日本習合論

第11回

W刊行記念 内田樹×釈徹宗「日本宗教の "くせ" を考える 富永仲基と「習合」の視点から」(2)

2021.01.25更新

 内田樹先生の『日本習合論』(ミシマ社)と、釈徹宗先生の『天才 富永仲基』(新潮新書)の2冊の本の刊行を記念するトークイベントを、12月9日にMSLive!で開催しました。

 内田先生と釈先生が、それぞれの本のテーマとなった「習合」「富永仲基」をキーワードに、日本の宗教についてお話されました。「三教(仏教・儒教・神道)はそれぞれ『くせ』がある」と指摘したのは富永仲基ですが、2人のお話からも、日本の宗教史、また文化史が持つ「くせ」を露わになってゆきました。
 本日は、後編をお送りします。

前編はこちら)

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左:『日本習合論』内田樹(ミシマ社)   右:『天才 富永仲基』釈 徹宗(新潮新書)

200年先を行った天才仲基

 富永仲基の天才性は認めていても、ほとんどの人は『翁の文』の「誠の道」でがっかりするんです、内田先生以外は(笑)

内田 (笑)

 「ここまであんなに精緻な論理を組み立てたひとが、最後に提示するのが『誠の道』かよ」、とおっしゃる人が多いんですけど、僕はよくここまで発言したなと評価しています。「神道も仏教も儒教も、共通するのは誠の道を歩めってことだ」などというのは、いろんな人が言えそうなことですが、仲基の場合はその結論に至るまでの膨大な検証があるわけです。単なる印象で言っているわけではありません。しかも、世の人が根拠にしているものには言語や文化のバイアスがあると喝破し、そもそもどのような言説・思想も先人の上書きとか反論で成り立っているんだとして、徹底的に文献を解読します。これだけでもすごいのに、さらにもう一歩を懸命に踏み出して、「誠の道(道の道)」というメタ倫理を語ったわけです。
 それと、この人は「釈迦に帰れ」とも全く思ってないんですよね。釈迦の論理にも瑕疵がある、孔子の論理にも問題点はある、そう述べています。

内田 還るべき原点のようなものを認めない人なんですね。

 テキストを照らし合わせて、思想の展開を解読し、そもそも何を主張しようとしたのかを抽出していくのですが、その際、いかなる権威も認めず、粉飾されたものをそぎ落としてしまいます。そして、文化特性や言語パターンも踏まえた上で、「誠の道」の考察へと至ります。これはまさに現代の思想研究の方法論です。当時の人たちには、ここがうまく理解できませんでした。『出定後語』を読んで、国学者や儒学者は仲基を仏教批判の人だと受けとりましたが、『翁の文』も読んでいたら、そんな結論になっていなかったと思います。

内田 「翁の文」は刊行されなかったんですか。

 刊行はされたのですが、ほとんど流通しなかったようです。『出定後語』でさえ希少本だったようで、平田篤胤が入手するのに苦労しています。
 考えてみたら、『出定後語』は当時の人が読んだら仏教批判書で、現代人が読んだから仏教学の良書になるというすごい稀有な本です(笑)。我々が慣れ親しんだ近代の学問の方法論によって書かれているのですが、これは仲基以前にはどこにもないわけでして。西洋の学問の影響を受けたわけでもないので、まったくのオリジナルで思いついたんですよね。

内田 天才ですよね。科学性とか学術性とかいう概念がなかった時代に、学術性とはこういうものだと提示したわけですからね。

 はい、そうなんです。その研究対象が、権威をまとった宗教聖典であるところが重要です。まだキリスト教が『聖書』のテキストクリティークが始まる前なんですから。やはり天才と評したくなります。
 他にもすごいところはたくさんありまして、たとえば、今回の本には仲基の『楽律考』を取り上げています。仲基の著作で出版されたのは『出定後語』と『翁の文』の二冊だけなのですが、昭和の時代に未出版の『楽律考』の原稿が見つかりました。現在確認できる著作はこの三作でして、三つとも取り上げているのは拙著だけだと思います。この『楽律考』では、周の音律と漢の音律は二律違っているということが指摘されています。これは本場の中国でも誰も気づかなかったらしくて(笑)。当時の日本の雅楽は、周・漢・隋・唐と伝えられてきたものが残っていると考えられていました。中国でもきちんと残っていないのに、唯一日本だけに残っていると考えられていたんです。しかし、「周と漢の音律は二律違っている」と仲基は言い出した。なぜなら、周の時代と唐の時代では長さの単位が違うからです。音律は木管や鉄管などの長さで定まっていたんです。基準の管によって音と度量衡が決められていたのです。しかし、たとえば「九寸の長さ」といっても時代によって違うこと、それに加えて周・漢の鉄尺律から、隋・唐の時代にできた水尺律に変わってしまっていること、それらをエビデンスとして音律が変化していることを証明します。この仲基の主張は正しかったというのが近年の研究でわかったそうです。

