第7回
フィールドで学ぶ、生活者の経済としてのフェアトレードとは?――箕曲在弘さんインタビュー(後編)
2021.07.10更新
今日の「教えてください。」は、人類学者の
箕曲さんは、ラオスの農村をフィールドにして長年フェアトレードの研究をされ、今年3月には「フィールド教育」という新しい大学教育のあり方を提案する『人類学者たちのフィールド教育――自己変容に向けた学びのデザイン』(ナカニシヤ出版)という本も発表されています。
生活者としての実感が漂白されない言葉によって、遠い場所と自分とのつながりや、「オルタナティブな経済」と呼ばれるものを考えることができるだろうか、という素朴な疑問が浮かんだとき、私がぜひ取材してみたいと思ったのが箕曲さんでした。
後編では「フィールド教育」の話を中心にお届けします。フェアトレードの現場に赴くことは、大学教育にどんな可能性をもたらすのでしょうか?
(取材・構成 角智春)
(左:『人類学者たちのフィールド教育』ナカニシヤ出版、2021年、右:『フェアトレードの人類学』めこん、2014年)
これからの「つながり」の創造に向けて
――さきほど、生産者と消費者の「連帯」の難しさについて触れておられましたが、もう少し詳しく教えていただけますか。
箕曲 あるエピソードをお話ししますね。先ほど、私は以前日本のフェアトレード団体の手伝いをしていたと言いました。この団体はフェアトレードに近い「民衆交易」と呼ばれる活動をしてきました。これは国際的な産消連携のようなもので、製品の買取をするだけではなく、生産者のところへ行って課題を話し合いながら、ともに売り買いの関係を作っていく試みです。
1989年に生まれたこの団体はもともと、フィリピンで砂糖の価格暴落によって飢餓が起きたときに、現地の砂糖やバナナを買いつけて日本の生協に卸しはじめました。生協との関係が強い会社なんです。創業者は、1960年代に学生運動をやっていた方でした。学生運動の経験者のなかには、地域に根ざした形で生協運動を始めた人たちがいます。そのネットワークがこの団体の流通ルートに強く影響したんです。彼らにとって「連帯」は重要なキーワードでした。以前、創業者の堀田正彦さんと対談したとき、彼は「無条件連帯」という言葉を使っていました。学生運動を経験した人には、同族的な仲間同士の連帯という感覚が理解できるために、生協との連携はうまくいったようです。
一方、欧米流ではフェアトレードという概念が、日本の「民衆交易」団体の設立とほぼ同じ時期に生まれました。しかし、両者の進む道はかなり異なりました。欧米では認証制度が確立し、これはルールや原則を作ってそこに乗ってこれるのならば誰でも参加できるという仕組みになります。
仲間同士の無条件連帯の弱みは、世代交代が難しいという点です。すでにほとんどの人が引退していくなかで、同じ経験を共有していない人たちには連帯意識が引き継がれない。堀田さん自身もこの点は理解されていて、やはり欧米流のルール作りによって継承していくしかないとおっしゃっていました。
また、これは世代間の継承だけでなく、遠い空間を隔てた場所に住む生産者との連帯とも関係してくるように思います。同族的な無条件連帯って、やはり生産者との共有も難しいですよね。運動性を出せば出すほど、それを共有できる人は限定されます。連帯意識にもとづく取引は特定の時間や空間に制約されるものですから、世代や距離を超えて続けていくためには、今の欧米のフェアトレードのような仕組みを作るしかない部分があります。
(スタディツアーにおけるコーヒー農家訪問。※以下、写真はすべて箕曲さん提供)
――フェアトレードを「連帯」ではなく、「仕組み」にする?
