斎藤真理子さんインタビュー「韓国文学の中心と周辺にある斎藤真理子さんインタビュー「韓国文学の中心と周辺にある

第9回

斎藤真理子さんインタビュー「韓国文学の中心と周辺にある"声"のはなし」後編

2024.11.23更新

 ハン・ガンさんのノーベル文学賞受賞により、ますます世界的注目を集める韓国文学。その味わい方について、第一線の翻訳者である斎藤真理子さんに教えていただくインタビュー、本日は後編をお届けします。

前編はこちら

 2022年に刊行され大反響を呼んだ『韓国文学の中心にあるもの』(イーストプレス)で、斎藤さんはこう書いています。

 韓国文学に惹かれる理由を、「エンパワメント」という言葉で表す人も多い。私もよくこの言葉を使う。だが、エンパワメントにもいろいろな種類があるだろう。いってみれば、ハン・ガンの修復力と、朴婉緒の生命力。それが今のところ私に見えているものだ。

 ハン・ガンとならんで、韓国文学の核であり国民的作家として紹介されている作家・パクワン。1931年に生まれ、2011に亡くなったこの作家のことを、私はそれまでまったく知りませんでした。
 インタビュー後編では、斎藤さんがいちばん好きな作家かもしれないという朴婉緒と、韓国文学の底流を流れる「ソリ=声」について、じっくり教えていただきました。

(取材・構成:角智春)

saitomarikosan2.jpg斎藤真理子さん

なぜ朝鮮戦争に無関心でいられたのか

――『韓国文学の中心にあるもの』を読んで、朴婉緒という人のことをもっと知りたいと思いました。

斎藤 そうですか、嬉しいです。朴婉緒は、私のいちばん好きな作家かもしれません。

――朝鮮戦争の経験を書いた小説『新女性を生きよ』の引用を読んで、ものすごく衝撃を受けたんです。

斎藤 朝鮮戦争についてはたくさんの作家が小説を残していて、朴婉緒もそのひとりですが、いつどこでどんな経験をしたかによって、描くものが大きく変わるんです。1950年6月25日に北朝鮮軍が韓国に侵攻したことで戦争がはじまり、その後ソウルは2度にわたって北朝鮮に占領されます。このときに南に避難したかどうかで、人びとの経験がはっきり分かれるんですね。朴婉緒の場合は、避難せずに一家でソウルに留まって、北に占領される様子をまざまざと見た。『新女性を生きよ』にこの光景が書かれています(後述)

kankokubungakunochushin.jpg『韓国文学の中心にあるもの』

斎藤 でも、私自身がそういう状況を、隣の国のことなのに、認識するまでに何十年もかかってしまったんです。1980年代から朝鮮語の勉強をしてきたのに、長いあいだ戦争についてほとんど無関心でいられたというのが本当に不思議で。

――どうしてと思われますか?

斎藤 たぶん、制限されたソリ(声)だけでは、外国人が理解するにはちょっと文脈が足りなかったと思う。

――制限されたソリ。

斎藤 キムウンという詩人で、日本と朝鮮半島の間を行き来しながら翻訳家として活躍した人がいます。彼以上に日本と韓国の文学をよく知っていた人はいないし、詩もエッセイもとてもいいんですね。ただ、朝鮮戦争の経験から、北朝鮮と共産主義に対する憎しみが強くて。それが80年代の私にはなかなか受け止められなくて、「素晴らしいけど反共主義者だからな・・・」というふうに感じてしまっていた。当時は朝鮮戦争についてもまだはっきりしたことがわかっていなくて、戦争のきっかけは北朝鮮軍が作ったと明らかになったのは、ソ連崩壊後ですから。でも、彼の思いは、今考えれば当然なんですよね。朝鮮戦争というもの全体に対する痛哭の気持ちを私は受け取りそこねたと思うんです。
 同じ頃に朴婉緒が書いていた小説も、当時はほんのちょっとしか日本に入っていませんでしたが、たとえ翻訳されていたとしても、当時の私には隠されたソリまでは感じとれずに上滑りな読み方になったと思います。

honyakushatachi.jpg2024年10月刊行『在日コリアン翻訳者の群像』(SURE)で、斎藤さんが金素雲について語っています。

感覚を知っている人は言葉にしない

斎藤 時代ごとに、たくさんの文脈を受けとり損ねました。これはやはり朝鮮半島の南北分断体制のためだと思います。

――日本にいると現地の状況がわかりづらかったということでしょうか?

