第7回
フィールドで学ぶ、生活者の経済としてのフェアトレードとは?――箕曲在弘さんインタビュー(前編)
2021.07.09更新
こんにちは。新人の角です。ミシマ社メンバーが本気で会いたい人に会ってお話を伺う企画「教えてください。」が、今回久しぶりの復活となります。
新人の私がお会いしたいと望んだのは、人類学者の
私は学生時代に少しだけ人類学を勉強し、この春からは、言葉にたずさわる出版の仕事を学びはじめました。生活者としての実感が漂白されない言葉によって、遠い場所と自分とのつながりや、「オルタナティブな経済」と呼ばれるものを考えることができるだろうか、という素朴な疑問が浮かんだとき、ぜひ取材してみたいと思ったのが箕曲さんでした。
フェアとは何か? 「連帯」という言葉をどう捉えるか? 「わからない」を評価する教育の意義とは? インタビューの内容を、2日間にわたってお届けします。
(取材・構成 角智春)
(左:『人類学者たちのフィールド教育』ナカニシヤ出版、2021年、右:『フェアトレードの人類学』めこん、2014年)
フェアトレードを生活の全体像のなかで考えたかった
――箕曲さんが人類学の手法で、ラオスをフィールドにしてフェアトレード研究をしようと思われた経緯を教えてください。
箕曲 私は、大学生のときに短期ではじめてラオスに行って、そのときの印象がすごく良かったんです。ラオスは社会主義国家であるため長期調査がしづらいのですが、幸運にも指導教員を通して調査許可を取ることができました。ほとんど長期で入れないような場所に行けるとしたら良い経験だと思い、フィールドにすることにしました。
ラオスは水稲耕作が盛んで、メコン川沿いにのどかな田園風景が広がっています。あるきっかけから、そんなラオスでもコーヒーを作っていることを知りました。そこからコーヒーについて勉強するうちに、「フェアトレード」という言葉を見つけたんです。2006年頃のことです。当時の日本ではフェアトレードという言葉をほとんど聞きませんでしたが、市場経済のネガティブな影響を是正していく運動だと知って、おもしろいと思いました。(*フェアトレードとは、グローバルな資本主義や新自由主義と呼ばれる経済システムによって、発展途上国の小規模生産者や労働者が不利益を被る事態を問題視し、より公正な貿易を目指す運動です。)
私は、グローバルな制度とローカルな人びとの生活とのつながりを研究したいと考えていました。コーヒーはグローバルな市場で取引される一次産品の代表格ですから、「コーヒー生産者」という切り口はすごくピンときたんです。そして、フェアトレードに巻き込まれていくことが現地の生産者にとってどういう経験なのかということに興味を持ちました。
――なるほど。
箕曲 フェアトレードを調べていると、こんなのうまくいくのかな? と疑問が湧くんです。全世界統一の最低保証価格を決めましょうとか、民主的な組織を作りましょうといったことは、一見当たり前のようですが、いかにも先進国的な価値だなとも思える。これがラオスの農村で通用するのかな、と。そこで、現地でちゃんと調査するということを研究の柱にしました。
人類学なので、人びとの生活全体をどう見るかという視点が大切になります。現地に住んだ上で家計調査をして、お金や資源の出入りを一軒一軒調べていったら、生産者の生活の全体像の中にフェアトレードを位置づけられるかなと。
――箕曲さんの本を読むと、フェアトレードが生活者の経済の一部として実践されていることがよくわかります。たとえば、フェアトレード団体が生産者から高めの価格で豆を買い取ったとしても、支払いが分割払いになることを考慮すると、いつでも即金で買い取ってくれる現地の仲買人に安く売るほうがいいと考える人もいる。また、生産者の協同組合も、村の社会関係のなかにあるかぎり、民主的な組織とか、透明性ある取引とは必ずしも言い切れないかたちで営まれている。商品の向こう側にある生身の暮らしが伝わってきます。
(フィールドとなったコーヒー農園。※以下、写真はすべて箕曲さん提供)
ふわふわした言葉のままで普及活動しない
箕曲 私がフィールドワークから帰ってきた2009年ごろから、日本でも大学生によるフェアトレード運動が活発になりました。ただし、日本のフェアトレードの主体は企業か、それと連携する学生団体くらいです。欧米ではキリスト教系の団体が市民活動としてフェアトレードをやっていますが、日本にはそういう基盤がほとんどないので、市民社会レベルではあまり普及してこなかったんです。
――日本では、国内において農家から無農薬野菜を買うといったやりとりはけっこうあると思います。でも、フェアトレードのように舞台が国際的になると、突如として、自分と生産者がつながっているという実感がなくなる気がします。
箕曲 日本には「産消連携」、つまり農村の生産者と都会の消費者が直接やりとりをする、いわゆる生協に代表されるような運動が根付いています。そこと、外から入ってきたフェアトレード運動はうまく重なってきませんでした。
日常生活でコーヒーを飲んでいても、その背後の関係において何がフェアであり、何がフェアでないか、ということは実感しがたいと思います。ピンとこないですよね。
――日本においてフェアトレードをやることには、独特の困難さが伴うのでしょうか。
箕曲 そうですね。私はフェアトレードコーヒーを販売する学生団体を作って活動しているのですが、学生たちに接すると、フェアトレードを、現地の人を助けてあげるというような上から目線の行為だと解釈をしている人がけっこういます。「フェア」という言葉にネガティブな印象をもつ傾向が強くて、あまり使いたくないと。その一方で、「なんかいいことをやってるんだな」というぼんやりした感覚をもつ人も多いです。いずれも「なんとなく」で済んでしまっていて、突き詰めて考える対象ではないということですね。