箕曲 どちらも補完しあう関係が望ましいのだろうと思います。フェアトレードや有機栽培の認証制度のように、属人的な部分をなくして買取や組織運営のルールを決めていけば持続性はある。けれども、そのルールが地域固有の問題の解決に本当に寄与するのか、わからない部分もあります。
一方で、私は「連帯」という言葉がもつ、一種の重苦しさに少し抵抗感はあります。「交流」とか「つながり」くらいのほうがいいような気がします。「連帯」って、みんなが「グローバル資本主義」のような抽象的な敵に向かって戦っているというイメージがあるけれども、その「グローバル資本主義」なるものがいったい何なのか、それぞれ思い描いているものが違う可能性がありますよね。
ここでいう「交流」や「つながり」は、それぞれ生きる環境の異なる者同士が、同じ場を共有し、対話しあう中で共通する問題意識を発見したり、共通はしていないけれどお互いができることを持ち寄って、新たな試みを始めてみたりするきっかけを意味しています。
アナ・チンという人類学者が「スケーラビリティ(規格不変性)」と「ノンスケーラビリティ(規格不能性)」という相互に関連しあう対概念を提起しています。前者は同じ枠組みのまま拡張可能なものを指します。もとは情報技術の世界で使われていた言葉ですが、チンはこれを資本主義的世界の特徴を示すために応用しています。コンビニのフランチャイズはその典型ですよね。みな同じ規格で全国展開していきます。一方、「ノンスケーラビリティ」は規模の拡大がそもそもできないようなものを指しています。「交流」や「つながり」、そしてそこから生まれてくる何らかの試みは、ノンスケーラブルなものです。
先ほど連帯は世代間継承が難しいと言いましたが、一時的に存在していた連帯が消滅してしまったなら、また別の人たちが別の形で新たな連帯を築いていけばいいのだと思います。しかし、残念ながら、いまはノンスケーラブルなものを排除していこうとする動きが強いので、新たな連帯やつながりが生まれにくくなっているのではないかと思います。だからこそ、ノンスケーラブルなものに価値をおくようにしたいものです。
学生の「安定志向」を揺さぶるには
――箕曲さんは今年3月に『人類学者たちのフィールド教育――自己変容に向けた学びのデザイン』という共編著を出されました。この本は、人類学者と学生たちがフィールドでどのような学びの場を作ることができるのかについて、「自己変容」をキーワードにした提言や実践例を紹介しています。箕曲さんは、学生をフェアトレードの現場に連れていくプロジェクトをずっとされていますね。フィールドでの経験を教育活動へ広げようと思われたきっかけはなんですか。
箕曲 ふたつの理由があります。ひとつは、さきほども言ったように、フェアトレードをふわふわした言葉で捉えたまま普及活動をする学生がけっこういて、それはまずいと思ったからです。実際に生産者のところへ行き、彼らが作ったものを自分たちで製品化して売れば、それまでのイメージとは全然ちがうところに気づくはずだと考えました。
もうひとつは、学生たちがとても「安定志向」であることに驚いたからです。公務員とか銀行の一般職といった職業にできるだけ早く就くことが「安定」である、とうイメージを鵜呑みにしている感じでした。親から「安定したところに行きなさい」と言われつづけてきているし、留年も許されません。経済状況が上向きではないので安定志向になることはある程度理解できます。でも、それが本人にとって最善の選択なのかということはあまり考えられていない。そういう大学生が一定数そばにいて、本当にこれでいいのかということが、私が教員になって初めて考えたことだったんです。そのときに、彼らがフィールドに行って何を見つけてくるのかを知りたいと思いました。
そして、やっぱりうまく流れを作ることができると、「フェアトレードは生産者の生活に貢献している」「途上国の農村の人々は貧しい」といった一面的な思い込みが、よい意味でどんどん崩れていく経験を得られるんです。例えば、学生は日本のフェアトレード団体にコーヒーを売却している農協の組合員の家庭を数軒訪問して、インタビュー調査をすることで、家ごとに農地面積や子どもの数、車など持っている資産が異なるので、フェアトレードのスキームに適合的な農家とそうでない農家がいることを理解します。農家ごとに生計維持に対する考え方が違うんです。2019年に渡航した学生たちは、現地で得た知識を多くの人に知ってもらいたいと思い、コーヒー農家の実際の生活の姿を疑似体験できるボードゲームを制作することにしました。学生たちは現地の農家との交流をきっかけに、何かできることはないかと動機づけられて、創造的な活動に踏み出しました。それは結果的に、学生たちの人生の選択や見え方を変えていくことになると気づきました。フィールドに行ってガツンとした違和感をもつことが、今の大学教育において重要だとわかってきたんです。
(スタディツアーにおける村の生産集団長への聞き取り。奥の右側が箕曲さん)
「わからない」ということが評価される経験を
――箕曲さんたちは、フィールド教育の核に「評価できない」という性質があるとおっしゃっていますね。すごく面白いと思います。今の大学は経済的生産性を求めるようなすごく狭い評価主義になっていて、そこであえて「評価できない」教育を始めるのは難しいことだと思うのですが・・・。