内田 歴史学的な訓練を相当積んでいないと、そういう発想って出てきませんよね。誰だって今自分の目の前にあるものを客観的実在だと信じ込む。それが、仲基の場合は、今自分の目の前にあるものにも主観的なバイアスがかかっている。だから、私にはこのように見えるが、他の社会集団の人には違うように見えるのかもしれない・・・というふうに自分の判断を「宙吊り」にする作法って、僕らにとっては構造主義以後ですからね(笑)。それを200年以上前にやっていたとはすごい人ですよね。

kuse6.png左:釈徹宗先生、右:内田樹先生

崇められ方がコロコロ変わる「聖徳太子信仰」

 私が『日本習合論』を読んでいて、典型例のひとつとして思い浮かんだのは、聖徳太子信仰です。聖徳太子信仰は、日本独特で実におもしろいなあと思うんです。まさに多様な習合形態でもありますし、正体不明で、きちんと理論化できていないんです。聖徳太子はいつの世にも独特の信仰を集める存在です。架空人物説もありますが、信仰の問題とはフェーズが異なるのでここでは取り上げません。
 聖徳太子については、奈良時代にすでに様々な伝承が生まれていて、信仰が生まれています。亡くなってすぐに神格化したと考えられます。中国の慧思(えし、中国南北朝時代の僧。中国天台宗の開祖・智顗の師)禅師の生まれ変わりである、という信仰はかなり早くに成立していたようです。中国の鑑真は「日本の聖徳太子は、わが国の慧思禅師の生まれ変わりと聞く。だから日本に行かねばならない」と語ったとされています。
 平安時代になると観音菩薩の生まれ変わりとして信仰を受けます。観音信仰と太子信仰は一体となって発達していきました。親鸞などは観音の化身としての太子を篤く信仰しています。そして「和国の教主(日本の釈迦)」として敬慕されています。
 中世になると一部の神道では反対に、「聖徳太子は仏教の祖ではなく神道の祖だ」、との信仰が生まれます。また、蘇我氏と物部氏との合戦に勝利した軍神としても祀られるようになります。
 その一方で、「聖徳太子は日本の神々を排斥して、仏教を日本に取り入れた国賊だ」などとされて、廃仏毀釈の標的にもなっています。強く非難された時期もあるんです。と同時に、大工さんや鍛冶屋さんなど、職人さんたちによる太子信仰はずっと継続されていまして、これは現代にも続いています。
 そして近代になると、日本文化を高く評価しようという運動から、様々な文化を生み出した人、なおかつ大国と対等の外交をした人物として新しい評価が盛り上がります。さらには、憲法の元祖だ、という近代独特の信仰が生まれていくんです。

内田 (笑)

 さらに、軍国傾向が強くなるにつれて、聖徳太子が言ったとされる「承詔必謹(しょうしょうひっきん)」(天皇の詔は必ず承らなければならない)によって・・・。

内田 へえ、あの言葉は聖徳太子が元なんですか。

 そうなんです。その言葉で天皇絶対主義者の確立者として祀られるんです。そして戦後は和の精神を説いた人物として、民主主義とか平等主義者と語られるようになります。
 これほど信仰の内実がコロコロと変わる人は世界的に見てもなかなか他にいないんじゃないかと思います。
 ですから、神仏分離も短期間で起こりましたが、ある信仰形態がすごい感染力で上から下まで劇的に変化することって、起こるんですよね。

内田 おもしろい! 聖徳太子信仰っておもしろい。

 太子信仰は時代や地域によって色彩を変えながら、日本各地に根を張っています。でもその正体はよくわからない。
 我々はついつい現存する宗派に目を奪われがちですが、正体不明でありながら根強く続いている太子信仰みたいなものに目を向けないと、見えないものがあるのではないかと思いますね。もちろん聖徳太子信仰に基づく和宗という宗派もあるのですが、それは聖徳太子信仰の全貌ではないわけです。聖徳太子信仰のようなものにこそ、日本宗教のくせが宿っているのではないかと思います。

内田 ぜひ太子信仰について書いてください。読みたいです(笑)。聖徳太子は歴史的に実在した日本人で信仰の対象になっている人の元祖でもありますよね。

 はい。神道ではしばしば特定の人物を神として祀りますが、太子の場合は仏教において菩薩として信仰されているわけでして、そこが大きな特徴です。しかも理想の政治家・思想家としても信仰されています。太子信仰はその時代の人々の欲望を映す鏡のように変貌しながら、息長く続いているんです。

「頭がいい」から「頭がでかい」知性へ

 内田先生は『日本習合論』のなかで、今、日本の習合的信仰、習合的知性が立ち上がってきているのではないか、ということを書いていらっしゃいます。それは、かつてあったものがもう一度復興しているということなのでしょうか? それとも、かつてあったものが今また新しく螺旋状に深化した形で生まれつつある、ということなのでしょうか?