斎藤 分断固定化の問題は、もちろん頭では知っていたけれど、それが一人ひとりにどういう心情をもたらすものなのか、ということはわからなかったと思います。
 私は1991年から韓国に留学したんですが、実際にソウルに行ってみても、みんながつねに38度線(北朝鮮と韓国の国境・休戦ライン)を意識しているわけじゃない。もう何十年もあることなのでね。ソウルは38度線にけっこう近くて、民主化運動の中で歌われた歌の中で、ピヨンヤン(北朝鮮の首都)のことを、タクシーで何万ウォンで行けるのに、なんて歌っていたりするんですよ。直線距離で200kmぐらいですから、いくらでもないといえばいえる。そういう近さで今も準戦争体制があり、すべての男の子が徴兵されるという現実がある。だけど、それとは一見関係ないように若い人たちは元気に活躍している。両方が共存しているわけですね。
 その共存の感じというのは、外国から来た者にはつかみにくい。長く住んでいればだんだん染み入ってくるものだと思いますが・・・。

――なるほど。

斎藤 あと、その感覚を知っている人というのは、わざわざそれを言葉にしないですよね。

――ああ。

斎藤 分断が日常生活になっているというのはどういう気持ちかなんてことは、詩や小説になったりするときに伝わってくるもので、日常会話でわざわざ、しかも外の人には話さないでしょう。
 ただ文学作品を読んでいますとね、たとえば、私がとても好きなファン・ジョンウンの『年年歳歳』には、現代の家族のなかで、高齢の人たちがいつ二度目の戦争が起きても不思議ではないと思って体を構えている感じが、ありありと描かれています。こういうものが、本当にソリになっていないソリだと思うんです。

韓国人の喜怒哀楽を書き切った作家

斎藤 朴婉緒も、そうしたソリにならないソリを小説にしてきた人です。
 朝鮮戦争のことを描いた自伝的小説『新女性を生きよ』(1992年発表)と『あの山は、本当にそこにあったのだろうか』(1995年発表)は、民主化(1987年)後に言論の規制がかなり緩んでから書かれたものです。20歳前後で経験したことを、60代になってからほとんど記憶だけで書いたというからすごい。これだけ一気呵成に書けるってことは、それまでに溜まっていたものがすごくあるからでしょう。

shinjoseiwo.jpg右:『新女性を生きよ』(梨の木舎、1999年)、左:『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか/あの山は本当にそこにあったのか』(「新女性を生きよ」とその続編の新訳・合本。影書房、2023年

――満を持して戦争のことを書いたんですね。

斎藤 そうですね。朴婉緒はものすごく作品の多い作家で、長編小説集が全22巻、短編小説集が全7巻もあります。私の考えでは、その時代、その時代で本当によく、韓国人のあらゆる感情を書いた人っていう感じがするんです。

――おお。

斎藤 彼女は1970年に39歳でデビューして、90年代までは「主婦作家」と紹介されることが多かったんです。日本でも短編はいっぱい翻訳されていますが、経歴を見ると・・・。

――ほんとだ、「一男四女の主婦」とあります(『韓国現代文学13人集』古山高麗雄編、1981年)。

斎藤 そうそう。私もかつては主婦作家として見る癖があったと思いますが、そんな枠組みはまったく必要ない。韓国の現代をこんなに透徹した見方で書いた人はいないし、韓国人の喜怒哀楽を書き切った作家ですね。まぎれもなく国民的作家で、並み居る男性作家よりもはるかに深く韓国社会を見ていたといえると思います。
 こういうことはあとになってみないとわからないですね。今となって蓄積として読んだときに、これほどの人びとの気持ちを深く書いていたんだなと。

parkwanso.jpg1970~80年代に日本で刊行された韓国文学の短編集。朴婉緒の作品も収録。

中心にある無念さ

斎藤 朴婉緒は「夕日を背にして影を踏む」という短編でこう書いています。

  一人一人の人間はそれぞれ一個の宇宙であり、一個の宇宙の無意味な消滅は、あまりに無念で、切実だった

――「夕日を背にして影を踏む」より
(『世界』2024年11月号「言葉と言葉のかくれんぼ」)

 自分の兄を中心に、朝鮮戦争のときに亡くなった人たちをふりかえった言葉です。この「無念さ」という言葉がキーワードだと思います。韓国語には「無念」という漢字語はなくて、「억울하다オグルハダ」という言葉なんですけど。