箕曲 多くの学生が、なんらかの評価を内面化して、そこに自分を合わせていかないとまずいと感じていると思うんです。一度、評価軸から自由になる経験をしたほうがいいと私は思っています。
この本は「自己変容型フィールド学習」をテーマにしていますが、「こういう方向に変容すべき」という決まりは一切ありません。ただ、それでも学生は教員に求められていることを感じとって、安易なかたちで「自分は変わりました」という方向にもっていこうとしてしまう。本当はそこからも自由になってほしいのですが。なかなか難しくて、これからもやり方を改良していかないといけないと思っています。
――フィールドでの自己変容には、成長や成功と呼びやすい変化もあると思いますが、一方で打ちのめされるような経験もあると思います。それは、「私は学生時代にこんな経験をしました」とか「外国でこういうものを得ました」といった言葉遣いではほとんど表現できません。でも、確かにその人のなかではすごく大きな変化が起こっているわけですよね。
箕曲 私も、まさにそれがポイントだと思っています。フィールドに行って、「わからない」という状態にどうやってもっていくか。現地にいるあいだ、学生には毎日感じたことを話してもらうのですが、なかにはうまく言葉にならなくて長時間黙ってしまう人もいます。ここで、変にテンプレート化された語りではなく、むしろ言葉に詰まるということが大切なんだとこちらが言っておかないと、学生はなかなか気づいてくれないんです。
それまでの教育では、わからないことについて考え続けるということをあまりやってきていないはずなんです。「わからない」ということが評価される経験がなかった。フィールドでは、それぞれが抱える「わからなさ」が出てきたところで、それを考えてみよう、という方向にもっていきます。
いま、大学教育の現場でできること
――「アクティブラーニング」や「課題解決型学習/プロジェクト学習」(PBL)という概念がこの本のベースになっていますよね。「グローバル人材育成」なども含めて、近年の大学教育で盛んにいわれている言葉をある意味で逆手にとって、フィールド教育をやるということですか。
箕曲 そうです。教育現場には「グローバル人材育成」といった大きな流れがあって、それを完全に無視してしまったら、全然言葉が届かなくなるんです。一度大きな流れに乗るかたちで教育プログラムを作って、そのうえですこし外していくというやり方をしないと、大学教育の中ではなかなか受け入れてもらえないし、学生も集まりません。
――文科省の方針を批判するのは簡単だけど、今、目の前にいる学生に向けて授業するという立場でも考えていかなければならないと。
箕曲 そうなんです。制度主義・設計主義的に語る人たちはたくさんいて、それは大学という組織だからある程度しょうがない。でも、それに乗りきったら完全に間違った方向に行ってしまうので、一定の理解は示したうえで、「自己変容」といった大事な部分をある種のアジール(避難場所)として確保していくやり方にしています。
――アイデア次第でやりようはいくらでもあるということですね。大学教育についてそういうふうに話される方はあまりいない気がします。
箕曲 私自身も自己変容の結果としてこういう立場をとっているんです。「もう大学なんて」と諦めて、自分が大事だと思うことを試みなかったり、あるいは大学の外でやったりするという動きはあります。でも、今の大学の仕組みのなかでもやろうと思えばやれることはあるなと最近実感しています。
これは、やっぱりそれなりに大変なんです。時間を使うし、けっこうなモチベーションが必要で。でも、今の私が一番接する相手は、ラオスの人たちよりもむしろ大学生です。だから、彼らと向き合うなかで心ここにあらず、というのはまずいと思うんですよ。「本当は別のことがやりたいんだけど・・・」というふうに思いながら仕事するのは、やっている本人としても辛いです。
――大学がフィールドになって、変容が起きたということですね。
箕曲 まさにそうです。今のメインのフィールドは、教室であり、学生ですね。
(現地の農協幹部との打ち合わせ)
――フィールドに学生を連れて行ったときに、現地の方たちはどういう反応をされるのですか。
箕曲 10年ほど交流をやってきましたが、学生の訪問は現地の組合活動を活性化させるためにもかなり役立っています。たとえば、コーヒー生産者の協同組合は年齢層がわりと高いのですが、日本の大学生の訪問に影響を受けて、現地でも若者組を作って活動するようになりました。組合の代表は、自分たちのコーヒーを飲んでちゃんと売ってくれる人がいて、その人たちと毎年直接会えるのは嬉しいと言ってくださっています。フェアトレードの現地側で抱える問題のひとつは、消費者が見えないということです。学生が定期的に訪問するだけでも、そのあたりの実感はかなり変わってくると思います。
――大学の授業も、工夫次第でつながりや双方向的な変容を生む場になっていくのですね。今日はとても興味深い試みについてたくさんお話を聞かせていただき、ありがとうございました!
(終)