朴先生の日本語レッスン――新しい「普通」をめざして

第10回

電話って当時あったのでしょうか・・・?(後編)

2024.10.04更新

(前編はこちらから)

 話を僕の経験した出来事に戻しましょう。
「ポケットベル」どころか、連絡をとるために「固定電話」と「公衆電話」という人工物しかなかった時代を生きていた人間は、誰しも一旦外に出ると、誰とも連絡が取れないということを熟知の上で行動を取っていました。1986年ならば、なおさらのことです。約束の時間に遅れそうな時に取るべき方法は、さきほども申したように3や4の回答者のやり方が「普通」でした。
 一方、その時代の通信手段について分からない人は、「電話って当時あったのでしょうか・・・?」とか「一旦バスに乗って乗客のだれかに伝言をお願いする」ような回答をするのも無理はないと思います。
 いまはなんらかのトラブルが起きて、待ち合わせをした人に連絡をしないといけなくなったときには当たり前のようにスマホをいじるのですが、「スマホへの欲望」あるいは「スマホのニーズ」なんか、あらかじめ「人の内側」に存在するものではなかったのですね。
「Wi-Fi(ワイファイ)」のような無線インターネットというネットワークインフラや、それを管理する制度(韓国ならば、「放送通信委員会」)ができて、スマホテクノロジーが次々と開発され、LTEや5GのようなICT(情報通信技術)という社会技術的環境が体系化されてはじめて、主体の「スマホのニーズ」や「スマホへの欲望」が登場するのです。
 ですから、人のニーズや欲望は「ニーズと欲望を満たすテクノロジーや制度」が出現した後に、事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象するものだと思います。 極端な言い方をすると、現代には「スマホのニーズ」を地球誕生以来の自然界のルールであるかのように信じ込んでいる子どもがいるかもしれません。
 どれほど本人にとってリアルであっても、それを指し示す言語記号とシンボル(例えば携帯電話やスマホ、Wi-Fiなど)や、それを満たす社会・技術的装置が存在しないような欠如は「欠如」としては認知されないのです。
 例えば、 今年のように9月半ばになっても相変わらず猛暑(韓国語では「爆炎(ポギョム)」と言います)の日が続いているときに、「エアコン」や「扇風機」がないことを「欠如」だと認知しても、「飲むと、体温がぐっと下がる薬」とか「冬の冷気をそのまま保存して夏に使えるマシン」がないことをけっして「欠如」だと思わないはずです。
 ですから、「1980年代の大学生はスマホところが、携帯もなかったので本当に不便だったはず」だとよく言われますが、1986年をリアルで生きていた僕のような人間は、当時外に一旦出ると無線でパーソナルコミュニケーションが取れないことをある種の「欠如」とは全然思わなかったのです。 ということは、個人のニーズあるいは欲望は自然発生的に個人の「内側から」湧き出すものではなく、それを満たす商品やサービスを提供するサプライヤーの側が創り出すものなのです。ヴィゴツキー的に言えば、ニーズあるいは欲望は社会・文化・歴史的に構築されるものです。
 このように僕の体にしみこんだヴィゴツキー思想(たとえば「道具に媒介された心」)を自分の中で長い間じっくり熟成させ、僕の生活実感と身体実感に基づいた言葉を必死になって手探りや手作りすることによってはじめて、ヴィゴツキーの言葉ではなく、街場の人が使う「ふつうのことば」に置き換えることができると思います。
 人間にとって、自分の周りに使用可能な(available)人工物の種類によって、世界の見え方や連絡の取り方も変わってきますね。僕の同世代は携帯の普及によって、「待ち合わせ」という行為が変わってしまったことに気づいているでしょう(多くの人はもうすっかり忘れているかもしれませんが・・・)。特に打撃を受けたのは「小さな待ち合わせ」でした。決められた時刻に決められた場所で、というような七面倒なことをしなくても、だいたいの時刻にだいたいの場所にいれば、あとの「詰め」は携帯電話で指示できるからです。
 たとえば、デパートに一緒に行った友人と、僕は5階にあるメンズショップと、友だちは7階にあるメガネ屋さんを別々見ることにして、「じゃ1時間後に、あそこの芸能人のおねえさんのポスターが貼ってある前でね」みたいな、今は見事に歴史的な遺物になってしまった「小さな待ち合わせ」がありました。ところが、そういう小さな待ち合わせは絶滅危機に瀕し、その代わり、「あ、俺、ちょっとあっち見てくる」と言って人がいきなりすーっと去っていく、こざっぱりした社会が出現してしまいました。「ちょっと待ってよ!俺、携帯持ってないんだけど・・・(僕はみんなが携帯持ちはじめるとき、自分一人だけ持たなかった時期がありました)」と言うと、相手は呆然として、僕とデパートの二階で1時間後に再会するために必要な、太古の儀式を必死に思い出そうとしたのでした。(なんだっけ・・・、火を焚いて煙を起こすんだっけ・・・? ホラ貝は持ってないし・・・みたいなかんじで。)
 冒頭で僕が取り上げた「友だちにどう連絡すればいいでしょうか」という問題状況は、2024年のいまならだれでも簡単にその解決方法を思いつくはずだと思います。「とりあえず友達にすぐ電話をする。電話がつながらなかったら、LINEかショートメッセージをする。」スマホという革新的な人工物のおかけで僕が「待ち合わせ革命」と命名していたものを、今の人は「革命」を呼ばずに「普通」と呼ぶ(もっと正確にいうと、「普通」とも意識しない)時代を生きています。
 携帯電話の普及が、ある時点で「待ち合わせ革命」を引き起こしてしまったように、スマホの普及が、「待ち合わせ革命」だけでなく、「マーケティング革命」、「買い物革命」、「運転革命」、「翻訳や通訳革命」や「写真撮影や共有の革命」「講義革命」「銀行取引革命」「読書革命」「フォト・ジャーナリズム革命」などを引き起こしているのです。でもその「革命」と呼ばれているものが「普通」になってしまった時代を我々は生きています。
 こうやってこの連載では、多くの人が無意識的に口にする「普通」という言葉自体も様々な角度からとらえ直すことを目指しています。そうした言葉の実践も「新しい普通を一個増やす」ことにカウントしてもいいと思います。この文章を書いているうちにふっとある詩人の言葉が思い浮かびます。
 フランスの詩人ジャン・コクトーはつぎのような美しい言葉を残しています。

