第5回
松村圭一郎先生に訊く「先生、文化人類学ってなんですか?」(後編)
2020.04.29更新
こんにちは。京都オフィスデッチの小池です。今日のミシマガは昨日に引き続き、松村圭一郎先生へのインタビュー後編をお届けします。「先生、文化人類学ってなんですか?」をテーマにして、今まさに文化人類学を学んでいる(4年目!) 私が、これまで学んできて思ったこと、今悩んでいることなどを先生に率直にぶつけてみました。
(聞き手、構成:小池聡実)
人類学は日記や体験記じゃない!
ーー私も台湾の原住民のムラでその土地のお祭りに参加したのですが、そのとき、ほんの少しですがフィールドについてわかったこともありました。でもただの体験として受け取っただけになってしまっていると自分で思います。だから卒論に少し手をつけてみても、やっぱりなんだか日記みたいになってしまって・・・。
松村 今の時点では、自分が何を見てきたかを淡々と整理することしかできないと思う。でもそれはやっぱり人類学ではないんですよ。
ーーそうですよね。
松村 それを「学問」にすることが必要で、そこまでには長い道のりがある。私たちが材料にするのは、現地で見聞きしたことだけではないんだよね。過去に調査した人の記録とか、別の地域の事例、そういう別の情報や先行研究をできるだけ集める必要がある。そうするといろいろな情報との突き合わせの中でまたわからないことが出てくる。現地で聞いた話と本に書いてあることが違うとかね。そうやって「問い」が生まれてくるんです。
ーーまだその作業が私には足りていないなってすごく思います。
松村 自分がただ体験したところからいったん自分を引き離して、直接は関係していないかもしれないけど共通性のある事柄なんかをちゃんと調べなきゃいけない。そうする中で自分が見聞きしたことだけが、ひとつの事実ではなくて、まだいっぱい見ていないこと、聞いていなかったこと、聞くべきことがあるって気付くはず。だから1回で調査が終わるなんてことはないし、もう1回フィールドに戻っていかなきゃいけない。でもそのときに、そもそも自分は何を問いにしてるのかっていうことをだんだん明確にしていく。自分が見聞きしたことを人類学の研究にするには、自分は何を考えるためにそれを観察したのかっていうことを、どんどん研ぎ澄まして見極めていかなきゃいけない。それは何にする?
学問は問いの立て方で決まる
ーーお祭りとかに参加する人もいれば、参加しない人もいるんです。でも私が知り合った多くの人が、原住民の文化を積極的に守っていこうと活動している人でした。だからその人たち側から伝統を守ることについて見ていけたらと・・・。
松村 それでいいの? 伝統文化を守ろうとしない人のことは無視するの?
ーー・・・無視したくはないです。
松村 そのどこに問いがあるのかって感じだよね。守ろうとしてる人がいるのに、守ろうとしてない人もいるっていうのが現実なわけ。結局学問ってね、問いの立て方なんですよ。この問いの立て方で決まる。
ーーうっ、すみません・・・。
松村 深める価値のある問いを立てるか、それとも答えの見えてしまう問いを立てるかによって、だいぶ道のり変わってくる。できるだけ安易に答えが出ないような問いを立てた方がやってて面白いでしょ。だって文化を守りたい人がこうやって守ってますっていう話は、別にそれはそうでしょって思うよね。
ーーそうですよね。でも少し、卒業論文という、期限がある中で行う研究の問いを立てるのが難しいなって思う部分もありました。以前読んだ本にも、論文の問いを立てるときには「射程を見据える」とあって、それを期限の中で手に負える、できそうな問いを立てると解釈したというか・・・。
松村 なるほどね。もちろんそう。だから困難すぎるのはだめだけど。もう少しチャレンジできる気はするね。つまり、仲がいい人から話を聞くのはまず第1段階、でもその人たちと違うふうに祭りを見てる人たちがいるってもうわかってるわけでしょ。じゃあやっぱりその人たちのことも聞いてみたいよね。
ーー確かに、気になります。
松村 つまり、ここにはこういう伝統があって、こうやって守られていますっていう話はもう散々研究がやられてきてるわけ。でも昔と今でこの「守ってる」の意味が違う。そばに参加しない村人がいる中とか、テレビとかインターネットで娯楽がいっぱいある中で、その何日間もかかるお祭りをやることの意味は全然違う。だから今の時代に小池さんがやる意味を考えなきゃいけない。祭りに関心をもたない人たちも現代の風景で、その祭りを取り巻く状況だし、小池さんが今の時点でその祭りに出会ったことの意味を大事にできればいいね。
