載のほか、寄稿も多数。音楽活動はさまざま。主著に、いとうせいこう氏との共著 『ラブという薬』『自由というサプリ』(リトルモア)。また、本連載をまとめた『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月にミシマ社より刊行。

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編集部からのお知らせ

この連載が本になりました!

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 本連載をもとにした『ないようである、かもしれない 発酵ラブな精神科医の妄言』が2021年2月に発刊されました!
 刊行を記念して、装画を担当された榎本俊二さんや、人類学者の磯野真穂さんとの対談イベントがおこなわれ、その一部が文章としてミシマガに掲載されています! ぜひご覧ください。

【榎本俊二×星野概念 『ムーたち』ラブな精神科医と榎本俊二の妄言対談】

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【磯野真穂×星野概念 「病む」と「治る」ってなんだろう。~精神臨床と医療人類学の話から~】

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