 これがポエジーの役目である。 ポエジーはことばのすべての力の中で、物の覆いを取る。ポエジーは僕たちを取りまいている。そして感覚がただ機械的に記録していた驚嘆すべきものを、マヒのゆりさます光線の下で、裸にして見せる。
 肝心なことは、彼の心や、彼の眼がいつも表面を滑っているものを、初めて見たり、初めて感動するかのように思われる角度や速度で見せることである。
 これがまさしく人間に許された唯一の創造である。
 そのわけは無数の視線が、銅像を錆びさせることが本当であるとしたら、永遠の傑作である常套語は、それを見えなくし、美しさを蔽いかくす厚い錆で、 蔽われているからである。
 一つの常套語を正しい位置においてみたまえ。それを洗濯してみたまえ。磨いてみたまえ。輝かせてみたまえ。ことばが初めに持っていたときの若さ、そのときのままの水々しさと、ほとばしりとで、人の心を打つように。そうすれば諸君は、詩人の仕事をしたことになる。(窪田般彌・新倉俊一編『世界の詩論』ジャン・コクトー「職業の秘密(抄)」より、佐藤朔訳、青土社)


「言葉を洗濯して磨いてみたまえ」、と、とてもユニークな表現でコクトーは大切なことを教えているように僕には見えます。

 人間という生き物は一度ある言葉を獲得してしまうと、その言葉についてじっくりと考えたり、そこにどんな手垢がくっついているのか、そこにはどんなイデオロギーが入っているのか、それは物事の本質からどれだけ離れているか、自分が善意のつもりで使っている言葉に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識できるか、そういうことを吟味せずにただただ使ってしまいます。言葉と一緒にある価値観、すなわち言葉の手垢が自分に入ってきてしまっていることなど気付かないでしょう。しかし、それが後々、物事を見たり考えたり判断したりする上で大きな影響を及ぼすようになるのです。言葉を不用意に使うのは、言い換えると、「普通」という言葉を「普通」に使うのは、ある種の思考停止につながる、とても恐ろしいことでもあると言えるでしょう。
 ですから、 言葉は多くの人によって、過酷なほどに酷使され、すり減り、手垢にまみれ、汚物がまつわりついた「使い古し」の言葉になってしまいがちです。「言葉という道具」一つ一つについて、付着している手垢にまみれた観念を洗い流してみることが、欠かせない作業だと思います。