内田 やはり近代の限界というものがきていると思うんですよね。資本主義のシステムがもう賞味期限が切れて、あちこち壊れてきた。もうこのままでは資本主義システムそのものが持たない。人口減や気候変動などの出来事は前代未聞のものです。先行事例がない。だから、「こうすればうまくゆく」という経験知が適用できない。「まず正しい社会理論を立ち上げて、それを現実に適用していく」というやり方が使えない。「正しい/間違っている」というデジタルな図式をまず立ち上げるのではなく、皮膚感覚や直観といった、生物が具えている生き生きとしたセンサーを駆使して、「ここから先は危ない」とか「これはそのうち何かに使えそう」とか「あの人についてゆけば大丈夫」というような細かい決定をひとつひとつ積み重ねてゆくしかないと思うんです。

 二項対立的な考え方はやめて、矛盾は矛盾のまま抱えようじゃないかという態度ですよね。ただ矛盾を矛盾のまま抱える、ということを可能にする豊かな知性と高い身体性がいるわけですね。

内田 そうなんです。これまでは「切れ味の良い」知性が高く評価されました。どんな難問でもスパッと一刀両断できるようなシャープな知性が求められた。でも、そういう切れ味のいい知性って、今みたいな時代にはあまり役に立たないんです。ことの正否を急いで決めつけずに、いろいろな仮説を未決状態のまま走らせることができる「大きな知性」の方が役に立つと思います。「頭がよい」よりも、「頭が大きい」「頭が丈夫」ということを重く見たほうがいいのではないかというのが僕らのご提案なんです。

 丈夫な頭、タフな頭、しぶとい頭(笑)。足腰が弱い頭だと、シンプルなわかりやすい話に飛びついてしまうのですね。
 内田先生にお声がけいただいて執筆した『ポストコロナ期を生きる君たちへ』(晶文社)のなかでも書いたのですが、東洋には「ロゴス」だけでなく「矛盾を矛盾のまま置いておくところに大変クリエイティブな知性の道筋である「レンマ」という論理を大事にしてきた歴史があります。しかし、いつの間にか「ロゴス」に「レンマ」が駆逐されてしまっている。「レンマ」はまさに習合論的です。そこに膨大な伏流資源がありますので、そこへポンプをさして吸い上げるようなことに取り組むのはどうでしょうか。

内田 矛盾を矛盾のままにしておくことで、知的スキームそのものが矛盾を解消できるようにヴァージョン・アップしてしまうということって、ほんとうにあるんです。「人間は葛藤のうちで成熟する」というのは僕の経験則ですけれど、これは知性の働きについても言えるんじゃないでしょうか。

ミシマガ編集部
(みしまがへんしゅうぶ)

編集部からのお知らせ

2月23日(火・祝)内田樹×後藤正文 対談「習合と音楽~創造と創作をめぐる対話」開催します!

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新たな代表作『日本習合論』にて、「外来のもの」と「土着のもの」が共生(=習合)するとき、日本文化の創造性がもっとも発揮されると指摘した内田樹先生。『日本習合論』発刊記念対談の第4弾となる今回は、「ASIAN KUNG-FU GENERATION」のフロントマン、そしてソロではGotchとして楽曲制作をし、第一線でロックの旋律に日本語の歌詞を載せることを深めてこられた後藤正文さんをお相手にお迎えします。日本の音楽は「習合」という切り口から語ることができるのか、また習合と創作の関係をめぐって縦横無尽にお話しいただきます。

開催日時:2月23日(火・祝)14:00~ 15:30
開催方法:MSLive!(オンライン配信)
定員:150名(増員あり)

詳細・チケットのご購入はこちら

本対談のアーカイブ動画を、期間限定配信中です!

aa409e60e3c15be83503.jpg本対談のアーカイブ動画を、2/28(日)までの期間限定で配信中です! ぜひ動画にて、両先生のお話を全編通してご視聴くださいませ。

詳しくはこちら

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