ーー頑張ります。
見えないコンテクストを見る
ーーあの、「文化人類学とは何か」という問いに戻るのですが、私が入っているゼミの中谷先生が「長い会議はなぜ長いのか」という話をこの前していました。そして長い会議のとき、主催しているあの人が会議を長引かせるのは、男性で家に帰ってご飯を作らなくていいからかなと考えたっておっしゃっていて。
松村 はははは。そうだね~ご飯作れ(笑)
ーーそれまで退屈していた長い会議を構造的に理解できるというか、なぜ長いのかという問いをそもそも考え付くって、人生にとって面白いなと思いました。またそのとき中谷先生が、文化人類学をやっているから私は人生がつまらなくないんだともおっしゃっていて、それに感動しました。文化人類学はそういう人生が楽しくなる気付きの視点を与えてくれるものなのかというふうにも思ったのですが。
松村 デンマークで行政機関のイノベーションを手掛けているクリスチャン・ベイソンという人が、今必要なのは、デザイナーと人類学者で、その2つは「センスメイキングをしていること」が共通点だっていう言い方をしているんだよね(若林恵編『次世代ガバメント』黒鳥社)。それはまさに今の事例にぴったりあてはまる。私たちの行動ってその行動だけで意味をなしているわけではないんですよ。
ーーどういうことですか。
松村 今私はこうやって文化人類学とは何かってしゃべっているけど、これをもし私が校門の前に椅子を出して、「人類学とは・・・」ってひとりでブツブツしゃべっていたら、警察を呼ばれるかもしれない。
ーーみんな遠巻きに避けながら通っていく感じかもしれないですね。
松村 でも同じことをしてるんだよ。同じように手を組んで「文化人類学とは・・・センスメイキングが・・・」って話している。ここからわかるのは、私の行動の意味を決めているのは私の行動ではないってこと。コンテクストなんです。
ーー文脈ですか。
松村 コンテクストが私の行動の意味を決めているのに、ふつう世の中の人はその人のことしか見ようとしない。「あの人は変だ」とか、「日本人の会議は長い」とか。でも状況を含めて、その状況がどんなコンテクストにおいて起こっているかをきちんと見ていくっていうのが人類学では大切。だから例えば人に知りたいことを質問して、それに答えがくる。でもそれが答えだとは思わないんです。私に質問されたというコンテクストを抜きにして、その回答はありえないから。テレビでカメラを向けられて聞かれるのと、無記名のアンケートでどう思うか答えるのは全然違うよね。私たちは状況に応じて違う意見を言ってしまう存在だし、同じ個人でも違うことを言いうるし、別の状況では同じ言葉が違う意味になる。
ーー確かに、状況や話す相手によって意見や態度が変化するのはよくあることだと思います。
コンテクストをむやみに切り取らず、センスメイキングする
松村 だから人類学者は対象と関わるとき、全体をなるべく視野に入れようとする。それはある行動の意味が、そこだけで決まらないっていうことをわかっているから。それがセンスメイキング。コンテクストとその行動にどんなつながりがあって、これがどういう意味をもっているかを考える。だからむやみに切り取らない。さっきの会議が長いことについて、中谷先生は人類学的センスで、見えないコンテクストとある人の行動とのつながりを見つけた。退屈な私も含めて、そこに男女の仕事の仕方の違いとか、人生の過ごし方の違いみたいな構造がバーッと見えたときに、モヤモヤ、退屈している意味がふわっとセンスメイキングする。
ーー切り取らないって本当に大事ですね。
松村 だからさっき、「なぜ文化を守ろうとする活動をしていない人のことを見ないの?」って聞いたのは、小池さんはそれもすでに見えているわけでしょ。見えているのに、それを無視する。活動をしている人は守ろうとする理由を説明してくれる。でもそのことだけでは、それがもつ意味はわからない。その単体で意味は構成できない。祭りなんて古くさくてやりたくないとかいう人がいる状況にあるからこそ、やろうとしてることの意味が逆に浮き彫りになる。やっぱりそれは自分の行動、自分が見聞きしてきたことすらも、ちゃんと状況の中で判断しようとしているということ。そこがだいぶ他の分野とは違う。例えば心理学の実験のバイトとかしたことない?