――オグルハダ。

斎藤 「억울オグル」は、悔しい、悲しい、どうしようもない、無念だ、という気持ちをぜんぶぎゅっとまとめたような言葉で、よく使うんです。辞書を引くと・・・「重苦しい」と出ましたね。漢字で書けば「抑鬱ハダ」です。「抑制されて重苦しい」「濡れ衣を着せられて悔しさがある」「憤懣ふんまんやるかたない」とか。韓国ドラマでもよく聞きます。
 朴婉緒は、20歳のときに戦争が勃発し、ソウルが北朝鮮に占領されてみんなが避難したあと、自分の一家だけが残って空っぽの街を見たときのことを、こんなふうに書いています。

 この大都市にわたしたちだけが残っている。この巨大な空虚を見るのもわたし一人だけであり、この先押し寄せる不測の事態を見るのもわれわれだけだなんて。そんなことに耐えうるだろうか。

 このとき不意に(...)瞬間的な思考の転換が訪れた。わたしだけが見ているのなら、そこに何かあるのではないかと。

 わたし一人だけが見ているのなら、それを証明する責任があるはずだ。

 それは、いつか何か書くだろうという予感であった。

――『新女性を生きよ』230-231頁

斎藤 すごいですよね。「何か書くだろうという予感」という文を読んだときはびっくりしました。この思いは約20年後に見事に達成されたわけですね。

――すごい・・・。

斎藤 その中心にやはり無念さがあったのだと思います。
 朝鮮戦争って、あまりにも不条理ですから。兵隊が戦闘中に亡くなったというだけではなく、そういう理解のまったくできない仕方でも本当に大勢の人が命を奪われている。たとえば、ファン・ジョンウンの『年年歳歳』にも書かれていますが、どの農村でも北朝鮮軍が入ってくると、むりやり村の自治組織をつくって委員長・副委員長を任命するんです。地主たちは殺されて、ソ連式のやり方で貧農からトップを出す。ふつうのお百姓から。そして次に韓国軍が来たときには、彼らが真っ先に殺されてしまう。こうした死が、各地で大量に引き起こされました。ハン・ガンが『別れを告げない』で描いた済州島4・3事件もそのひとつです。本当に不条理ですよ。
 朴婉緒が国民作家になったのは、戦後の復興から現在までの庶民の生活を描きながら、その奥にある無念さというものをずっと書いた人だからだと思います。その集大成がこの自伝小説だったんじゃないかなと思う。『フィフティ・ピープル』で有名なチョン・セランさんなど、若い作家たちからもとても愛されていて、今もよく読まれています。

――若い世代にも読まれているんですね。

斎藤 朝鮮戦争については、現在にいたるまで言葉になる以前のものが気配として立ち込めていると感じますね。今活躍している作家の小説でも、「自分のおじいさんは北から逃げてきた人で......」といった設定がさらっと書かれていたり、戦争のことは背景にちらちらと出てきます。日本で読むとつかみにくいですが、それでも全体として通じるものはあると思うし、何冊か読むとつながって見えてくるものはあるんじゃないでしょうか。それもまた、すぐには聞き取れないソリだと思うんです。

――今日のお話をふまえて、いろんな作品を読んでみようと思います。

斎藤 じつは今後、朴婉緒の短編集の編訳をすることになっているんです。私の好きな一世代前の韓国作家の短編シリーズを出すことになって。いずれ正式にお知らせできると思います。

――それはものすごく楽しみです! 素晴らしいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

saitomarikosan3.jpg姜恩喬の「ソリ集」を読む斎藤さん

(おわり)

ミシマガ編集部
(みしまがへんしゅうぶ)

編集部からのお知らせ

今週末はぜひ「K-BOOKフェスティバル」へ!

 2024/11/23(土)~24(日)に東京・神保町にて、”韓国の本”をこよなく愛する人たちのためのお祭り「K-BOOKフェスティバル2024 in Japan」が開催! 斎藤真理子さんがトークイベントに出演されます。
 チョン・セランさん、キム・チョヨプさん、イ・スラさんなど大人気作家が来場するほか、韓国の出版社も多数出展。韓国の本の世界に浸る、またとない機会です。

●11/24(日)13:30–15:00
翻訳者対談「どれから読む? チョン・セラン作品」(出演:吉川凪、斎藤真理子、すんみ、古川綾子)

詳細はこちら

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