ふわふわした言葉のままでフェアトレードの普及活動をするのは、地に足のついていない、空回りの自転車を漕ぐようなものです。現地に行って農家さんに接すると、それまでのイメージは大きく変わっていきます。
――フェアトレード運動をやる人がいる一方で、ただ消費者としてフェアトレードに関わる人たちもいますよね。現地のことが詳細にわかっていき、それを情報として買い手側に伝えるということは、購買行動にも影響を与えるでしょうか。
箕曲 欧米では、日本よりも圧倒的にたくさんのフェアトレード商品が売られています。以前イギリスに行ったとき、スーパーマーケットのコーヒーの棚がすべてフェアトレード製品、ということもよくありました。すると、消費者は、目の前の製品がフェアトレード製品であるかどうかをわざわざ意識しなくなるんですよ。
この状況について、フェアトレードが普及しても消費者の意識の変化が起こるわけではないという批判がよく出ます。だけど、私はその批判には無理があると思っていて。多くの消費者が生産者を意識しながら生きるとか、「連帯する」とかは、ちょっと無茶なことだろうと考えています。
私は、積極的に活動をする人たちのほうがちゃんと生産者と対話できるようになればいいと思っています。具体化・血肉化されていない言葉をもって行動すると、自分たちの生活をよりよくしたいと本気で考える生産者とのあいだにズレが生じるので。
「おいしさ」と「公正な取引」は別問題?
――「有機栽培」「安全・安心」「フェアトレード」といったパッケージで商品が売られていると、その記号をよりどころにして買う事態が生まれる気がします。このとき、単純に「このコーヒーはおいしい」とか「この野菜のほうが体にいい感じがする」といった、記号や論理ではない、消費のよろこびの問題はどうなるのかなと思います。
箕曲 安全・安心マークにせよフェアトレードにせよ、記号があることが製品を選ばせるということは、いまの社会では当たり前になっています。私たちの生活では、生産者と消費者はかなり分断されていて、流通ルートを自分の眼で確認することはできないので、ある程度はどうしようもない。記号がなかったら、それはそれで困っちゃうわけですよね。
でも、その問題意識はわかります。コーヒーも「スペシャルティコーヒー」と呼ばれるものは味や風味が点数化されて、点数が高いものに高価がつけられます。数値とか記号のほうに選択の基準があって、製品そのものを実感にもとづいて買うことがなくなっている部分はあると思います。
――フェアトレードの商品については、「おいしさ」と「公正な取引であるという価値」を別のレイヤーとして考えなければならないのでしょうか。
箕曲 そこはですね、フェアトレードの製品とはいっても、「おいしくないと売れない」ということは明らかです。最終的には、みんな「頭で買っている」わけではないので。「生産者のためになっている」というメッセージが購買意欲を駆り立てるのはかなり限定的な状況なんです。「生産者のためになっているから買おう」となっても、その製品がその人にとって美味しくなかったり、高すぎたりしたら、くりかえし購入することはありません。
しかし、売れるものを作るということになってしまうと、それに対応できない生産者はフェアトレードのスキームから脱落していくという事態が起こります。さっきの話とおなじで、ここにもジレンマが出てくるんですね。
――買ってもらうためには、買い手の欲が湧くようなかたちにしないといけないのですね。
箕曲 コーヒーでも、ファッションや手工芸品のフェアトレードでもそうなのですが、お金を払うほうの立場がどうしても強くなるので、消費者の好みにあわせて作ることになります。すると、その製品を作れる技術レベルの人しかフェアトレードの対象にならない。以前インドネシアのバリ島の手工芸品のフェアトレード団体で聞いた話では、当初100人くらいの生産者と提携していたところ、品質基準や納期を守れず、結局残ったのは数十人だと言っていました。ただし、その数十人とは仲間意識が保てていて、結構うまくいっているようでした。
(コーヒーチェリーの収穫)
――前提に明らかな構造的格差があるのに、市場に乗せるとなるとそういう関係性のなかでやっていかなければならないのですね。
箕曲 高い技術レベルに合わせられるのは設備投資ができる人であって、変な言い方ですが、現地においてはそこそこ豊かな人。市場で選別されて残るのは、そういう人になってしまいます。
以前、日本のフェアトレード団体と一緒にラオスの農協の支援をしていたのですが、その時も高い技術レベルに合わせられない組合員がいました。もともとコーヒーの一次加工までを農家が担うことで付加価値をつけて高い報酬を支払うことにしていたのですが、さまざまな事情で加工できない組合員は、加工する余裕のある組合員にコーヒーチェリー(加工前の果実)を託して代わりに加工してもらうという形になりました。その分、コーヒーチェリーを託した組合員は、得られる報酬が少なくなってしまいます。
フェアトレードコーヒーは、実が完熟か、発酵の時間がどれくらいか、欠陥豆を除去できているかなど、品質が厳格にチェックされるので、手入れに時間がかかります。生産者はそういうことをすべてやってはいられません。だから彼らは、フェアトレード団体との取引とそうじゃない取引をそれぞれの家庭の事情に合わせて選んでいるのです。フェアトレード団体に全部売ってくださいと求められたら、彼らは困ってしまいます。