ーーまだないです。
松村 実験バイトに参加した学生に聞いた話だと、モニターに出てくる顔が、いい印象か悪い印象かを判断して5点満点で採点するとかね。
ーー顔だけを見て。
松村 例えば目が大きいのがいいのか悪いのか。人間の顔のパーツによってどう人の印象が変わるかみたいな実験だよね。もちろんそういう人間がどこに目を向けるのかっていうのも確かに知る意味はある。でも、むちゃくちゃ切り取られてる。私たちが人間と出会うときって、顔のパーツとだけ会うなんてほとんどない。まあお見合いとか、写真だけ見るみたいなのはあるけれど、でも別に写真と結婚するわけではなくて、実際に人間と会う。仕事もそうで、就活のためのメイクアップ講座とかもやってるよね。
ーーこの前行ってみました。
松村 面白すぎるでしょ。まさに顔のパーツとして私を売るみたい。顔のパーツとして仕事をするわけではないし、同僚も顔のパーツだけ良くても仕事ができなかったら意味がない。だから私たちが人間と関わるっていうのは、本当にコンテクスト込み。でもそこに明確な因果関係を証明しようとすると、多様な要素をかなり単純化して切ってしまう。お金をもらってバイトで、顔を見る、ボタンを押すという、この実験のコンテクストは中立的で客観的だというふうにやっているけれど、実際はすごく特殊なコンテクストだよね。ほぼ現実世界ではない状況で、そこの印象を問われている。
ーー現実での状況とはかなり違います。
松村 うん。だから現実には、どういう関係として出会うか、どういう場で出会うかで人の印象は変わる。さっきのクリスチャン・ベイソンはそういうコンテクストへの深い理解が今必要な思考だって言っている。つまり知識っていうのは、誰かが「正しい」という答えや成功事例を違うところにも当てはめればいいものだってみんな思ってしまう。でも例えばミシマ社と、大手出版社が同じソリューションになるわけないよね。
ーーそれぞれまったく違うはずです。
松村 人が違う、場が違う、歴史が違うんだから。このシステムを入れたらどこでも解決します、なんてそんな万能な答えは、つまりコンテクストを無視した捉え方。でもそうではなくてこの現場には何が起きていて、足りないものは何かっていう問いへの答えは、その現場にしかない。どっか外側に知識としてあるわけではないんだよね。だからこそ、文化人類学はひとりの等身大の存在として現場に深く関わって、その具体的な場所から考えることを大切にしてきた。
ーーそれぞれの状況や場所で、その背後にある見えない背景、事情とかもすべて含めて思考することが文化人類学という学問だけではなく、今の時代にとって必要なことなんですね。今日先生とお話して、文化人類学という学問の考え方を、ただ授業で受け取るだけではなく、これから生きていく上で自分自身が実践していきたいなと思いました。
(おわり)
日本では「原住民」という語のもつ差別的なニュアンスから、「先住民」という語を使う事が一般的となっています。しかし台湾では地位と権利を自覚した原住民自身が「原住民」という語を用い、その呼称を社会運動によって獲得してきたという歴史的背景があるため、本記事でも「原住民」という呼称を用いています。
編集部からのお知らせ
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