 スマホという道具と様々な革命について話をしているところでした。
 スマホは、人の心を変え、行動を変え、社会まで変えてしまいました。私たちは、突拍子もないことはまずニーズしません。日常したくなることはほぼ限られている。わたしたちの行為のニーズは、その行為を可能にする道具との関係でわき起こるからです。
 でも、カメラが発明される以前に目にしたものを写真に残そうとする欲求は自然発生的には起きなかったが、そんな夢の機械を夢想する者もまた間違いなくいたように、いつの時代も人の新しい欲望(あるいは欠如。ちょっと変な言い方ですが)を引き起こそうと夢想する者はいると思います。つまり同世代のニーズにはないものを創り上げようとする者ということです。
 このニーズと道具のダイナミックな関係性は書き物についても言えると思います。スマホのように、書物も人の心を変えたり、行動を変えたり、書物の生態系も変えると思うのです。
 僕は大学の教員という身分で論文を書いていたときに、一回も苦痛なしに自分の考想を論文の投稿規定に合わせて書いたことはありませんでした。
 論文において、今回のエッセイで書いたような「自分の身体実感と生活実感」に基づいた身近な例を入れるような書き方をすると、「うちの論文の書き方の形式に合わないから」とか「文学的な表現がたくさんはいっているから」とかの理由で「不採択」が続き、がっかりしていました。特に、「ヴィゴツキー心理学」に関する論文は一回も韓国の学術ジャーナルに掲載されたことがありませんでした(幸いに日本語や英語で書いたものは掲載されました)。
 その表面的な不採択の理由より、僕が注目したのは、僕の書き物は同じ業界人の「あらかじめ存在していたニーズ」には対応していないのが本当の不採択の理由だということです。僕の書き物は同時代の読み手(主に学会の査読者)のニーズにはまったく対応せず、同時代のリテラシーを超えていたからです。
 まことに残念ながら、僕が実践している「自分の身体実感と生活実感に基いて思想を嚙み砕いていく」という書き方や「街場のふつうの言葉で思想を語り直す」という述べ方は、韓国内では学術的にはいまだにぜんぜん認知されておりません。せいぜい個人的なメモワールや、エッセイのようなものとして扱われているだけです。
 そういう構え、そういう文体によってしかたどり着くことのできない学術的な「深み」や「高さ」そして「面白さ」があるということを認めてくれる人はいまのところ韓国内では皆無です。
 現在、韓国の作家が書いたエッセイや小説は頻繁に日本語訳が出ているのですが、一方、現代の韓国の研究者が書いた学術書で、次々と日本語訳されて日本の一般読者に読まれているというはケースは、僕は寡聞にして存じません(逆のケースはたくさんありますけども)。
 それは韓国の学術書が 同じ業界人(査読者)の「あらかじめ存在していたニーズ」だけを当てにして書かれているからだと思います。 学位論文なら主査が気に入るような書き方をする。ジャーナル論文なら査読者が気に入るような書き方をする。その延長線上に学術書もあると思います。けれども、そういう書物は宿命的に短命なものにならざるを得ない。査読され、採点され、業績として評価され、ジャーナルに採録されたり、書き手が教員ポストを獲得した段階で、その「歴史的使命」を全うしてしまいます。評価が下った段階で、もうそれ以上の読者を必要としないからです。国内でも「ごく限られた読者しか読まない」書物が国を超えて読まれるわけがないでしょう。
 ですから、僕の書き物(例えば、ヴィゴツキー心理学に関するもの)がこれから韓国の書物の生態系で生き残るためには、「そのような書き物を求めるような読者」「そのような書き物を読むことができるような読者」を創り上げるところからはじめる他ないと思います。書物の本質は「それを読むことのできるようなリテラシーを身につけた読み手」や「それを読むことに愉悦を覚える読み手」を創り出すことであって、あらかじめ存在する読み手のリテラシーやニーズを当てにすることではないと思います。
 僕は、読者が僕の書いたものを読んで、この世にそのような学的領域が存在するということさえ知らなかった学知を「図らずも」学んでしまう、という仕方で学んでくださったら、こんなに嬉しいことはありません。読者の「欠如」を創り上げることを目指そうとしています。
 韓国国内(できれば日本でも)で新たな「読み手のニーズ」を創り上げること、それこそ「読み方の革命」あるいは「新しい普通を一つ増やす」ような、書物の生態系を再編することが、ヴィゴツキー心理学から得られる大事な教訓であり、これからの僕のミッションだと思います。

朴東燮

朴東燮
(ばく・どんそっぷ)

1968年釜山生まれ。釜山大学教育学科卒業 (文学士)。釜山大学教育心理学科卒業 (教育学修士)。 筑波大学総合科学研究科卒業(哲学博士)。現在独立研究者。学問間の境界と、地域間の境界、そして年齢間の境界を、たまには休みながら移動する「移動研究所」 所長。

主な著書(韓国語)に『レプ・ヴィゴツキー(歴史・接触・復元)』『ハロルド・ガ ーフィンケル(自明性・複雑性・一理性の解剖学)』『成熟、レヴィナスとの時間』『動詞として生きる』『会話分析: 人々の方法の分析』。
内田樹著『街場の教育論』、森田真生著『数学の贈り物』、三島邦弘著『ここだけのごあいさつ』(以上、ミシマ社)などの韓国語版翻訳者でもある。

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