第6回
フィクションを超える強いフィクションをつくる 松原俊太郎さんインタビュー(2)
2020.05.17更新
劇作家の松原俊太郎さんへのインタビュー、後編をお届けします。
実は戯曲を読んだことがない・・・演劇も数えられるほどしか見たことがない。そんな演劇初心者の私が、それでも会いたい! と思ったのは、いくつかのインタビュー記事や寄稿の中で松原さんが発したこの言葉について聞いてみたかったからでした。
「声のための場所を作りたい」
この人は、どんなふうに、声と言葉と付き合っているのだろうか。戯曲と小説それぞれでの挑戦、観客と読者の存在について、いま書くということ・・・制作にまつわる話をたっぷりとお届けします。
(聞き手、構成:野崎敬乃)
松原俊太郎(まつばら・しゅんたろう)
劇作家。1988年、熊本県生まれ。神戸大学経済学部卒。2015年、処女戯曲『みちゆき』で第15回AAF戯曲賞大賞受賞。2019年『山山』で第63回岸田國士戯曲賞を受賞。小説『ほんとうのこといって』を「群像」(講談社)2020年4月号に寄稿。主な作品に『忘れる日本人』『正面に気をつけろ』『ささやかなさ』等。2020年度セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。
戯曲を書き、小説を書く
――「ほんとうのこといって」(『群像』2020年4月号)のように、松原さんはこれまでに小説も書かれていますね。戯曲と小説を書くのはどんな感覚ですか?
松原 今回「ほんとうのこといって」を書いてみて、小説と戯曲は必要な筋肉が全然違うなと思いました。小説だと、自分が書くにあたってもっとやれることたくさんあるのに、もっとたくさん書けるはずなのにって思ってしまいます。
――やりたいことがたくさんあっても、まだできていないことが多いということですか? 具体的にはどんなことですか?
松原 描写や物語ですね。戯曲の場合は、俳優と舞台がすごく強いんです。上演を前提にして書くというのは書き手にとってはものすごく大きい。小説の場合はそうした前提がないので、本当に自由。自由な平面があって、読者もどこで読むのを中断してもいい。その自由さみたいなものをまだ全然使えてないなと。
――松原さんの作品を読んでいると、登場人物たちが言っていることばが、いま私がほんとうに言ってほしかったことだ、と感じることがあるんです。たとえばこういうことばです。
声にはそういう力がある。誰がどのように言うかは、大問題だ。ネット上で議論する前にまず声を発してみたらいい、言うべきことと言わぬべきことは声を出すという行為によってふるいに掛けられる。(松原俊太郎「ほんとうのこといって」『群像』2020年4月号、322頁)
ひと声、たったひと言、喉の奥から出しさえすればナマの世界に色は戻ってきます。(同上、325頁)
個人的な意見になりますが、公的に発言する立場にいる人のことばが信じられないことが往往にしてあります。ことばが軽んじられて、平気で嘘をついたり、前言撤回すれば全然大丈夫、という空気が蔓延しているせいか、ことばに対して、人の声に対して、信憑性が薄らいでいます。でもやっぱり人間が発する声が大事で、ことばが持っている力って結構重要で、ということを登場人物が強い声で言ってくれているように感じるんです。変な聞き方になりますが、松原さんが、この作品に限らず書くことを通してやりたいと思っていることというのは、いま私に届いているようなことですか?
いま、ことばを書くこと
松原 それは常に考えていることで、最初は書く意味なんてないんです。仕事で依頼がきたから書く、そういう受け身の姿勢です。でもそれではもちろん書けない。「好きなこと書いてください」とよく言われるけど、そんなことすればまあひどいものが出来上がりますよ。
本屋に行けば戯曲のスペースはごくわずかだけど、すでに本はたくさんある。面白い本もたくさんある。その中にまた新しいものを書くなんて・・・もちろん、自分が書きたいこと、書かなければならないと思うことっていうのはずっと抱えてますけど、ものすごく漠然としてるし、まだそれにはかたちが与えられていない。書くのは毎回、そういう無力なところからはじまります。
社会に蔓延している信用できない言葉たち、っていうのはたいてい紋切り型だと思うんですよ。それをみんなわかった上で「そういうことを言うのは知っているしよくわかる。でもあなたは本当は何を思っているの?」みたいなことをああだこうだ言い合っているわけですよね。やりとりの答えも決められた範疇から出ることはほぼなくて、再認してハッピーエンドでつづく、ある意味で平和ともいえる。そこでつくられているのがフィクション、社会一般というフィクションみたいなものだと思います。
それとは違う、それよりも強いフィクションをつくらないといけない。そうじゃなきゃ声は聞こえてこない。紋切り型を裏切るもの、再認ではなく改めて出会い直すものをつくりたい。だからまずは社会の諸々の紋切り型でつくられているフィクションを崩していかないといけないんです。これが退屈な嘘だっていうことを。
それは戯曲なら台詞の中で一行で済んだりするんですけど、小説だとそうはいかない。上演する身体があれば、ある場所で身体を動かして発語すれば強度みたいなものがつくれるから声とその声が発せられる状況を書けばいい。けど、小説だと場所や背景、身体、状況をもっとしっかり描写しないと成立しない。そこにいる人物たちのパースペクティヴをちゃんと描かないと強いフィクションはつくれない。
だから、さきほど挙げられた登場人物のことばみたいなものは、多分、声としての言葉みたいなものなんだと思います。
――なるほど。これは上演であれば声の強度として表出していたものということですか?
松原 はい。でも、それが小説でも成立するとは思っています。小説でも声の強度は出せるし、戯曲とは異なる声のあり方を提示できるはずだと。読者が小説を読むことを上演とするなら、そのそれぞれの上演で起きていることに興味があります。「ほんとうのこといって」は小説と戯曲の違いをかなり意識していて、小説にできることはなにかっていうことをすごく考えましたね。
声のための場所を作りたい
――松原さんがこれまでいくつかの寄稿やインタビューで「声のための場所を作りたい」とおっしゃっているのが印象に残っています。
「本を読むときも、友人と他愛のない話をするときも、街に出るときも耳を澄ませておくこと。私は声を聞こえるようにするために、声のための場所を作りたいと思うようになり、戯曲を書き始めた。」(京都新聞2019年4月17日)
松原 ことばの場所、声の場所を作るということに関して言えば、東京を拠点にしている文芸集団の「いぬのせなか座」という人たちがいて、5人のメンバーがそれぞれ関心のあるテーマに取り組んで、集まった時にテーマを持ち寄って議論したり、Google Driveを使って座談会のようなことをしています。それが近いかもしれない。
生活していると言葉の無力さとか信用のなさにたびたび直面するんですけど、それに一人で抗って作品をつくり続けていくというのは当然していかなきゃならない。でも自分は基本ひきこもって生活をしているので、そうするとだんだん現実との接点が薄れていくんです。その現実から遊離してる、稀薄さを存分に使ってきたところはあるけど、なかなかきつい。日常の生活の中においては、制作者と制作していない人たちのあいだ、みたいなものがあんまりないなと感じてしまうんです。この「あいだ」を見つけたい。
小説は読まれて、感想を言ってくれたり送ってくれたりしてくれる人がいて大変励みになる。「私の感想なんて・・・」と思っているひとは考えを改めてほしい。でも、基本は読まれて終わり、とされてますよね。こうやって、これまで戯曲や上演における観客や小説における読者は作品の外部とされてきたけど、実はそれは誤りだったんじゃないか、内や外とは明確には言えない場所にほんとうはずっといるんじゃないのか。観客の姿を見て、読んでくれた人たちの言葉を聞いて、つねづね考えていることです。
――すぐにイメージできなくても、それはなんだかいい感じがします。
松原 観客や読者の話からはズレますが、そもそも戯曲は共有できるものとして、使えるものとしてある。戯曲さえあれば一つの戯曲を使っていろんな劇団が上演できる。
――単に松原さんの個人の作品として終わらずに、他者が使ったり、編集したり、自分たちのものとしてアレンジしたり、共有のものになるということですよね。
松原 作品を書いているときは、共有できるものにするためにとか、使ってもらえるようにとか、上演のためにとかは一切考えてないんですが、そもそも戯曲という形式自体が身体と声と場所さえあればいかようにも使える形式である、これは戯曲のおもしろいところだと思います。使われなければ戯曲も作者の心も腐っていきます。使用され、その成果を見て、また書き直し、新しいものを作っていく、そうやって外と関係していけたら、とてもよいです。
(終)
編集部からのお知らせ
ロームシアター京都2020年度自主事業として、劇団「地点」と松原俊太郎さんによる最新作「君の庭」が今年9月に上演されます。
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地点『君の庭』
日時:2020年9月予定
会場:ロームシアター京都 ノースホールなど(予定)
作:松原俊太郎
演出:三浦基
出演:安部聡子、石田大、小河原康二、窪田史恵、小林洋平、田中祐気
主催:ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)、京都市
共同製作:ロームシアター京都、穂の国とよはし芸術劇場PLAT、KAAT神奈川芸術劇場